処理が上手くできない人達
返事がないということは、リアクションがないということだ。
それ以上でも以下でもない。
こちらが何かを投げたとき、相手から何も返ってこない。
肯定も否定も、理解したという合図もない。
その沈黙を
「察してほしい」
「分かるでしょ」
で済ませる人間が、最近やけに増えた気がする。
人間は、それぞれ別の個体だ。
同じ空間にいても、
同じ言葉を聞いていても、
頭の中まで共有されているわけじゃない。
それなのに、なぜか
「言わなくても伝わっている前提」
で会話を進める人間がいる。
聞こえているのかどうか。
理解しているのかどうか。
同意なのか、保留なのか、拒否なのか。
それを言葉にしないまま黙っていることを、
コミュニケーションだと思っている。
沈黙は、万能じゃない。
沈黙は、深さでも思慮でもない。
ただの未処理の状態だ。
こちらが話している最中にスマホを見て、
相槌も打たず、目も合わせず、
それでいて「聞いてたよ」と言う。
聞いていたかどうかなんて、こちらには分からない。
人の頭の中を覗く能力なんて、誰も持っていない。
それを理解していない人間が、驚くほど多い。
自分の中で理解したつもりになって、外に何も出さない。
それで相手が不安になると、
「考えすぎ」
「気にしすぎ」
と片付ける。
違う。
返事がないから、不安になる。
反応がないから、確認せざるを得ない。
「了解」
「分かった」
「今は判断できない」
それだけでいい。
完璧な意見も、気の利いた感想も要らない。
ちゃんと聞こえているかどうか、
ちゃんと受け取ったかどうか、その証明が欲しいだけだ。
会話は、キャッチボールだ。
投げたら返す。
取れなかったなら取れなかったと言う。
黙ってボールを地面に落としたまま立ち尽くすのは、
放棄だ。
沈黙を美徳にできるのは、
それが共有されているときだけだ。
前提も確認もない沈黙は、ただの無責任だ。
最近は、返事を待つこと自体が消耗になってきた。
返ってこない可能性を考えながら話すのは、
独り言を丁寧に磨いているみたいで虚しい。
だから私は、返事がない相手には、それ以上踏み込まない。
理解されていないかもしれない場所に、
言葉を置き続けるほど、親切ではいられなくなった。
人はそれぞれ別の個体だ。
だからこそ、言葉で橋を架けるしかない。
その橋を渡る気がないなら、最初から黙っていてほしい。
返事がないということは、
リアクションがないということだ。
それを
「分かってるはず」
で誤魔化す時代は、もう終わっていい。




