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真導士サキと風渡りの日  作者: 喜三山 木春
第十二章 譎詐の森
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鋭い勘

 グラスの中で氷の均衡が崩れた。

 高い音が、明けつつある夜に響く。遠くから雪崩とも思える響きがきていた。壁にあたり、窓を騒がせる音は、季節の進みを告げている。


「先振れが出ていますね」


 コンラートが軋む窓を気にするような素振りを見せた。

「今夜のように激しい風は何年振りでしょう。この調子でしたら明日は冷え込みます。雪になるかもしれません」

 そう言って、暖炉の薪を追加するよう女の店員に声をかけた。

「お忙しいのですか」

「まあな」

「冬ですのに残念なことです。お嬢様はいかが過ごされておりますか」

 酒を含み、喉に流す。

 芳香が以前よりきつく感じられる。

「……相変わらず、やかましいものだ」

 答えればコンラートは相好を崩した。

「それはそれは、大変よろしゅうございました」

 何がよろしいのかと問うてやりたい。

 人がせっかく整えた手筈を放棄し、さらには"神具"をくわえて戻ってきた。まだ子犬のくせに、戦線に加わる気だから手に負えぬ。躾けようにも吠え癖すら直らず、いまだ風も操れぬまま。猟犬になる以前の問題だ。

 代わりになるかと"黒いの"の様子も見てみたが、また別の意味で手がかかる。何を思ったか野良仲間を呼び寄せた挙句、まとめて世話をしろときた。……呆れてものが言えん。

 あれは犬のふりをした別の何かだ。こちらも猟犬とはなりえぬだろう。

 多忙を極めるこの時期に、あれこれと仕事を増やされた。

 だというのに、苛立ちが出ることはない。不思議な心地でこの数日を過ごし。そして時が前日に至っても変わらずにいた。

 署名し終えた書類を、コンラートがいつものように確認している。

 一礼して退出していった男を見送り、胸元から紙の束を取り出した。連日厚さを増していく報告書には、乱れた文字が躍っている。


 ――危ないところだった。


 めずらしく慌てた様子の同期から伝えられた顛末が、一番上の報告書に書かれている。

 かの一派の撒いた毒は、里の隅々まで行き渡っていた。外勤の高士だけでなく、内勤の高士にも及んでおり、あと一歩で里の宝物にまで伸びるところであったと。


 ――まさか"真脈図"まで狙っていたとはな。


 "真脈"の流れは、里のみならず国にとって貴重な情報。国防の要ともなり得る。下手すればドルトラントが転覆していた。笑いながらの報告だったが、さすがに目は笑っていなかった。

 彼奴等の目的に興味はない。

 あとは成すべきことを成すだけ。そうは思えど気配が騒いで、どうにも治まらずにいる。


 二人の証言を受け、"迷いの森"にも調査が入った。

 結果は黒。選定用の真円の上に、人心を乱す真術が敷かれていたとの記載がある。

 上層が改めて導士地区の調査を指示したところ、こちらの結果も黒と出たようだ。導士地区の鏡という鏡に、転送が籠められていた。先日、里中に走った閃光が怪しいと調査が重ねられている。


 めくるたびに発覚していく新事実。

 その手口も、用意周到さも年単位での行動を示唆している。一巡りではとうてい足りぬ。サガノトスは、一体いつから"入り鼠"を飼っていたのか。

 先代の慧師は、温和な人物として定評があった。会った機会は数えるほど。いまではその容貌すらも、おぼろげな記憶となっている。

 無能だと罵るのは容易い。それをする気が起きぬのは、サガノトスとドルトラントの立場を知ったからだろう。

 大戦の折。正鵠アーレスと最後まで争った当時の国王は、暴君としてその名を歴史に刻んだ。国が他国との関係改善に尽力していなければ、この地は三大国と呼ばれていた可能性すらある。

 ついに最後の一枚となった報告書。

 記されている不穏を酒ごと飲み下した。あの女にからんだ謎は、今日明日で解明できる類のものではない。


(だからか)


 この特殊性ゆえ、一派は女だけを寄こしたのだ。最後の一枚は他の報告書に比べれば文章が少ない。書きようがなかったのだろうと空白から読み解いた。

 手元の薄い神鳥に影が差した。知らぬ間にコンラートが戻ってきていたようだ。

「次回のご注文はいかがいたしましょう」

 報告書を仕舞い、また一口酒を含んだ。如何に切り出そうかと考えていたが、ちょうどいい。

「いや、次回分の予約はなしだ」

 壮年の男は、いぶかしそうな顔をした。

「担当が替わるやもしれぬ」

 グラスを拭いていた手が、ゆっくりと止まる。

「左様で。後任の方は決まっておられるのですか」

「さて……。大掛かりな人事異動があると聞くが、上からは何も下りてきておらん」

 風が騒がしい。

 朝が近づくにつれ、荒れが激しくなってきている。

「後任が決まれば紹介状を書く」

「ありがとうございます。ご衣装はいかがいたしましょう」

「それも止めておけ。ダールに残るかも不明だ」

「では、他の町に」

 寂しくなりますねと眉を下げ、わずかの間だけ空を眺める。

「……お嬢様には伝えてあるのですか」

 近頃は会うたびにこれだ。

「必要なかろう」

 答えが気に食わないのか、嘆かわしいと言いたげに瞑目した。

 この男は、何故かあの犬を贔屓にしている。最近では説教をしてくるようにもなった。世話が足りぬ、心を砕けとやかましい。客を説教する店員など聞いたためしがない。何をしても無駄だと言ったものの、コンラートには理解ができぬようだ。

 あれは勝手気ままに遊び歩き、敷かれた道から外れていく。


 ゆえに生き残るだろう。


 サガノトスの因縁から外れ。彼奴等の思惑を踏みつぶし。この冬を乗り越えていくだろう。

 琥珀の海でまた氷が崩れた。波紋がおさまらぬ内に喉にすべてを流し込み、帰ることを決めて席を立つ。

 表に出れば砂埃が舞っていた。砂に混じって枯葉が走っていく。

 秋の足は早い。

 まるで次の季節から逃げているようだ。


「旦那様」


 思いがけぬ呼びかけに驚き、後ろを振り返る。

 店先まで見送りに出てくるなど、いままでなかった。商売人の勘は真導士より鋭い。


「支払い忘れでもあったか」

 相手はいいえと応じ、頭を深く下げた。


「またのお越しをお待ちしております」


 念を押すような挨拶のせいで、決まりが悪くなった。長居は無用だと、止めていた足を進める。

 見送りの視線は、角を曲がるまで背中に注がれ続けていた。

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