幼子の涙
呼ばれた気がした。
声に誘われて目を開く。天井に夜の終わりが映っている。
昨夜と比べ、部屋に特段の変化はない。それなのに、か細い声が覚醒を促してくる。
(――お兄ちゃん)
はっとなって眠るサキを見た。
寝息を立てている恋人の額から、青の光がこぼれている。
「……"サキ"?」
幼き人を呼べば、うれしそうに青が明滅する。間違いなく"サキ"の声だ。
青い真眼に、自分の真眼を重ねて目をつむった。
白い真力の層を抜けて、奥へ奥へと落ちていく。
風が騒いでいる。
穏やかに眠っているサキの気配が、先触れとなったかのように荒れていた。
世界が青く染まる。
海の底を思わせる景色の中で、小さな影を見つけた。
「"サキ"」
呼んだ途端、泣きべそをかいた"サキ"がぱっと顔を上げた。
「お兄ちゃん!」
腰を屈め、駆け寄ってきた泣きべそを抱きしめた。ついでに林檎の頬から涙を拭って、丸い頭を撫でてやる。
めそめそとしながら「お兄ちゃん」と泣き続ける"サキ"は、あの日の姿のまま。どこかが欠けていることもなく、かといって増えているわけでもない。ましてや育っている兆候も一切ない。
「どうした。泣いていたら何もわからない」
子供の扱いは得意だ。何せ、実家でさんざんやらされていた。
ぐずっているだけなら甘やかし、あやしてやれば泣き止む。この理論は青に棲む"サキ"にも通じるようで、徐々に泣き声がおさまってきた。
小さな手が懸命に涙を拭っている。
その仕草は、いまのサキにも見られるものだった。やはり、彼女と"サキ"は同じ存在なのだと強く感じる。
「"サキ"、どうした。寂しかったのか?」
聞いただけで、また大粒の涙を流す。
ぽたぽたと落ちていく涙は、青に溶けてどこかに消える。真力に混ざったということだろうか。だとしたら、"サキ"も真力なのだろうか。不思議な子供は、新たに生んだ涙を拭いて、心底困ったように眉を寄せた。
「まざれないよう……」
顔が強張ってしまった。
けれども泣きべその"サキ"は、こちらの動揺に気づかなかった様子で「うまくまざれないよう」と繰り返した。
「一緒じゃないから……、まざれない……」
唾を飲み込み、顔を覗きこんだ。
「形が変わったからだな?」
これに幼子は首を振った。「違う」ではなく「わからない」の意だろう。
「手を……」
「うん?」
「だから手をつなごうとしたの。そうしたら"いやいや"って……」
つたなくも懸命な説明から、真実を掘り起こせないかと思い、"サキ"の言葉に神経を注ぐ。
「……お姉ちゃんが泣いちゃった」
泣いてばかりで、手が繋げないと悲しそうに琥珀をうるませる。
「こわいって」
脳裏に、表情を凍りつかせたサキが浮かぶ。
(――駄目なのです)
「なあ"サキ"。教えて欲しいことがあるんだ」
丸い琥珀がこちらを見た。
「"サキ"は、人が好きか」
きょとんとした目の中に、自分の姿を見つけた。表情がどうにか笑顔の形になっていたから、少しだけ安堵する。
「うん」
素直な答えだった。
純粋な混じりけのない答えは、安堵と疑問とを深くした。
「そうか……。なら、大丈夫だ」
瞬きの合間に、涙の粒が落ちていく。
「だいじょうぶ?」
「ああ、大丈夫。必ず混ざれるから、もうちょっと待っていてくれ」
口先が尖った。
拗ねた顔も、やはり彼女と同じだった。
「もうちょっとって、どれくらい?」
子供の質問は、時として大変答えづらいものとなる。絶対に曖昧さを許してくれないからだ。
どう答えようか。
口ごもったその時、青に白が侵入してきた。
幼き人が見上げたのにつられ、同じように上方へと視線を移す。青の上にただよっていた白が意志を持ち、帯となって下ってくる。ぐるりと腰に巻きついた帯は、身体を持ち上げて白の世界へ引き上げようとする。
「――お兄ちゃんっ!」
小さな両手が自分を追っている。取り残されまいとする幼い努力が実ることはなかった。
青から白へ。そのまま薄暗い世界へと移っていく。目を開けば天井が見えた。どうやら戻されたようだ。
腕の中には眠るサキ。真眼はすでに閉じられていた。そこまで視認して、詰めていた息を解放する。すると隣でサキが寝返りをうち、夜着に顔をすりつけてきた。
掛け布を引っ張って、首元まで埋めてやる。
大気が冷えてきた。風が強く吹いているせいだろう。
白々と明けてきた空が、窓掛けの隙間から侵入を開始している。
ついに秋が終わる。明日からは冬。一年でもっとも厳しい季節のはじまり。そして女神の試練のはじまりでもある。
今日中にやらねばいけないことが山積している。
だから、あと少しだけ寝よう。
このぬくもりを抱きしめて、許される限りまどろんでいよう。
そう決めて、幼き人を案じながら目を閉じた。




