日替わり定食
佐伯には、女が苦手だという自覚はなかった。
むしろ得意なほうだと思っていた。
大学時代、ミスコンで優勝した女と二人きりになったときも、普通に話せた。
「佐伯くんって緊張しないんだね」
「何が?」
本当に何がなのかわからなかった。
会社に入ってからもそうだった。
受付にモデルのような新人が入ってきた日、男性社員たちが妙にそわそわするなか、佐伯だけは平然としていた。
「佐伯さん、あの子めちゃくちゃ美人じゃないですか」
「そうだな」
「タイプじゃないんですか?」
「いや、美人だとは思うけど」
それ以上の感想はなかった。
だから佐伯は、自分は女性に動じない人間なのだと思っていた。
三十二歳になるまで。
自分の弱点に気づいたのは、会社の近くにある食堂だった。
昼十二時。
佐伯は同僚の山下と暖簾をくぐった。
「いらっしゃーい」
その声を聞いた瞬間だった。
佐伯の足が止まった。
カウンターの向こうに、五十代くらいの女性が立っていた。
割烹着。
髪は後ろでまとめている。
化粧は薄い。
右手にはお玉。
「二人?」
「あ、はい」
山下が答えた。
佐伯は答えられなかった。
心拍数が急激に上がっていた。
なんだ。
これは。
「そっち座ってね」
「は、はいっ」
声が裏返った。
山下が振り返った。
「どうしました?」
「いや」
二人で座る。
佐伯はメニューを開いた。
しかし文字が頭に入ってこない。
焼き魚定食。
生姜焼き定食。
唐揚げ定食。
日替わり定食。
「決まった?」
来た。
佐伯はメニューで顔を半分隠した。
「あ……あの」
「ん?」
「ひ、日替わり……」
「日替わりね。ご飯、大盛りにする?」
佐伯の脳が停止した。
ご飯。
大盛り。
俺のご飯の量を気にしてくれている。
「……普通で」
「若いんだからいっぱい食べなさいよ」
「…………はい」
「じゃ、大盛りね」
彼女は笑って厨房へ戻った。
佐伯は両手で顔を覆った。
「何なんですか」
山下が言った。
「何が」
「顔、真っ赤ですよ」
「暑いんだ」
「十月ですよ」
佐伯は水を飲んだ。
手が震えていた。
おかしい。
こんなことは初めてだった。
数分後。
「はい、お待たせ」
彼女が定食を置いた。
「こっち大盛りね」
「ありがとうございます」
「いっぱい食べて午後も頑張って」
佐伯は箸を落とした。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
彼女が厨房へ戻る。
山下が黙って佐伯を見ていた。
「佐伯さん」
「なんだ」
「もしかして」
「なんだ」
「熟女好きですか?」
「違う」
即答だった。
「でも」
「違う」
「さっきからおばちゃんが来るたびに」
「違う」
「耳まで赤くなってますよ」
「違うと言ってるだろ」
その日の午後。
佐伯は仕事に集中できなかった。
五時半。
退勤しようとしていると、受付の新人に呼び止められた。
「あ、佐伯さん」
振り返る。
モデルのような美女が立っていた。
「今日、みんなで飲みに行くんですけど、佐伯さんもどうですか?」
「今日はいいかな。ありがとう」
「残念」
何とも思わなかった。
エレベーターに乗る。
一階。
会社を出る。
気づけば、昼の食堂の前に立っていた。
暖簾が揺れている。
佐伯は時計を見た。
十八時十二分。
腹は減っていない。
昼に大盛りを食べたからだ。
帰ろう。
そう思った。
そのとき、暖簾の向こうから声がした。
「あら」
佐伯の背筋が伸びた。
昼のおばちゃんだった。
「あんた、お昼に来た子じゃない」
「は、はい」
「晩ご飯?」
「いや、その」
「ちゃんと食べて帰りなさいよ」
「…………はい」
佐伯は再び暖簾をくぐった。
この日から。
彼は毎日、この食堂に通うことになる。




