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ロスト・メモリーズ  作者: 由里名雪
鈴白凜
1/33

鈴白凜ー1ー

 真夜中の閑散とした住宅街を、俺は必死に走っていた。まばゆい輝きを放つ月が暗い夜道を照らしている。お陰で周りの見通しは良く、入り組んだ道を駆け抜けるのには好都合だった。

「はぁ、はぁ────」

 伸ばした俺の右手には、少女の左手が繋がれている。絶対に離さないよう固く握りしめ、暗い夜道をひた走る。俺は一人で走っているのではなく、一人の少女と一緒に走っていたのだった。

「次は、そこの角を左に曲がるぞ!」

 俺の言葉に少女は黙って頷き、手を握り返してきた。不安に押し潰されまいと耐えるかのように。

 どれだけ走ったかわからない。既に俺も少女も、息絶え絶えだった。

 全力で走り酷使した足は悲鳴をあげ始めている。少女も同じなのだろう、息苦しさと襲い来る足の痛みに顔を歪ませながらも、必死に走っていた。

 しかし、2人で一緒に、しかも全力で走るのは予想以上に辛く、少しずつだが最初よりもペースが落ちてきている。

 まずい、このままでは────追いつかれる。

「もうっ……走れないっ……はぁ、はぁ」

 荒く呼吸をしながら少女が訴えてきた。俺の手を引っ張り速度を緩めるように促してくる。

「もう少し頑張れよ!まだ逃げ切った訳じゃない!」

 喋るのに使う酸素すら足りないほどだったが、酸欠に喘ぎながらも俺は少女に言った。

 ふと後ろを振り返る。

 先ほど曲がった角から追っ手が現れる気配はない。だが、安心はできない。少女の体力を案じて少しペースを落とし、ひたすら走る。

「捕まったら間違いなく、殺されるぞ」

 少女は俺の言葉を聞くと泣きそうな顔になりながら頷いた。

 そう、間違いなく殺される。

 何しろ追って来ているのは、刃物を持った男だ。明確な殺意を持った殺人犯。それも、見境なく人を刺すような通り魔。

「くそ、こんなことなら夜中に出歩くんじゃなかった…っ」

 現在の状況を呪い、毒づく俺だった。だがそんなことをしても状況に変わりは無い。今すべきことは、少女を連れて追っ手から全力で逃げることだった。

 不安になり、再び後ろを振り返る。

 そこには、鋭いサバイバルナイフのようなものをギラつかせた、目出し帽を被った男がいた。

 距離は20mほど。油断すればたちまち追いつかれてしまう距離だった。

「──っ、くそ!」

 再びペースを上げる。少女も男の存在に気付いたようだ。手の震えを無理やり抑え込むように、俺の手を握ってくる。

 心臓は緊張と息切れで、張り裂けそうなほど鼓動していた。

 早く、早く逃げなければ。

 半ば強迫観念のような焦りが俺の足を動かす。

 ────そのとき。

「────っ!!」

 不運なことに、少女の足がもつれ、転倒してしまった。俺も少女に引っ張られるように前に倒れこむ。

 地面に叩きつけられ、衝撃が俺の体を襲った。

 まずい。これはまずい。追いつかれる────。

「っくそ、早く立て!!捕まるぞ!!」

 転んだときに擦りむいたのだろうか、足がズキズキと痛んだが構っていられない。迅速に体制を立て直して立ちあがり、少女の手を引っ張る。

 そうこうしている間にも、男はどんどん距離を縮めてくる。

 焦りと恐怖が俺を夜の闇に引きずり込むように襲い来る。

「いっ……た……!」

 少女が苦痛に顔を歪める。捻挫でもしたのだろうか、足を引きずりながら立ち上がった。

 状況は最悪だ。先ほどのように走るのは不可能だろう。

 どうすればいい。早く逃げなければ。このままでは殺される。

 焦りが思考を麻痺させ、心臓は早鐘のように打ち付けている。

 思えば、少女をおぶってでもとにかく逃げるべきだったが、突然のトラブルに気が動転していた俺には冷静さが欠けており、素早く行動することができない。

 ついに、男が間近に迫る。慌てて少女の手を引き逃げようとするが、遅い。

 逃げ出すよりも先に、男の手が少女の手を捉えた。

「ひっ……!」

 少女があまりの恐怖に目を見開き、引きつった声を上げる。

 くそ、こうなれば俺が身代わりになってでも少女を逃がすしか無い。

 冷静な思考を失った俺でも、その考えは自然に頭に浮かんだ。

 今にもナイフを振り下ろさんとする男の右手を必死に掴み、体当たりをして突き飛ばす。

 もんどり打って俺も男も地面に倒れこむ。

 俺は力を振り絞り、叫んだ。

「早く……っ、逃げろ!!」

 少女は目に涙を浮かべながら立ち竦んでいる。

「で、でもっ!」

「でもじゃねえ!お前も殺されたいのか!!」

 男が体制を立て直し、仰向けに倒れたままの俺の上に馬乗りになると、ナイフを構えた。

 そのまま俺の喉を目掛けてナイフを振り下ろす。

 間一髪のところで、俺は両手で男のナイフを持つ右手を受け止めた。

 膠着こうちゃく状態になり、男が俺の手を押し返そうと力を込めてくる。俺も負けじと押し返す。

「早く……このままだとお前も殺されちまうぞ……!」

「できない……っ、できないよ……。このまま見捨てて逃げるなんて……!」

 少女はもはや立っていられず、地面にへたり込みながら泣きじゃくっている。

「頼む……っ、お前だけでも逃げて……くれ……っ」

 徐々に、男の手が俺の手を押し返す。俺はこのまま喉を切り裂かれ、血を撒き散らして死んでしまうのだろうか。恐怖が体を支配する。震えが止まらない。もがこうとするも体が思うように動かない。肌がチリチリとするほど、間近で殺意を向けられている。そして俺は見てしまった。目出し帽から覗く二つの眼光を。

 極度に見開かれたその目は、興奮したように瞳が揺れている。

 ────こいつは楽しんでいる。人を殺すという行為を。

 きっとその気になれば俺の手なんか簡単に押し返し、あっという間に俺を殺すことができるのだろう。

 しかし敢えてそれをしないのは、こちらが恐怖に怯えながら死んで行くのが楽しくて仕方が無いからなのだ。

 徐々に、徐々にナイフの刃先が俺の喉元へ押しやられて行く。

 そしてついに刃先が喉元に触れた。ギリギリのところで、俺も全力で押し返そうと抵抗するものの、既に腕の筋力は弱りかけていた。

 刃先が喉元に食い込み、鋭い痛みが走る。きっと、少し出血しているだろう。

 恐怖、恐怖、恐怖。死に対する原始的な恐怖が俺を襲う。

 まぶたを閉じ、歯を食いしばる。

 俺もついに、ここまでか────そう死を覚悟したそのとき。

 遠くから、特徴的なサイレンの音が鳴り響いて来た。段々とその音は近づいてくる。

 警察だ。

 男もその音に気が付くと、まさに俺の喉を突き破らんとしていたナイフを退け、素早く立ち上がると、近づいてくるサイレンとは反対の方向に向かって逃げ出した。去り際に、まるで次こそは逃がさないと言うかのように、粘つく視線をこちらに寄越しながら。

「た、たす……かった……」

 極限まで恐怖に縛られ、緊張していた体が、やがてくる安心によって解放されていく。

 どっと疲れが押し寄せて来た。しばらく立ち上がることもままならないだろう。

 ふと、少し離れて泣きじゃくっていた少女がふらつきながらこちらに近づいてくる。そして俺のそばに来ると座り込み、涙でぐしゃぐしゃになった顔で俺の顔を除きこんだ。

「よかった……本当によかった……!」

 そのまま俺の腹に顔を埋めると、再び泣きじゃくりだした。

 なぜすぐに逃げなかったのだろう。本当に、どうしようもないやつだ。一歩間違えば、自分も殺されていただろうに。

 けれど、あの時少女が逃げて、あの場に俺1人が取り残されていたとしたら────。

 きっと、最後まで抵抗することはできなかっただろう。逃げなかったことについては今にもビンタして説教してやりたいところだけど、そう思うと助かったのは少女のお陰、なのかもしれない。

 逃げずにいてくれてありがとう、と胸中で密かに感謝しながら、夜中の冷たいアスファルトの上に身を任せた。自分の足元で起こっていることなどまるで他人事のように、月は相変わらず煌煌こうこうと輝いていた。

 




 事の発端は少し前に遡る。

 七月の初夏の暑さに当てられて、俺は悶々とし眠れずにいた。ふと思い立つと、ベッドから起き上がる。気分転換を兼ねて外を少し散歩することにしたのだった。

 時刻は夜中の1時を回ったところだった。二階にある自分の部屋から出ると、既に寝静まった家族を起こさないよう極力物音を立てずに玄関まで降りる。

 今の自分は白いTシャツに黒いハーフパンツといったラフな格好だったが、夜中だし外を出歩いても問題ないだろう。

 家の中の篭った熱気に焦れったくなり、靴を履くと半ば飛び出すように外に出る。

 少し歩いていると、緩やかな夜風が通り抜け、火照った体に丁度良い冷涼感をもたらした。

 満月に程近い月は明るく輝いており、夜の閑散とした住宅街を照らしている。

 夜の散歩というのもなかなか悪くない。周囲の家はもう既に寝静まっており、電気の点いている家はなかった。所々に設置された街灯がぽつぽつとあるのみで、辺りには自分以外には動くものの気配すらない。静かな夜だった。

 そのままぼーっとしながらしばらく歩き、そろそろ帰ろうかと思った時だった。

 少し離れたところで、なにやら揉み合っている人影が二つ見えた。

 何事かと思い、近づいてみる。

 次第に二人の男女の姿がはっきりと視認できるようになる。揉み合っているのは高校生くらいの少女と、中肉中背の男だった。

 不審者に少女が襲われているのだと気が付くと、俺は男に向かって走り出していた。

 さらに近づいて、ようやく男がサバイバルナイフのような刃物を持っていることに気が付いた。

 冷や汗がどっと体から吹き出す。

 まずい、早く助けなければ。

 幸い男はまだこちらに気が付いていない。少女は男に掴まれた左手を振りほどこうと必死にもがいている。

 俺は足に力を込め、全力で走り出す。その勢いで男に体当たりをする。突然のことに、なにが起こったのか把握できていない様子で男が地面に倒れこんだ。

「大丈夫か!?早く逃げるぞ!」

 少女は助けが来たことに心の底から安堵したようで、その場に座り込みそうになる。慌てて体を支え、その場に立たせる。

「あなたは、だれ?」

「自己紹介は後だ!今は早く逃げないと!」

 男の方を一瞥いちべつすると、男は体制を立て直し、立ち上がりかけていた。

 慌てて少女の手を握り、全力で駆け出す。とにかくこの男から離れることが先だった。

 少女は急に走り出した俺に強引に引っ張られながら、一緒に駆け出した。

 空いている手でポケットから携帯電話を取り出し、110番を押す。

「もしもし、警察ですか!?」

「どうしました?」

 電話の向こうで、若い男の声がした。こちらのただならぬ声色に気が付いたのだろう、声に心配の色をにじませながらこちらに先を続けるよう促して来る。 

「今、刃物を持った男に追われているんです!場所は────」

 目印になるものはないか、走りながら辺りを見回す。

 ふと、辺りが見慣れている道であることに気が付いた。それもそのはず、俺が今走っているのは俺が通う高校への通学路だった。

 俺が通っている新明しんめい高校は、住宅街のど真ん中に建っている、少々特殊な立地だった。

 今走っている道の曲がり角を幾つか曲がれば、すぐ新明高校に辿り着ける。

 だがこの状況で新明高校に向かうのは得策ではなかった。何しろ真夜中だ。学校が空いてる訳などなく、方向的に考えて新明高校に向かうのは男に行き先を教えているようなものだった。

 ここは、入り組んだ住宅街の道を駆け抜け、男を撒くことにした方が良い。

 そう考えた俺は、電話に助けが一刻も早く来るように祈りながら場所を告げた。

「新明高校周辺の住宅街です!」

「直ちにそちらへ向かいます!安全な場所へ逃げてください!」

 俺は電話を切ると、ひたすら走ることに専念する。

 走りながら、ふと最近話題になっていたニュースが脳裏に浮かんだ。

 最近、市内で連続殺人事件が発生している。被害者は皆1人で居るところを襲われており、その誰もが刃物で刺されて殺されていた。

 通り魔的な犯行で、おそらく夜に運悪く出歩いていた人が標的にされていたのだろう。

 ぞくり、と背筋が寒くなった。

 もしあの男がその連続殺人の犯人なら。

 捕まれば間違いなく────殺される。 

「おまえを襲っていたあの男、多分連続殺人犯だ」

 俺の言葉に少女は身震いした。それもそのはずだ。さっきまでその男に殺されるところだったのだから 

「私たち……助かるんでしょうか……」

 消え入りそうな少女の声。今にも泣き出しそうだった。 

「大丈夫だ。警察も呼んだ。後は追って来るあいつを撒けばいいだけだ。俺たちは絶対に助かる」

 少女を勇気づけるつもりで俺は答えた。俺の言葉に、少女は黙って頷いた。

 遥か後ろで、男が俺たちを追って走ってくる気配がした。

 走る速度を緩めてはならない。立ち止まることは即ち死を意味していた。 

「まずは、そこの角を右に曲がるぞ!」






 そうして、今に至る訳だった。

 しばらく横になって起き上がれるようになった頃には、少女も泣き止んでいた。もう直警察も来るだろう。事情聴取やらなにやらで面倒くさいことになりそうだが、今は助かった事を素直に喜ぶべきだと思った。

 少女は泣き腫らして赤くなった目をこちらに向けている。視線の向かう先は丁度こちらの喉の辺りだった。

 そこでやっと自分が喉を刺されかけていたことを思い出した。

 右手を喉元に這わせる。

 ちくっとした痛みが喉に走った。手には少し血が着いていた。やはり、大量ではないものの出血していたようだ。 

「あの……大丈夫ですか?喉……」

 心配そうにこちらの顔を覗き込みながら少女は言った。 

「大丈夫、軽い怪我だから。出血も対したことないみたいだし」 

 そう少女に返し、疲労で悲鳴を上げる体を無理矢理起こす。

 少女は申し訳なさそうに項垂うなだれ、ぽつりと呟いた。 

「ごめんなさい……私の所為せいでこんなことになってしまって」 

「大丈夫だって。お互い助かって良かった。そっちこそ、怪我はしてない?」

 俺がそう言うと、少女の方も言われて気付いたように右の足首をさすった。

「軽い捻挫なので、大丈夫ですよ」

 ほっと息をついた。とにかく大きな怪我はしていないようだ。

 そこでふと、お互い自己紹介すらしていないことに気が付いた。

 さっきまで生きるか死ぬかの瀬戸際だったので、そんな暇はなかったといえばその通りなのだが。 

「俺は篠ヶ谷。篠ヶしのがやしゅんだ。好きに呼んでくれ」

 こちらが名乗ると、それが自己紹介だと気が付いたようだ。少女も俺に習い名乗る。

「私は、凛。鈴白凛すずしろりん。呼び捨てで構わないですよ」

 お互い名乗り終えたので、兼ねてより疑問に思っていたことを凛に質問した。 

「じゃあ、凛。お前こんな時間になにしてたんだ?お前みたいな年の女がこんな真夜中に出歩いてたら、襲って下さいって言ってるようなものだろ」

 俺は凛をとがめるつもりで聞いた。

 凛は少しばつが悪そうにうつむく。

「それは……」

 歯切れの悪い返事が返ってきた。

 何か、言いにくい事情があるのだろうか?

 少しの間が空き、再び開いた凛の口から出て来たのは理由の説明ではなかった。

「し、篠ヶ谷さんこそ、なんでこんな真夜中に出歩いていたんですか?」

 少し口ごもりながら質問を質問で返してきた。

 やはり、言いづらい理由でもあるのだろうか。

「俺はただの散歩だよ。寝れなくて気分転換にと思ってさ」

 思っていたより単純な理由だったのか、凛は拍子抜けしたと言わんばかりにぽかんとしている。 

「それで散歩してたら、お前らが揉み合ってるから、慌てて助けに行こうとした」

「あの……改めて、本当にありがとうございます」

 深々と頭を下げて礼をする凛。

 しばらくして顔を上げると、なにやら考え込んでいる様子で押し黙ってしまった。

 時折こちらを見る瞳に、迷いのようなものがあるのを感じた。

 事情を話すことを躊躇ためらっているのだろうか。

 俺はそのまま凛が語り出すのを待つ。

 何度かの逡巡しゅんじゅんの後、やがて意を決したように凛が俺の瞳を見据えた。

 そして再び話し始める。

「私、実は────記憶がないんです」

 少女の口から出てきたのは、突拍子もないことだった。記憶がないとは一体どういうことだろうか。なぜこんな時間に出歩いていたのだろうか。様々な疑問が頭からとめどなく湧いてくる。

「記憶がないって……どういうことだよ」

「どう説明したらいいんでしょうか……」

 凛は口をつぐみ、再び考え込む。そして、訪れた沈黙を破り再度語り出した。

「ある日私は眠りから覚めました。自分の家の、自分の部屋の、自分のベッドの上で。何の変哲もない朝でした」

 当時の状況を思い出すように、訥々と語る。

「でも、目覚める前の記憶が一切なかったんです。自分は誰で、今どういう状況に置かれているのかということは何故か理解できました。なのに目覚める前の事は何一つ思い出せませんでした」

 目の前の少女が言っている事を、俺はにわかには信じられなかった。

 動揺した俺は、相槌を打つこともできずにただ話を聞くことしかできなかった。

 そんな俺の様子に構わず、凛は話し続ける。

「どうやら私は新明高校に通っているようです。私の部屋に制服もありました。学校への行き方もわかります。部活には入っていません。そういった自分の置かれている“状況”は理解できるんです。ですが……」

 凛の声が震える。今まで抱えてきた疑問、不安、そういった感情を声に乗せて吐き出すように凛が告げる。 

「何故、自分がその状況に置かれているのかがわからないんです」

 一体全体どうなっているのだろう。殺人鬼に襲われていた少女は記憶喪失で、しかもただの記憶喪失ではないらしい。

 自分を目まぐるしく翻弄する状況を、俺はただ受け入れることしかできなかった。

「目覚める前の記憶がないって言ったけどさ。親とかは?その話はした?」 

「……いません」

 今、何と言ったのだろうか。親が……いない?

「親が……いない、って?」

「はい……。目覚めたら、家には私一人しか居ませんでした。そして、私はずっと一人暮らしをしていたようです」

 ますます訳がわからなかった。凛は、鈴白凛というこの少女は、一体何者なのだろうか。 

「目覚めた日からしばらく生活してきましたが……自分の今置かれている状況は、後から用意されたもののような気がしてならないんです」

「どういう……ことだ?」

 俺が聞くと、凛は力なく首を横に振り答えた。

「用意された環境に突然放り込まれたような……。証拠はありません。ただ、どうしてもそんな気がするんです。家だって一人で暮らすには大きすぎる家です。私がこんな夜中に出歩いていたのは、そんな不自然な環境にずっといるのが嫌だったからなんです。それに、そんな家に私は何故暮らしているんでしょうか。なんで目覚める前の事を一切覚えていないんでしょうか。教えて下さい、篠ヶ谷さん────」

 凛は拳を握りしめ、今にも泣きそうな顔してこちらを見つめる。

 そして溢れ出そうとする思いの丈を抑えるように声を震わせた。

「私は、何者ですか?」

 問いかけられた俺は、ただ黙っていることしかできなかった。

 同時に、凛のなんの役にも立つことができない俺が悔しかった。

 凛はきっと必要としている。自分の理解者を。

 凛の事を理解してくれる人はきっと誰もいないのだろう。

 突拍子もない凛の話を聞いてそのまま信じようとする人がいるとは思えなかった。俺でさえ話を聞いて困惑している。

 だから、こんなにも寂しそうな顔をしているのだと思った。

 誰も信用できず、自分の事さえわからない。そんな孤独にずっと耐えてきたのだろう。

 だったら、俺がそんな孤独から凛を救いたいと思うのは傲慢だろうか。

 寂しそうな、不安そうな、泣き出しそうな顔をしている目の前の少女を放っておくことなんて俺にはできそうもなかった。

 ずっと黙り込んでいた俺を見て、凛がふっと諦めたように表情を崩し、俯く。

 そのまま凛は自嘲するようにぽつりと呟いた。

「……なーんて。初めてあったばかりの人に何を話しているんでしょう、私。信じられなくて当たり前ですよね。今言ったことは全部忘れてもらって結構ですよ」

「そんなこと……誰がするか」

「え?」

「俺は、信じるよ。凛を信じる」

 俺の言葉を聞いた凛は驚いたようにぱちくりとまばたきをした。

「どうして……ですか?誰も私の話なんて信じてくれなかったのに……」

「俺が勝手に信じたいと思ったんだ。俺にはお前が嘘をついてるようには思えない。確かに突拍子もない話だとは思ったけどさ。それでも俺はお前を信じたいと思った。いや、信じさせてくれ、凛」

 凛は呆然として、俺の話を聞いていた。

 俺の話が信じられないのだろうか。

 凛は黙っている。

「俺は、お前の役に立ちたい。俺にできることがあったらなんでも言って欲しい。あったばかりでおこがましいのは承知だけど」

「……どうして」

 震える声で凛が呟く。その目からは一筋の涙が流れていた。涙は収まるところを知らず、次に口を開く時にはぼろぼろ目から零れていた。

「どうして……っ、そんなに私に優しくしてくれるんですか……。うっ……、ひぐっ……私、篠ヶ谷さんに会ったばかりなのに、迷惑かけてばっかり……」

 溢れる涙を両手で拭いながら凛は涙声で言う。

 本当によく泣く少女だと思った。

 さっきから泣いてばかりだ。

「目の前で困ってる奴が居たら、放っておけないんだよ、俺は。悪かったな、いいから泣き止んでくれよ」

 それに俺は幼い頃、今はもう顔も名前も思い出せない女の子と約束したのだ。困っている人がいたら絶対に助けると。だから、俺が助けるのは当然なのだ。例えそれが相手にとって迷惑だったとしても。

 凛はひとしきり泣いた後ようやく涙の止まった目を擦り、俺に顔を向ける。

 そして、実に朗らかな笑顔で言うのだった。

「本当に、お人好しですね。篠ヶ谷さん。私なんかのために……ありがとうございます」

 半分泣き笑いのような顔だった。

 それでも彼女の笑顔は、とても明るかった。

 きっとこれが凛の本当の姿なのだろう。凛に泣き顔は似合わない。笑っているべきだと思った。

 そしてこの笑顔を失わせてはならない。そう思う俺だった。

「やっと、笑ったな」

「篠ヶ谷さんのお陰ですよ。なんだか今、明るい気持ちです」

 真っ直ぐに俺を見る凛。俺は少し気恥ずかしくなって、目を逸らした。

 なんだか、人が変わったみたいだ。調子が狂う。

 でも心の片隅で、凛が笑顔を見せてくれた事を嬉しいと感じている自分がいるのも事実だった。

 改めて、彼女の役に立ちたいと思った。

「よろしく、凛」

 言って俺は片手を差し出す。

 恐る恐る、といった感じで凛も片手を伸ばし、俺の手を握る。

 「よろしくお願いします、篠ヶ谷さん」

 真夜中の逃亡劇の末にあったのは、鈴白凛という少女との協力関係の成立であった。

 運命とは数奇なもので、知らず知らずのうちに引き込まれていってしまう。そして、それを自覚するすべも、それから逃れる術もない。

 この少女との出会いによって、俺を待ち受ける運命がいかに変わることになるのか、知るよしもなかった。

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