守口歌音が眼鏡を掛けてくれない
――どうしてだ!
放課後の音楽室。
目の前に並ぶ歌い手達へ向けて、構える。
ここは街中の学校だが、豊かな自然の中をイメージ。
美味しい空気を鼻から深呼吸するようにして、お腹へしっかりと息を吸う。
同時に、明確なテンポ感を持って。
それでいてキツくならないように。
柔らかく水を掬うように指を揃え。
小指を下に、掌を軽く上向けた左手を斜め上に振り上げる。
ほどよい高さに到達したところで脱力。
自然と重力に従い、腰の辺りまで落下させ。
瞬間的に、親指の付け根と肘の間にある腕橈骨筋に力を加え。
柔らかく空間を叩くようにして、今度は体の正面に振り上げる。
それは、四分の四拍子の四拍目を示す、曲頭のアウフタクト。
と。
優しい声色の合唱が導き出される。
俺の腕は、四拍子の図形を辿りながら、そこに曲のイメージを込める。
閑静な山間の村に見た、ささやかな幸せ。
左手だけでなく、右手も、己の表情も使い、全身でなんとかそれを表現できたはずだ。
指揮者となって約二週間。
それなりに様になってきたという自負はある。
なのに。
――守口歌音が眼鏡を掛けてくれない。
ソプラノで行儀良く歌う、長い黒髪の地味ながら整った顔立ちの少女。
裸の瞳で、それでも精一杯の笑顔で、一応は指揮を見て歌ってくれた少女。
守口歌音。
彼女は今日も、俺が指揮を振る間は眼鏡を取り出す素振りを見せなかった。
それは、この谷町高校コーラス部一年生にして、この秋からサブの学生指揮者を務めることになった俺、神橋天の指揮と向き合ってくれなかったということだ。
指揮者となってすぐ、俺が指揮を振り始めるなり眼鏡を外してしまった彼女。
「ごめんなさい。あなたの指揮は、見ていられないから。眼鏡を掛けるのはよすわ」
後ほど理由を尋ねたときに、彼女はそう答えたのだ。
学生指揮者に成り立ての未熟な指揮を見るのに、わざわざ眼鏡を掛ける必要はない、そういうことだろう。
だから俺は、学んだ。
ひとえに、彼女に眼鏡を掛けて貰うために。
その眼鏡姿を、指揮者として真っ正面から思う存分鑑賞するために。
顧問に教えを請い、指揮法のゼミを体験させて貰ったりして、かのサイトウ・キネン・オーケストラに名を冠する斎藤秀雄が纏めた指揮法教程、いわゆる『斎藤メトード』を学んだ。短期間の付け焼き刃であっても、ゼロから多少なりとも基本を身に付けた差は大きいはずだ。
だが、今日も結果は変わらなかった。
落胆しつつの帰り道。
同じ方向へ帰るテナーパートリーダーの田辺と寄り道し、
「俺の指揮、どうだ?」
ファーストフードのハンバーガーで小腹を満たしながら、聞いてみる。
「大分、上達して格好ついてるんじゃないか。色々勉強してるんだろ」
田辺は、ダメなものはダメとはっきり言う奴だ。そいつが言うんだから、客観的にも成長は見られる、ということだろう。
「そうか、そいつは、よかった」
だが、どうにも応じる声がぎこちなくなってしまう。
「何か引っ掛かる言い方だな」
「いや、守口がな」
「ん? 守、口? 守口……あ、あぁ、あいつか……で、守口がどうした?」
どうにも、彼女の存在感は薄い。
誰と話すときも、彼女の名前を出すとこんな感じだった。
「守口が眼鏡を掛けてくれないんだ」
「は? 守口って……今一、顔も思い出しづらいが……眼鏡、してたか?」
そこから、か。
致し方ない。順を追って説明しておこう。
「ああ、間違いなく、守口歌音はパートタイム眼鏡っ娘だ」
「いや、なんとなく解らんでもないが『パートタイム眼鏡っ娘』ってなんだ?」
眼鏡方面に明るくない田辺には話が通じ辛い。だが、ここは眼鏡を愛する者として、丁寧に伝えていこう。
「『パートタイム眼鏡っ娘』というのはだな、普段は眼鏡を掛けていないが、特定の状況下において眼鏡を掛ける娘のことだ。幾つかパターンはあるが、外ではコンタクトでも家では眼鏡とか、本を読んだりするときだけ眼鏡を掛けるとか、そういう感じだな」
「ま、まぁ、解った……いや、でも、俺は、守口自体の印象が薄くて、眼鏡をしてたかどうか以前の問題なんだが……」
「だから、守口は限られたシチュエーションでしか眼鏡を掛けないから、よく見てないと印象に残らないんだろうな」
「そ、そうなのか?」
「そうに決まっている」
断言する。
あんなに眼鏡が似合うんだ。その姿の印象があれば、忘れるはずはない。
俺が、こんなにもよく覚えているんだから。
どうにも半信半疑の田辺に、俺は更に大きく頷いてそれが真理だと示す。
薄笑いの、なんとも言えない表情で一瞬固まる田辺だったが、
「……で、でも、まぁ、なんだ、守口の眼鏡を気にするってことは、神橋は守口をよく見てるってことか?」
なんとか話を繋げようとしてくれたのか、改めて問うてくる。
取り繕うような質問だが、答えは決まっている。
「そりゃそうだ。俺の眼鏡愛を舐めるな」
あんな素敵な眼鏡っ娘をよく見ない道理はない。
「あ、あぁ」
今のはキメ所だったのだが、どうにも反応は微妙だった。気にすまい。
「それはさておいて、彼女が眼鏡を掛けているのは、授業中と部活のときだ。授業中は、黒板を見るためだろう。そして、部活の時は、楽譜と指揮を見るため……だと思っていたんだが」
「お前の指揮の時は、眼鏡を掛けてくれない、か」
「そういうことだ」
えらく遠回りした気もするが、ようやく、話が最初に繋がった。
「でも、眼鏡をしてるかしてないかがそんなに問題か? 眼鏡をしていなくても、指揮通りに歌えてるなら、それはそれでいいんじゃないか?」
「そうかもしれんが、どうも俺の指揮が未熟だから眼鏡を掛けるに値しない、と守口には思われてるようでな」
「そうか? さっきも言ったが、お前の指揮は結構なもんだと思うがな。そりゃぁ、先生とかに比べりゃ荒いけど。技術的には未熟でも、短期間で成長は見られるし、何より合唱大好きオーラが出まくってて、歌う気にさせてくれるから、俺はいいと思うがな……って、ああ、それで藪から棒に指揮について聞いてきたのか」
「そういうことだが……それでも、未だに見てくれないのは彼女にとってはまだまだ、ってことなんだろうな」
「う~ん、そうだな。守……口? が、認めないなら、更に精進するぐらいしかないんじゃねぇか?」
「……やっぱり、そうか」
精進あるのみ。
それでも、前進できてはいることが確認できたのが収穫か。
そこからは、他愛ない会話をしながらハンバーガーを平らげると、俺達は店を出て別れた。
夜の街角。
下町の路地裏は、入り組んだ上に街灯も少ない。
ところどころに超高層マンションが建つ一方で、未開発の地域には昔ながらの住宅が不規則に並び、更に小さな寺や神社があちこちに並んでいる。
それらの隙間には、入り組んだ路地が縦横に巡る。
街灯も、ところどころ途切れて、死角も多い。
それが、俺の暮らす町の姿だった。
「遅くなっちまったな」
正直、男であっても夜一人で歩くには遠慮したい様相を呈するのだが、どうやってもそこを通らねば家に帰れないのだから、仕方ない。
声楽のレッスンに通っている音楽教室で、無理を言って指揮法を囓っている講師にあれやこれや質問して教えて貰っていた結果、こんな時間になってしまったのだ。勿論それは、少しでも指揮を磨いて、守口に眼鏡を掛けて貰いたい一心でのことだ。
歩きながらも、ついつい腕を動かしてしまう。
一見すると不審者かもしれないが、人通りも少ないから、見られることもあるまい。
と、思っていたのだが。
「ん?」
通り過ぎた路地から視線を感じた気がした。
ゾクリ、とする。
振り返ると。
「守口?」
すぐに引っ込んでしまったが、黒縁眼鏡の長髪の少女が路地から顔を出していた。
それだけなら、少女が守口と認識するのは短絡的かもしれない。
だが、俺の通う高校指定のセーラー服姿だった。それに、以前、俺の指揮を見てくれない理由を聞いたのも、音楽教室帰りに偶然出会ってのことだった。
そうなると、守口である確度は上がる。
引き返し、件の路地を覗き込むと、長い黒髪セーラー服の後ろ姿が見えた。
声を掛けようか、と思ったが、暗い夜道の雰囲気に飲まれて中々声が出せなかった。
それでも気になって、俺は、そっと距離をおいて追うことを選んだ。
「あっちは……墓場?」
彼女が向かう方向は、近辺で一番大きい総合病院と、その裏手に墓場がセットになっている区画だった。元々寺社の多い地域なので、墓場があること自体は何の不思議もないのだが、場所が場所だけに、如何とも言いがたい空気が漂っている。
路地は、十メートルほど先で左へ折れている。
守口らしき人影は、その角を曲がっていく。
あとは、真っ直ぐいけば、墓場に出るはずだ。
俺は、足音に気を付けながら守口が消えた角まで早足で向かい、その先を覗き込む。
が、
「いない?」
消えて、いた。
百メートルほどの細い通路が続き、墓場の入り口へと続いている。
ポツンと立つ一本の街灯が薄く照らすだけの通路だが、見通しは、いい。
なのに、彼女の姿はなかった。
俺は、そのまま墓場まで行ってみるが、やはり、人の気配はない。
墓石の影に人一人隠れられないこともないだろう。
だが、墓場の入り口までは百メートルはある。
守口が角を曲がってから、俺が覗き込むまでは長くても五秒程度。
墓場に駆け込んで隠れるにしても、百メートルを五秒では移動できないだろう。
呆然として見上げれば、墓場を見下ろす病院の裏手の壁がそびえていた。
――なんだ、これ?
急に、恐ろしくなった。
消えたクラスメート。
もしかして、何か悪いモノに連れ去られた?
いや、そもそも俺は、本当に守口を見たのだろうか?
それは彼女を気にし過ぎている俺の幻覚で、それを餌に、呼び込まれたのは、俺?
場所が場所だけに、妙な想像がどんどん膨らんでいく。
秋の夜は、思いの外、冷える。
だが、そうじゃない寒気を、感じた。
守口のことが気にはなった。
だけど俺は、それでもその場に留まっていられるほど、肝が据わってはいなかった。
翌日。
何事もなかったかのように、守口は登校していた。
いつも、始業時間ギリギリに現れる。
教室の一番奥。一番後ろの席。
目が悪いのにそんな席だから、授業中の眼鏡は必須なのだろう。
一限が終わり、休み時間に昨日のことを訪ねようと思ったのだが、守口はいつの間にか姿を消していた。
「おい、守口がどこ行ったか知らないか?」
「え、守口って………あ、あぁ、そういえば、いたっけ?」
「守……口、って、そこの席の? あれ、そこ……空席、だった、ような?」
どうにも、彼女の存在感の薄さが災いして、クラスメートに聞いても行方は知れず。
休み時間ごとに守口の姿を探すが、同じことの繰り返し。
結局、直接話す機会を持てないまま放課後を迎え、部活の時間になってしまう。
授業が終わるなり、あっという間に教室から姿を消した守口。
だが、活動場所である音楽室に行っても姿が見えない。
「守口は?」
「え、誰?」
「ソプラノの守口歌音だ」
「えっと、あ、あれ? そんな人…………いた……うん、いた、わね。守口さんなら、まだ、来てない、と思うわ」
「そうか」
やはり、彼女に対する認識は曖昧だった。
そんな調子で誰に聞いてもあやふやな答えばかり。
結局、最初の発声練習が始まるまでは姿が見えず、始まってからふと見れば、ソプラノの隅っこでいつの間にか発声練習に参加している姿が見えた。
今は、残念ながら眼鏡を掛けていない。
発声練習が終わり、一年生の俺と、二年生の先輩で半分ずつ練習を行う。
先輩は、これから先の演奏会向けの練習を。
俺は、まだ駆け出しと言うことで、経験値稼ぎ的に愛唱曲的なものを練習する。
先に先輩の練習があり、後半になると、俺が練習を仕切る番がくる。
先輩の練習が始まると、守口は眼鏡を取り出して、掛けた。
だが、先輩の練習が終わり、俺が指揮台に上がるや、そそくさと眼鏡を外してしまう。
それでも、気落ちしてはいられない。
昨日のことも気になるが、それはそれとして、これまでの精進の結果を見せねば。
指揮者として、全力で臨む。
「ソプラノ、フレーズを長く!」
「アルトだけが動くところは、少し大きめにアピールして!」
「そこ、テナーは『愛』という言葉に重きを持って!」
「ベースは、同じ音が続くけど、言葉のセットを意識して一本調子にならないで!」
そんな感じで、曲の練習を進め、最後に、成果を確認するために曲を通す。
今日こそは、と思い、指揮を構え、振り始める。
だが、眼鏡を掛けてはくれなかった。
そのまま、俺の通しが終わったところで練習はお開きとなる。
役目が終わったところで、俺は今度こそ守口に話を聞こうとしたのだが。
「いない?」
もう、姿が見えなかった。
練習が終わって、ほぼ時間をおかずに話掛けようとしたのだ。
流石に、おかしい。
幾らなんでも、音楽室を出るのが早過ぎる。
「おい、守口、どうした?」
ソプラノのパートリーダーの長原に聞いてみるが。
「え? 誰? 守口なんていないわよ」
「いや、確かに影が薄いかもしれないが……ソプラノの守口だ。守口歌音」
「はぁ、影が薄いって、何を漫画みたいなこと言ってるの? そんなので存在を忘れたりするわけないでしょう? いないわよ、ソプラノに守口歌音なんて」
「ま、待て。何を言ってる?」
「いや、神橋、お前こそ何を言ってるんだ? 守口歌音なんて部員、この谷町高校コーラス部にはいないぞ」
顧問の先生が、当惑した声で、言う。
「え?」
そこで、周囲の怪訝な視線に気付く。
守口は、影が薄い。
だから、みんな、すぐには思い出せない、と思っていた。
だけど、違う、のか?
記憶を辿る。
授業中の姿は思い浮かぶ。授業が終わると、眼鏡を外してしまうところまでは。
だが、その後。
休み時間に入ってからの姿に、覚えがない。
部活もそうだ。
発声練習までは眼鏡を掛けず。
先輩の練習では眼鏡を掛けて。
俺の練習では眼鏡を外す。
そこまでしか、覚えがない。
どういう、ことだ?
そういえば、教室と音楽室、そして、夜の街角以外で、彼女の姿を見た記憶がない。
校舎の廊下でさえも、記憶にない。
それ以前に、彼女はいつから、居た?
入学式に居た記憶は無い。
だが、転校してきた記憶も無い。
最も古い記憶が、俺が学生指揮者になった日のこと。
授業中や、先輩の練習では眼鏡を掛けていたのに。
俺の指揮になった途端、眼鏡を外された、あの日のこと。
――どういう、ことだ?
俺は、呆然としながら、音楽室を後にした。
夜。
音楽教室の帰り。
俺は、昨日の路地へ来ていた。
ここにくれば、何か解るかもしれない。
そう、思って。
「守口」
果たして、ぬばたまの黒髪にセーラー服姿の守口の姿はあった。
今は、眼鏡を掛けている。
「……やっぱり、覚えてるのね」
「ああ。他のみんなはすっかり忘れてしまったみたいだがな」
「……でしょうね。いいわ。全部、話す」
そうして、彼女は歩き始める。
ほどなく、小さな公園に辿り着く。そこは、あの裏手が墓場になった病院のすぐ側だった。
申し訳程度に用意されているベンチに、並んで座る。
「何から、話そうか?」
静かに、問うてくる。
ならば、
「そうだな。守口、お前は何者なんだ?」
単刀直入に聞くことにする。
「正直……自分でも解ってないんだけどね。多分、幽霊」
「幽霊、か」
不思議と、驚きはなかった。
昨日姿を消した件。
俺以外の記憶から消えてしまった件。
もう、すでに、常識では測れない超常的な状況だということは受け入れる他ない。
「なら……死んでる、のか?」
こんなに眼鏡の似合うクラスメートにして部活仲間が、もう、死んでいるなんて事実。
受け入れるのは、辛い。
だけど、確認しないと、いけないことだ。
「ううん。まだ、生きてる、と思う」
「なら、生き霊ってことか」
少し、希望が見えた気がした。
「そうね、今は、まだ……」
でも、守口は、その希望に不安を添えるような物言い。
真っ直ぐ前を見る守口の横顔しか見えないけれど、その顔に浮かぶ表情は、柔和なものだったが、何かを諦めた表情にも見える。
ぽつりぽつり、と守口はそのまま続けて語り始めた。
「わたしは、小さい頃から体が弱くて、入退院を繰り返していた。それでも、何とか中学も卒業して高校入試も乗りきって、今年の春から谷町高校へ通うはずだった」
俺は、言葉を挟まず、静かに聞きに回る。
「でも、入試で頑張りすぎたのか、入学式直前に倒れて、それっきり」
そこで、公園のすぐそばの病院を示し。
「あそこで、ずっと眠ってるわ」
釣られて見る。
「でも、ある日から、夢を見るようになった。ずっと憧れていた、高校生活の夢。最初は、朧気な谷町高校の様子だった。楽しそうな、本当だったら、一緒に高校生活を送る仲間達の、姿」
愛おしむように、レンズの奥の瞳を細める。
「次第に、イメージは具体的になって。気がつくと、授業を受けている自分に気付いた」
彼女の、真面目に授業を受けている姿が思い浮かぶ。
「どうやら、夢の中で、クラスの一員となれているみたいだった。そう、わたしにとっては、今、こうして神橋君と話しているのが、夢ということになる」
「俺達にとっての現実が、守口にとっての夢ってことか?」
「そういうことよ。その実は、仮初めの肉体を持って、谷町高校に彷徨い出ていたってことでしょうね」
なんとなく、言いたいことは分かった。
学園生活に憧れる余り、生き霊となって通ってしまった、ということか。
「でも、それは明晰夢でもあった。こうして過ごす谷町高校での学園生活は、夢だっていう自覚があったの。だから、友達を作ったりは難しいと思った。夢は、覚めれば忘れられてしまう儚いものだから、友達になれたとしても、すぐに忘れられてしまう、と思った。そうして、ひっそりと教室の隅で授業を受けるだけで、高校生活を送れるささやかな幸福を味わっていた」
確かに、言う通りだ。俺以外は、曖昧にしか守口のことを覚えてはいなかった。
「それでも、せっかくだから、みんなで何かをやってみたくなってきた。部活も学園生活の醍醐味だから。色々考えて見た結果、辿り着いたのが合唱だった。合唱なら、教室の授業と同じように、そっと混ざって一緒に歌うことができる。みんなの中の一人に、すぐなれるって思ったから」
そこで、言葉を句切って、噛み締めるように言う。
「わたしの予想は正しかった。ソプラノの隅っこに混ざって、ただ歌うだけ。それでも、本当に、楽しかった」
合唱大好き人間として、その言葉は、嬉しいものがあった。
「だけど、ちょうど思い立ってコーラス部に混ざった日。あなたが指揮者になって、その指揮をみた瞬間、身の危険を感じたの」
そうして、表情を引き締めて、告げる。
「神橋君。あなたの指揮は、眩しすぎた」
「眩しい、だって?」
そういえば、合唱大好きオーラ云々と、田辺が言っていた。
そういう力が、過剰に働いた、のか?
「ええ。でも、別に、眩しいのは神橋君の指揮だけじゃない。そもそも、わたしにとって現実は夢の世界。何から何まで、眩しいといえば眩しかった。眩しさは視覚から感じる。だから、極力眼鏡は掛けないようにはしていたの。元々、体が弱いのと同様に視力も弱くて、眼鏡がなければ余り見えないから。だからこそ、眼鏡を外してはっきり見てしまわないことで、眩しさを誤魔化せていたんでしょうね。でも、学園生活を送る上で、黒板を見るときや楽譜や指揮をみるときだけは、どうしても眼鏡が必要だった。それでも、極端な眩しさを感じることはなく、何とかなるレベルではあったの」
それが、パートタイム眼鏡っ娘だった理由らしい。
「だけど、あなたの指揮は特別眩しかった、ということ。それこそ、目が覚めるほどに。正直、あなたの指揮にどうしてそこまでのものを感じたのかは解らない。でも、眩しさで目を覚ましてしまいたくはなかった。わたしにとって、夢から覚めるということは、この仮初めの肉体での学園生活が終わる、ということ」
そこで、俺の方を向く。
「だから、眼鏡を外した。指揮を振るあなたの姿をはっきり見てしまわないことで、眩しさを和らげるために。この夢を、終わらせてしまわないために」
「『見ていられない』って、そういう意味だったのか」
てっきり、己の力量不足と思い込んでいたが、全く違う意味だった。
それなら、幾ら努力したところで見て貰えなかったのは仕方ないことだ。むしろ、努力するほど、逆効果だったのでは? とさえ思う。
「そうよ……そういえば、その後も、驚かされた。あの日の夜、病院に戻ろうとしていたわたしを見つけて、指揮を見ない理由を聞いてきたとき。今まで、誰もわたしを覚えていなかったから。学校内ならともかく、学校外でわたしをわたしと認識されるなんて、思ってもみなかった……ねぇ、神橋君? どうしてあなたは、他の人みたいに、わたしを忘れないの? わたしを、はっきりと覚えていたの?」
どうして俺だけが、彼女を夢の存在として忘れてしまわないのか?
それは、さっき、俺も考えていたこと。
答えは、すぐに出ていた。
「それは、愛だ」
「え?」
俺の言葉に驚いたように、俯いて、緊張したように体に力を入れる守口。
街灯に照らされたその頬は、朱に染まっている。
俺は、そんな彼女へと、はっきり言葉にして伝えないといけない。
「俺の、眼鏡への愛ゆえに、だ」
と。
「……眼鏡への愛?」
顔を上げて、何だか、複雑そうな、ちょっと怒ったような表情をこちらへ向ける。
初めて見る表情だが、黒縁眼鏡に彩られた視線は、少しゾクゾクするものがある。
だが、それに見惚れて浸っているときではない。
「そうだ。守口は、授業や先輩の指揮のときは、眼鏡を掛けていた。なのに、俺の指揮の時だけ、外した」
怪訝そうな表情になる。
「せっかく、正面から堂々と守口の眼鏡姿を見るチャンスだって、期待してたのに。俺が振り始めると、すぐに眼鏡を外してしまった……」
どうしても、言葉に熱が入るが、俺の気持ちを伝えるには必要なことだ。
「俺にとっては、それが、何よりも深い楔になったんだ。忘れようのない、楔に!」
力強く、言うなればフォルテシモで断言すると、守口は、理解不能という顔になっていた。
「だから、守口に眼鏡を掛けさせてみせる。それをモチベーションに指揮を頑張ったんだ。もう、俺が指揮を振ることに、守口は切っても切れない存在になっていた。俺の大好きな合唱。その指揮。そこに守口は深く関わっている。だから、忘れるなんて、あり得ない!」
そういうこと、なのだろう。
俺の熱弁に、なんだか嬉しさと切なさと寂しさが混じったような表情を浮かべる守口。
しばらく、噛み締めるように俺の顔を見ていたが、
「でも、それも、おしまいよ」
言って、また俺から顔を逸らして前を向いてしまう。
その横顔は、最初の柔らかい表情に戻ってる。
「どういうことだ?」
「神橋君以外、わたしの記憶が曖昧になるどころか、すっかり忘れてしまっていたんでしょう? それは、夢の終わりが近いということ」
「夢の終わり……でも、俺の指揮を見たわけじゃないだろう?」
「ええ。眩しくて目を覚ますんじゃない。多分、本当のわたしの、死期が迫ってるんだと思う」
余りにさらっと言われたので、何を言っているのか咄嗟に解らなかった。
「死ねば、夢は終わり。夢みたものは消えてしまう。わたしの存在が希薄になって忘れられていったのは、きっと、そういうことよ」
これが、柔和な中の諦めの意味。
掛ける言葉は、浮かばない。
「どうにか、ならないのか?」
ただ、そう問い掛けるのが、精一杯。
「無理、でしょうね。それこそ、奇跡でも起きなければ」
「そう、か……」
胸が締め付けられる思いがした。
だけど、俺には、どうしていいか解らない。
一介の高校生の俺にできることなど何もない。
いや、もう、こんな超常的な状況、誰にも、どうしていいかなんて解らないだろう。
こんな眼鏡の似合う同級生が居なくなってしまう、無限の切なさが胸に込み上げてくる。
だったら、少しでもその切なさを紛らわそうとしたとて、罰は当たらないだろう。
だから、しっかり、言葉にしておくべきだ。
俺の、願いを。
「なら、せめて、最後に……眼鏡を掛けて、歌ってくれないか?」
そう、それこそが、俺の偽らざる願いだった。ずっと、俺を指揮者として駆り立ててきた動機だった。
「そうね……いいわ。もう、どちらにしても、終わりだから。眼鏡を掛けて、あなたの指揮の眩しさに引導を渡しても貰うのも、一興だと思うわ」
呆れた様に、守口は受け入れてくれた。
「ありがとう!」
心の底からの感謝の言葉を掛ける。
だけど、もう、そこに、守口の姿はなかった。
翌日の放課後。
歌い手の中に、彼女の姿はあった。
だが、俺以外、誰も認識していない。
最後の部活を、精一杯の笑顔で、楽しんでいる。
上級生の学生指揮者の時間が終わり。
最後に、俺の練習の割り当て時間になった。
そこで、一旦彼女は眼鏡を外してしまう。
練習中に目覚めてしまわないためだろう。
気にせず曲作りをして。
最後に、今日の成果を計るため、曲を通す。
いつもの段取り。
俺が構えると。
おもむろに、彼女は眼鏡を取り出した。
ゆっくりと、その瞳にレンズの輝きが宿る。
それを見届ける。
俺は、自然と顔が綻ぶ。
守口の顔も、緩んでいた。
では、始めよう。
彼女のために。
だけど、だからこそ、みんなのために。
彼女と共に、この仲間達とみんなで合唱をするために。
俺は、指揮を構える。
曲は、木下牧子・作曲、立原道造・作詞、『夢みたものは……』。
学生指揮者になって、経験値を上げるためにと練習していた合唱の定番曲。
多くの合唱団で愛唱されている曲。
左手の親指と肘の間にある、前腕の腕橈骨筋に力を込め、柔らかく腕を振り上げる。
脱力、落下。
再び、筋肉に力を込め、振り上げる。
それが、最初の合図。
後は、俺の指揮が導くまま、合唱は流れていく。
最初は、夢みたものと願ったものを語る。
それは、幸福と愛。
やがてそれは、具体的な風景へと繋がっていく。
閑静な山間の村。
晴れ渡った日曜日。
着飾った村娘たちが日傘を差して唱い、輪になって踊っている。
そこに混ざる、青い鳥。
それは、恐らく、幸福の象徴であろう。
木の枝の低い場所で鳴いているのは、身近な幸せということか?
そこで、再び繰り返される最初のフレーズ。
ささやかな愛と幸福。
――それらはすべてここ《コーラス部》に確かにあったんだ
そう、守口へと向けて内心呟きながら。
両掌を上向けて開き、最後のメゾフォルテを伸ばし切り。
掌をくるりと回して閉じ、曲を終了する。
指揮を振り終えたとき。
充足感と共に、寂しさを覚えた。
ソプラノの端。
そこには、空いた椅子が一つ。
誰も、もう、覚えていない彼女。
でも、俺だけは、覚えていた。
教室の隅で真面目に授業を受けていた姿を。
幸せそうな笑みを浮かべて歌う、彼女の声を。
守口歌音という眼鏡っ娘が、この谷町高校に、コーラス部にいたことを。
秋は終わり、冬休みも終わった。
三学期が始まって少し経った頃。
「突然だが、転入生を紹介する」
教師に促されて教室に入ってきたのは。
「はじめまして」
黒縁の野暮ったい、それでいてよく似合う眼鏡を掛けた、長い黒髪の少女。
夢は確かに覚めたけれど。
夢みたものは、すべて、ここにある。
だから、戻ってきたのだろう。
考えてみれば、夢の終わりは、死だけではない。
単純に、目を覚ませば夢は終わるのだ。
彼女の存在が希薄になっていたのは、単に意識を取り戻す前兆だったのかもしれない。
悲劇的な別れは、単なる早合点だったのかもしれない。
いや、そんなのは、もう、どうでもいい。
彼女はリアルにここに存在している。
だから、夢を覚ます世界の眩しさに怯えなくていい。
ゆえに、眼鏡を掛けている。
フルタイム眼鏡っ娘となった守口歌音に、俺は、心の中で祝福を送るのだった。
【了】
『眼鏡を掛けてくれないヒロインに眼鏡を掛けさせる』というコンセプトで合唱と指揮を絡めて書いたらこうなった、という短編になります。