炎と牙と
地響きが聞こえる。
白い幕の中、岩肌に触れながら体勢を保つ。
暗がりに慣れていた目は、展開された奇跡の光を、一時的に拒絶していた。
周囲を覆うは結界の気配。濃く刻まれた真円の向こうに、淀んだ光を放っている、六匹の獣。
「犬?」
低い唸り声が、壁で跳ね返って振動を生んでいる。白楼岩から、絶え間なく痺れが伝ってきていた。
「二人とも、中央に寄れ」
赤毛の友人は、真円ぎりぎりまで歩みを進めた。
置かれた輝尚石の側近くにいるユーリが、自分をそっと招いている。
「クルトさん、この野犬は」
「違う」
クルトは手に例の黄色い粉末をすりつけ、左足を下げて独特な体勢を取った。そうして渡ってきた獣の群れを睨めつけ、苦い顔をした。
構えた棒先に、獣達が反応する。
飛びかかるつもりだろう。牙をむき出しにして姿勢を低くしている。
山で幾度か見かけた犬の集団。
店の旦那さんと山菜を採りに行った時、川向こうからこちらを睨んでいたこともある。
姿はとても近い。
――でも、このおぞましい気配と赤黒い光は。
「違うよサキちゃん。これは――」
「しゃべるなユーリ!」
クルトの叱責に合わせて、先頭の獣が激しく吠えた。
「呼ぶな。……魅入られる」
ユーリの表情が固く冷えた。
赤毛の友人が、ひたすらに遠ざけようとしているもの。彼女を守り抜かねばと構える相手。
(……まさか!?)
昔話で聞いたことがある。
女神が討ち取った邪な神。かの邪神は、その力を封じられる直前。最後の力を振り絞って、大地に血の雨を降らせた。
そして、雨が溜まった場所から、いつしか"魔獣"が生まれるようになった――と。
"魔獣"。
それは人の命を容赦なくもいでいく、邪悪の使徒だ。
灰泥達の中に片生がいたのか。淪落と繋がりでもあったのだろうか。
「クルト、無茶だよ! 巫女様がいないのに勝てっこないっ」
赤毛の友人の気配が動く。
逼迫した真力が、言葉の正しさを無言のまま肯定している。
「結界の中にいましょう。救援も来ていますから、待っていればきっと――」
悲鳴を出したのはユーリだった。
同時に、頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。半端に出していた音を飲み込んで、息を止めるのが精一杯だった。
耳鳴りで収まらなかった予感。
苦痛のあまり色あせた世界の中、白が赤に塗りつぶされる。
「……っ、こいつら火炎を飲んでやがる」
"魔獣"と呼ばれる所以を、この時理解した。
獣とは別の生き物だ。
だって山の野犬は、火炎を吐いたりしなかった。
続けざまに赤が広がる。自分達がいる円を残して、壁も天井も灰色に煤けていく。
気力を束ねて衝撃に耐える。耐えながらも、長く結界を保たせようと真円の外側に守護を張った。
だがしかし、襲い掛かってくる火炎を防げたのはたったの一度。力の重さに耐えかねて、二度目が来る前に真円を弾いた。
(強い!)
いまだ人々を恐れさせている存在。
真導士ならばと思っていたけれど、浅はかな考えだったようだ。
相棒の輝尚石を持ってくればよかった。言いつけだからと黙契だけでも死守すればよかった。
勝機を見出せず、心が弱さをこぼす。
悲観が、足元から這い上がってきた。
導士三人の力では対抗できない。救援を待つことが全て。弱気な結論は、知らず訪れていた危機に、大きく揺さぶられることとなる。
「……あ、れ?」
最初に察知したのはユーリだった。彼女はおかしいなと自分の襟元を緩めて、大きく深呼吸をした。
「息……できないよ?」
言われて気づいた。
自分の呼吸も浅くなっている。
彼女を真似て深呼吸をしても、苦しさが胸に留まり続けている。見れば、構え続けているクルトの呼吸も浅く、速くなってきていた。
結界の真円はいまだ保たれている。煌々と輝いている円は色濃いまま。
「焼かれてる」
赤毛の友人から、低く搾り出された言葉。示す事柄に、火炎の追撃の中で思い至った。
「大気が……燃やされている?」
馬鹿なと思った。
けれども、息苦しさが事実として横たわっていた。
待ち続けるという選択肢は、帰還に繋がる唯一の道であったのに……。それが、幻の如く消えゆこうとしている。
「ユーリ」
荒い息の呼びかけがきた。
「二人で走れ。オレはおっさんのとこまで引き返す」
無茶だ。
即座に弾き出した答えを口にするよりも早く、クルトが強く言い募る。
「行け。このままじゃ、どっちにしろ全滅だ。輝尚石を持って二人で行け」
「いやだよ!」
反発はユーリの方が早かった。
「背伸びばっかりして、全然似合わないって言ってるじゃない!」
クルトは前を向いたまま微動だにせず、その背中で言葉を受けている。
「わたしたちは帰りません。三人で戦いましょう」
「無理言うな。オレにだって意地がある」
構えを崩し、クルトは例の粉を自身の周囲に振りまいた。指についた粉で両目の下に一本ずつ、つりあがるような線を引く。
しきたりの一つであろう儀式。ユーリの嘆きが強くなる。
往生際悪く抜け道を探していた自分は、舞い上がった黄色い粉を見送り……その光景を見た。
"魔獣"が、後ずさっている。
厭うような動き。まるで黄色の粉を恐れているような――。
火炎がぶつかり、描かれていた真円にゆがみが出た。
結界の放出が、終わろうとしている。
事実を見届けたクルトは、真円から飛び出し、真術を展開した。
描かれた真円から霧があふれる。霧は充満した後、凝縮して形を成した。
輪郭がぼけているものの、"魔獣"と似た形をした獣達があらわれた。
霧の獣がいっせいに襲いかかる。もつれ込んだ獣達が、白の幕の向こう側で蠢いている。
赤の人影が、狭い場で跳躍する。
大きく跳び、天井で反転したクルトは、一匹の"魔獣"に強烈な突きを繰り出す。
高い咆哮と共に、"魔獣"が通路を転がった。
繰り出されたのは、黄色の粉をまぶした棒先。打撃以上の明らかな効果が見て取れた。
「危ない!!」
涙交じりの警告は、しかし遅い。
彼女の声を受けて後退したクルトより、"魔獣"の速さが上回っていた。
咄嗟に構えを取った武器は、"魔獣"の一噛みで破壊される。
武器を失いつつも身をかばいきったクルトに、またもや影が飛びかかってきた。
悲鳴が響く。
首筋目掛けての攻撃が、深く彼の身に食い込んだのだ。ぐらりと身体が傾き、そして力尽きたように倒れる。転倒に合わせて、霧の獣があえなく消失していった。
「クルトさん!!」
せめてと展開した流水。
押し流すほどの力もない水は、何とか"魔獣"の気だけは逸らしてくれた。
守護を。
そして癒しをとの算段を崩したのは、一陣の風。
絶叫するように名を呼び。一人、真円から出たユーリは、一目散に幼馴染の元へと駆けていく。
獣達の関心が、ユーリに集中した。赤黒い光が強く明滅している。
駆けていく彼女は、白を帯びて円を描く。
"魔獣"を省みることもなく選んだ真術は――"癒しの陣"。
咄嗟に身を翻し、這い蹲るようにして輝尚石を手にした。
ちらちらと弱さを出しはじめている水晶を握り、がむしゃらに投げつけ、拍子に挫きかけた足を引き上げて走る。
"魔獣"の口が大きく開かれた。
開かれた口の奥に濁った光を見つけ、さらに足を速めた。
壁に当たり。ころころと転がった輝尚石は、倒れたクルトの腕の隣にに位置を定める。
幼馴染の番をしっかりと包んだ円に向かって、勢いよく頭から飛び込んだ。




