二人 1
はあ……。
晴れ渡る青空の下、鬱々とした溜息が落とされる。
数えること、かれこれいかほどか。
オレの横で同じように空を見上げているダリオは、羨ましそうな溜息ばかりをついている。導士地区の中心部にある修行場には、オレ達を含めて二十人ほどの導士が集っている。その全員が、オレ達と同じように空を見上げているんだ。奇妙な光景だろうなとは思う。
さすがに首が疲れてきたのもあって空から視線を落とし、ついでに周囲を見やる。
男もお嬢さんも一様に同じ顔をしている。
呆けたと言ってもいいけど、呆れたと表現した方が近い。中には悔しそうとか悲しそうとか、そういう類の顔を作っている者もいる。頬を赤らめて、熱心に見入っているお嬢さんもいるにはいる。でも、大半がやはり呆れたような顔で空を見上げている。
はあ……。
その中でもダリオは、また露骨な表情のまま空を見上げている。
隠すと言っていた気持ちは、ものの見事にだだ漏れだ。
見上げた先には二人の導士。
旋風を生み、ローブを軽やかにはためかせている黒髪の男。
我らが"首席殿"――じゃなくてローグは、お嬢さん達からの視線を一身に集めている。多分。いいや、絶対に視線は気にしていない。気づいてはいるだろうけど、気にも留めていない。
理由は明白だ。
あいつはいま、他のことに夢中になっている。
「もう少しだ。そのまま……。そのまま……」
学舎で貫き通してきた無表情は、雲の彼方に飛ばしたらしい。
大半の同期にとってめずらしいと思えるだろう。だけど、オレ達にとってはよく見慣れたローグの顔だ。
「そう。そうだ。ゆっくり……、もう少し」
ひたすらに励まし続けているローグは、両手を広げて待っている。
ローグが浮いている場所。その下方で、ふわふわふらふらとゆれている白い人影。懸命に風を操り、相棒の元へ向かおうとしているのは儚い琥珀の友人――サキちゃんだ。
「いいぞ。ほら、こっちだ」
その様は、生まれたての子羊を見守る狼。
覚束ない歩みを刻むように、少し浮いてはやや沈み。頬を真っ赤にしながら自分の方に向かってくる相棒を、延々と励ましている。牙を上手く隠せているところが小憎たらしい。
旋風を操れるようになりたい。
お嬢さん達から出てきた願いを叶えるべく、雁首そろえて修行場まできた。ティピアちゃんとユーリちゃんは、どうにか飛べるようになった。最後の最後に残ってしまったのはサキちゃん。身体を動かすのが苦手だと言っていたのは事実だったようで、いまだ苦戦中。相棒の挑戦につき合っているローグは、嫌な顔一つせず。……というかいやらしい顔で、サキちゃんの修行を手伝っている。
最初は、浮くだけで精一杯だった彼女も、徐々にコツがわかってきたのか。あと少しのところまできていた。
ついつい、見ているこちらにも力が入る。
「サキ、まだだ。ゆっくり……」
ふわんとゆれた身体。辿りつく直前で体勢を崩したサキちゃん。危ないと言いそうになったところで、ローグが動いた。
自分に向けて伸ばされた左手をつかみ、彼女の身体をすくい取って腕の中へと囲い込む。
「よし――!」
金の子羊を腕の中へと招きいれ、当然の如く抱き締めた。ただでさえ緩んでいた顔はいまや満面の笑みへと進化して、よりいやらしさに磨きがかかっている。見ているだけで胸焼けがしてくるような狼の甘い笑顔。
光景に見入っていた同期達から、様々な種類の吐息が出された。
修行場に満ちた吐息の上に、どんよりとしたダリオの溜息が乗っかって、何だかやってられない気分になる。お騒がせな番を見上げたまま、追加の溜息をついてやった。
空中で羊を捕獲した狼は、自ら生んだ風に乗って優雅に着地した。
突き刺さるような周囲の視線もおかまいなし。
満面の笑みを浮かべ、足早に木陰へと向かう。木陰にはすでに休んでいた娘が二人。その二人の横で金の羊を解放する。
暑さと緊張のせいで、頬を真っ赤にしているサキちゃん。その彼女のために流水で手布を濡らし、甲斐甲斐しく汗を拭う。筒から水を得るのに夢中な羊は、狼の成すがまま。
この光景を見れば、さすがに理解する。
ローグの方がお熱を上げているのなんて一目瞭然。
認めたがらなかった一部の同期達も、これで観念してくれるはず。同期達のことを思ってたより不愉快に感じていたらしい。自分の意外な一面に驚きつつ、せっせと働く狼の姿を追う。
「どうでしたか」
「上手く飛べている。前に進めるようになってきたから、明日は方向転換の修行をしよう」
「今日はお終いなのですか?」
「そろそろ昼が近い。日が強くなってくるからやめておこう」
「でも……、もう少しだけ」
駄々をこねるように狼を見上げる金の羊。
危ない、がぶりとやられちゃう。
口には出さずに心配する。古今東西、羊さんというのは無防備なもんだ。
いざとなってから、めえめえ鳴いても遅いんだよ?
こちらの心配が裏目に出たのか、狼の動きが止まった。
妙なことをしたら蹴りを入れてやろう。
そう思って半歩前に出る。
「サキ」
鋭い牙を隠したまま、羊との距離を詰めて狼は言う。
「暑さで倒れたら修行どころではなくなる。せっかく体調も戻ってきたんだ。ここで無理をするな」
「もう少しだけです。今日がんばれば、もっと上手く飛べそう……」
空を飛びたい。
彼女の願いは考えていた以上に強いらしい。普段だったらとっくに諦めているだろうに、どうにか説得しようと食い下がっている。二人のやり取りは、またもや周囲の注目を集めることになった。
サキちゃんは大人しい。
その姿を見ても。学舎での過ごし方を見ても。きっと誰でもそう思う。
四大国において女が男に意見をするのは稀。
例えば、うちの相棒みたいに身分が高いとか、べらぼうに気が強いとかだったら不思議じゃない。
でもサキちゃんは、よくも悪くも普通のお嬢さん。それなのに男に向かって堂々と意見している。しかも相手は"首席殿"。そりゃもうびっくりってやつだろう。
同期の連中は彼女が大人しいのをいいことに、口さがないあれこれを言っていた。何を言っても反論されないから、ちょっとばかり調子にも乗ってしまったに違いない。奇妙な顔で固まっている何人かは、ようやく気づいてくれたようだ。
遅いけど。
すっごく遅いけど、気づかないよりはいいかと、そんなことを考えた。
「お願いです、もう少しだけ……。いいでしょう?」
「我侭を言うな。顔が真っ赤だ。熱にやられたらどうする」
狼の言葉尻が、やや弱くなった。
……まったくどうしようもない。恐怖のカルデス商人は、相棒の頼みだけは断れないようだ。
とはいえ、このままじゃあ頭が茹で上がってしまう。
目の前で患者を出すのはお断り。ここらで救いの手でも差し伸べてやるか。
「サキちゃん。今日はお終いにしよう」
「ヤクスさん……。でも」
「だーめ。医者の言うことは聞いてね。熱で倒れたら二、三日はまともに動けないよ。せっかく修行しても、寝てる間に身体が忘れちゃう。意味がなくなるから、毎日ちょっとずつにしよう」
金の羊さんは、残念そうな顔をして俯き……不承不承だけど頷いてくれた。その横で、狼もほっと息を出している。
からかうのも面倒になってしまうほど相棒にべた惚れしているローグは、彼女の頭にフードを乗せて手を差し出した。
「三人とも喉が渇いただろう。倉庫から夏氷でももらって帰ろうか」
涼を匂わせた誘い文句は、彼女を動かすのに十分な力を持っていたようだ。
ローグの差し出した手をつかみ、立ち上がって歩き出す。手を繋いだまま歩き出した二人を見て、ダリオから盛大な溜息が落とされた。
……今日もまた、あつい一日になりそうだ。