消えた望み
左の扉の向こう側にあったのは、深い闇だった。
暗く、深い。
夢と現の間にある夜空の世界を、ただ落ちていく。
いつからか、歯車の音が聞こえていた。
落ち続けている自分の耳元で、音だけがずっとそこにいる。
夜空には、たくさんの光。
星達は、訴えるように激しく明滅している。
涙が頬を伝う。
これで何人目だろう?
身体が光を通過するたび、喪われた人々の時を視る。
交わることがなかった人々の……十二年前を生きた彼等の記憶が、こんなところに囚われていた。
一人。
また一人。
額を貫かれ。悲鳴を上げては倒れていく、過去の導士達。
ぼんやりと開かれている世界。積み上げられていく短い羽。築かれた白い山を、笑いながら見ている妖艶な女。
幻色の星を通るたび、額の芯が熱くなる。
彼等が言う。
怖かった。
そして悲しかった……と。
大切な人と、これからのすべてを奪われて、どうしようもなく悔しかったのだと。
歯車が回り、星が流れる。
光に触れるたび、涙があふれた。
星達が伝える最期の時は、どれも苦痛に染まっている。助けを求めて上げた手は、とうとう何も掴めないままだった。
救いのない事実を伝えては流れていく、記憶の星々。
光と共に渡される悔い。
何一つ、取りこぼしたくなくて。思いだけでも守りたくて、両手をきつく握る。
星々の中、どれよりも強く明滅している二つがあった。
落下は止まらない。
眩むような"二つ星"に落ちた時、歯車の音が、いままでで一番大きく聞こえた。
「無理よ、ジーノ!」
女の声がする。
「一度、閉じましょう!」
真っ赤だ。
夕日よりも赤い光球が、見るものすべてを真紅に染めている。
「何を馬鹿な! 次の機会があるかもわからない。それを――」
咆哮が、憎き番の声を消し去った。
どっと押し寄せてくる圧。
大気と同じように赤く染まった水晶の床が、びりびりと振動していた。
隙間から、二人を睨めつけている誰かがいる。
その人の世界は、とても狭い。
すでに片目が見えていないのだ。機能していない左目は、痛みより熱さが際立っている。
あの日、あの時のあの場所。
光達が最期を迎えた場所――"封印の間"。
悲劇によって埋め尽くされたと思っていた場に、まだ生き残っている人がいた。
その人は、白い山の中で息を潜めている。
目の前には躯。
額を貫かれ。血を流し。目を閉じることもできないでいる、哀れな娘の遺体。
姿を目に入れた瞬間、呼吸が乱れそうになった。
咆哮に紛れて、一度だけ大きく息を吸い。自身に言い聞かせるかのように、細く細く息を吐く。
ちくしょう――!
胸中で悪態をつき、奥歯を噛み締めながら娘の目を閉ざした。
娘のそばかすの上に、いくつもの透明な筋。赤に照らされて光る、水の道。
それはまさしく、血の涙だった。
彼の胸で怒りが燃えている。
しかし、動かない。
目と胸に、滾るような熱を抱えながらも、ひたすらに息を潜めて機を窺う。
帰る。
必ず帰る。
あいつが帰りを待っている。
繰り返し、繰り返し、心で念じ続けている。
愛情に由来する熱が、極限の窮地にある彼を、密かに奮い立たせていた。
一色に染められた"封印の間"。
認識できるものが乏しい世界で、赤に慣れた片目が、女が手にしている禍々しい血色の杖と、床に片膝をついた男の姿を捉えている。
呼吸を再び整える。
けれども彼はまだ動かずに、視線を横へと滑らせる。
視線が渡った先にも、数人の導士が倒れていた。抵抗の光の下、暴風に晒されるがままになっている短いローブ。
その中に、風向きに逆らって動くものがあったように思えた。
「とても無理だわ。もう一つの遺跡を探しましょう。このままじゃ犬死よ!」
小刻みに震える腕。
ローブから覗く女の素肌に、ぽつぽつと斑点が浮かぶ。
皮膚の下で、出血がはじまった。
杖を制御している腕に、過大な負担がかかっている。
女は急かすように相棒を呼び、きっと天を睨みつけた。睨んでいるのは、はるか上空にいる、おぞましい存在。
どれだけ抑えていられるか。そもそも本当に抑えているのか。
疑問と焦燥が、目から滲出していた。
暴風の中、訪れたわずかな沈黙。
「……仕方がないか」
そして、決定が下される。
サガノトスの歴史が、断絶から免れた瞬間。
そんな歴史の岐路で、片膝をついていた男が立ち上がる。憎き番が、揃って上空を見上げた。
二人が並ぶ。
こちらに、背を向けて――。
時が来た。
床に伏せていた者達が、暴風に逆らって走り出す。
それを合図に、彼も場に躍り出た。
先に動いた者達が男の反撃を受け、床に叩きつけられていく。
間に合え――どうか、間に合ってくれ!!
抵抗していた最後の一人が倒れ込む。男の目が、彼を捉えた。
守りを捨て。一心に目指すは、赤い光。
右手には、強い気配を宿した輝尚石。
隠し持っていた水晶が、灼熱を生む。生み出された荒ぶる炎は、赤き神鳥の気配をまとっていた。
床を焦がしながら、熱が一直線に抜けていく。向かった先には、身動きを封じられた状態で、大きく目を見開いた女。
女の目が灼熱に染まり――唐突に、夜が下りる。
何も見えない。
あれだけ赤い光に満ちていたのに、夜に似た闇だけがそこにある。
でも、聞こえている。
夜の中、音だけが鮮明だ。
かたかたと鳴っている歯車。鮮明な音に耳を澄ませて、やっと気づいた。
これは歯車の音ではない。
もっと小さく軽い、他の何かだ。
小石が転がるような音と一緒に、笛に似た高い音がしている。
細く、細く。
いまにも途切れてしまいそうな音は、喉元から生まれている。
突然、すさまじい叫びが上がった。
真円が夜の向こうで輝いている。
右へ、左へと旋回する蠱惑の円。明滅しながら輝いて……音もなく消えていく。
次に鈍い音がした。
どこかで重いものが落ちたようだ。
その音が、何より意識に強く響いた。
静かに瞼が上がっていく。もどかしいほどゆっくりと開かれた世界。そこに、左目と額から血を流し、絶命している導士の姿があった。
一瞬、過去といまが混ざり、ひどい混乱が起きる。
先ほどまで自分が乗っていただろう彼は。
額を小ぶりの杖に貫かれ、息絶えてしまったその人は――グレッグによく似ていた。
ひゅうと、喉から高い息が漏れる。
名を呼ぼうとしたのだ。けれども、音が生まれることはついになかった。
「男でちょうどよかったわね。あら、どうしたのそんな顔をして」
「これは意外だ。まさか蠱惑で…………。やはり遺跡は如何ともし難い。君の言うとおり、今回は撤退が最善のようだな」
さて、と男が言った。
その瞬間、ふいに前髪が落ちて、力なく開かれたままの目にかかった。
よく見知った色が、目の前で揺れている。
その光景を見て、胸が潰れそうに痛んだ。
この事実は――ああ、これだけは知りたくなかった。
憎い男の額で、銀の飾りがぎらりと光る。
「往生際悪く、まだ息をしているものがいるな」
声が遠ざかっていく。
夢が。
彼女の記憶が、終わりかけている。
目尻から、熱い雫が伝う。
笛の吐息を小さく鳴らして。現実を拒絶した彼女が、そっと目を閉じた。
――お前達に栄誉を与えよう。
愉悦を滲ませている声が、大きくなり、小さくなりながら離れていっている。
いくつか苦しい呼吸をした後、最後の力を振り絞り、彼女が再び瞼を開けた。
一度は拒絶した世界で、何かを探す。
傾斜のある水晶の床。笑う番と、背後に立つ大きな鏡。ところどころに空いた、小さな"真穴"。床の下にある血のような流れ――どこまでも続く、果てしない闇。
そろりそろりと動いていた視線が、床の一点で止まる。
止めた先は、片隅にある"真穴"。
邪悪の咆哮が途絶えた場で、またもあの歯車の音を聞く。
音の正体は、意外なものだった。
すっかり動かなくなった視界に、使い込まれた皮袋が一つ。
彼女と同じように力なく倒れている袋から、ささやかな光を帯びた茶色の粒がこぼれていた。
かたかた、ころころと音を立てて。
ゆるやかな傾斜に沿って、転がっていくのは小さな種。
彼女の抱いていた未来が、一つ、また一つと"真穴"に飲まれ、消えていっている。
間近で、ただ殺されるよりいいだろうと声がした。
薄い金の前髪が揺れる。
彼女の視線は、革袋に縫い付けられていた。
もう、思考すらも消えている。それなのに彼女は、革袋から覗く色を追い続けていた。
擦り切れた革袋の奥。大事に仕舞われていたのは記憶に残る、あの腕輪。
その色に向かって、手を伸ばそうとした。
しかし手は動かず。声を上げることもできない。
だから、無心に色だけを追う。
視線の先には、濡れたような青。
夕暮れと花壇の思い出が宿る、きれいな色のとんぼ玉。
彼女の目には、その色だけが映り続けていた。




