君を救う旅は、僕の夢だった
「ダイブ・イン」
視界が虹色のノイズに覆われ、重力が消失する。
この浮遊感。現実の肉体を置き去りにして、魂だけが電子の海へとダメイする感覚。
かつては、これこそが俺たちの放課後の楽しみだった。剣と魔法の世界。
だが今は違う。これは、俺にとっての贖罪の儀式だ。
光が収束し、世界が構築される。
風の音。草の匂い。そして、目の前に広がるのは、いつもの広場ではなく、クリスタルのように透き通った棺が並ぶ、静寂の神殿だった。
「……メイ」
俺、カイトは、その中の一つに駆け寄る。
氷のような棺の中で眠っているのは、長い銀髪の少女メイのアバターだ。
エルフの耳、華奢な体躯、そして何より、俺がプレゼントした『星屑のローブ』を身に纏っている。まるで今にも目を開けて、「遅いよカイト!」と笑いかけてきそうなほど、彼女は生々しくそこに存在していた。
だが、彼女は目覚めない。
《エーテルガルド》の大規模アップデートの日。謎のシステムエラーが発生し、当時ログインしていたプレイヤーの一部が強制ログアウトされた。
しかし、メイだけが戻ってこなかった。
現実世界の彼女は、病院のベッドで原因不明の昏睡状態に陥っている。医師はお手上げだった。脳波は正常だが、意識だけがどこかへ消失していると。
俺は知っている。彼女の意識は、このゲームの中に囚われているんだ。
あの時、俺が無理に彼女を誘わなければ。
「新しいダンジョンに行こう」なんて言わなければ。
俺は拳を棺に叩きつけた。システム音が虚しく響くだけで、彼女には届かない。
俺のせいだ。俺が彼女を、この偽りの世界に閉じ込めてしまったんだ。
それからの俺の日常は、狂気じみたものになった。
学校が終われば即座に帰宅し、VRヘッドセットを被る。食事もそこそこに、睡眠時間すら削ってログインし続けた。
目的はただ一つ。この世界に隠された「バグ」あるいは「特異点」を見つけ出し、メイの意識を強制ログアウトさせる方法を探すことだ。
掲示板やSNS、裏サイトまであらゆる情報を漁った。
そこで見つけた一つの噂。
『世界の果て、忘却の領域に座す女神が、失われた魂を管理している』
運営すら把握していない未実装エリアの噂だ。普通のプレイヤーなら眉唾だと笑うだろう。だが、今の俺にはそれが唯一の希望の光だった。
「カイト、またそこにいるのか?」
フレンドの戦士、カイドからチャットが届く。
『お前、現実は大丈夫なのか? 最近、学校でも幽霊みたいだって噂になってるぞ』
「うるさいな。俺のことはいいんだ」
俺はウィンドウを乱暴に閉じた。
カイドはいい奴だが、今の俺には彼の心配すらノイズに聞こえる。
俺は装備を確認する。レベルはカンスト済み。装備はサーバー内でも屈指のユニークアイテムで固めている。
だが、どれだけ強くなっても、メイ一人が救えない。
俺は神殿を出て、荒野へと向かった。
未実装エリアへの入り口とされる『嘆きの渓谷』。そこへ向かう足取りは重いが、止まるわけにはいかない。
メイが待っている。暗闇の中で、たった一人で。
『嘆きの渓谷』は、高レベルモンスターが徘徊する危険地帯だ。
俺は愛剣《黒の断罪者》を振るい、襲い来るキメラを両断する。
赤いポリゴンとなって霧散する敵。経験値取得のファンファーレ。
何もかもが日常の延長線上にあるはずなのに、今日は何かがおかしかった。
ザザッ……。
視界の端で、風景がノイズのように揺らぐ。
一瞬、渓谷の岩肌が「白い壁」に見えた気がした。病院の壁のような、無機質な白。
「……疲れか?」
俺は頭を振る。連日のダメイで脳が悲鳴を上げているのかもしれない。
だが、違和感はそれだけではなかった。
ダンジョンの奥深くに進むにつれ、出現するモンスターの挙動がおかしい。
攻撃パターンが単調すぎるのだ。まるで、壊れたレコードのように同じ動作を繰り返している。
そして、俺は奇妙なNPCと出会う。
崩れかけた石碑の前に佇む、顔のないのっぺらぼうのNPCだ。
「……カエレ……」
テキストウィンドウではなく、直接脳内に響くような音声。
「カエレ……ココハ、オマエノ……クル……バショデハ……ナイ……」
「なんだ、こいつは?」
剣を向けるが、カーソルが「敵対」を示さない。
NPCはさらに続ける。
「メザメロ……カイト……」
心臓が跳ねた。
NPCが、俺のプレイヤーネームではなく、まるで俺自身を知っているかのような口調で語りかけてくる。
いや、それよりも。
その声の響き。機械的な合成音声の奥に、聞き覚えのある「震え」が混じっていた。
「まさか……メイ、なのか?」
俺が手を伸ばした瞬間、NPCは光の粒子となって弾けた。
後に残されたのは、未実装エリアへの座標データが入った『鍵』だけだった。
座標が示したのは、マップの最果て。テクスチャが貼られていない、黒い虚無が広がる空間だった。
そこに、巨大な門が浮いている。
門の前には、漆黒の鎧を纏った騎士が立っていた。
《システム・ガーディアン》。
レベル表記は『???』。測定不能。
「ここを通すわけにはいかない」
ガーディアンが剣を構える。その声は、低く重いが、どこか悲痛な響きを帯びていた。
「どけ! 俺はメイを助けに行くんだ!」
「助ける? それがお前の望みか? それとも、自分の罪悪感を消したいだけか?」
「黙れ!」
俺はスキルを発動し、一気に距離を詰める。
激突。
衝撃が走るはずだったが、俺の体は痛みを感じなかった。
HPバーは減っている。だが、痛覚設定をオンにしているはずなのに、何も感じない。
まるで、俺の感覚機能そのものが麻痺しているかのように。
ガーディアンは強かった。俺の攻撃をすべて見切っているかのように受け流す。
だが、決定打を打ってこない。まるで、俺を傷つけたくないかのように、手加減をしている。
「なぜだ! なぜ本気で来ない!」
「お前を傷つけたくないからだ、カイト!」
ガーディアンが叫んだ。
その瞬間、兜の隙間から見えた瞳。
それは、メイと同じ、澄んだ翡翠色をしていた。
ガーディアンの一撃が、俺の剣を弾き飛ばした。
俺は地面に転がる。
だが、ガーディアンは追撃してこない。その場に膝をつき、苦しそうに兜を押さえている。
「……時間が、ない」
ガーディアンが呟く。
周囲の空間が、激しく明滅し始めた。
黒い虚無の空に、亀裂が走る。その亀裂の向こう側から、現実世界の音が漏れ出してくるようだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
血圧低下……これ以上は……。
先生!
モニターのアラート音。医師の緊迫した声。
「なんだ、この音は……?」
俺は耳を塞ぐ。だが、音は頭の中に直接響いてくる。
世界がバグり始めた。
地面が格子状のワイヤーフレームに変わり、空からはテクスチャの剥がれたポリゴンが雨のように降り注ぐ。
「カイト、気づいて」
ガーディアンの声が変わる。
あの機械的なエフェクトが消え、透き通るような少女の声になる。
「ここは、あなたが居ていい場所じゃない」
俺は呆然とガーディアンを見上げる。
漆黒の鎧が光となって剥がれ落ちていく。
その下から現れたのは、あの日、俺が神殿で見つめ続けていた少女。
「……メイ?」
メイは悲しげに微笑んでいた。
アバターの姿ではない。現実の、制服姿のメイだ。
俺は震える足で立ち上がり、彼女に歩み寄る。
「メイ、やっと会えた……! さあ、帰ろう。ログアウトする方法を見つけたんだろ? 一緒に戻るんだ!」
俺は彼女の手を取ろうとした。
だが、俺の手は彼女の体をすり抜けた。
「え?」
「触れられないよ、カイト。だって、私はここにいないから」
メイは首を振る。
「どういうことだ? お前はゲームの中に閉じ込められて……」
「違うの。閉じ込められているのは、私じゃない」
彼女は指先で、崩壊しつつある世界を指し示した。
「ここはゲームの世界じゃない。ここは、あなたの夢。あなたの意識が作り出した、閉鎖空間」
脳髄を殴られたような衝撃。
俺の意識が作り出した?
じゃあ、俺が今まで戦ってきたモンスターは? カイドとの会話は? 毎日のログインは?
「思い出して、カイト。あの日、本当に何があったのか」
メイの言葉が、俺の脳の奥底に封印されていた記憶の扉をこじ開ける。
放課後の交差点。
青信号。二人で歩き出した横断歩道。
信号無視のトラック。
俺を突き飛ばす衝撃。
いいや、違う。俺が、彼女を突き飛ばしたんだ。
キキーッというブレーキ音。鈍い衝突音。
宙を舞ったのは、俺だ。
メイじゃない。
記憶がフラッシュバックする。
アスファルトの熱さ。血の匂い。遠くで叫ぶメイの声。
『カイト! カイト、死なないで!』
俺は膝から崩れ落ちた。
「俺は……事故に遭って……」
「そう。あなたはあの日からずっと、意識不明の重体なの。もう半年も」
メイが涙を流しながら告げる。
「この世界は、あなたの脳が見せている夢。あなたは、自分が傷ついた現実を受け入れられなくて、『メイを助けるために戦うヒーロー』という物語を作って、ここに逃げ込んだの」
そうか。だから痛みがなかったんだ。
だから、メイは目覚めなかったんだ。
俺が目覚めたくないから、彼女を眠らせ続けていたんだ。
『メイを助ける』という目的がなくなれば、俺はこの世界にいる理由を失い、現実に直面しなければならないから。
「でも、もう限界なの」
メイが空を見上げる。亀裂は広がり、世界が崩壊しようとしている。
「あなたの体が、現実で悲鳴を上げている。今、目覚めないと、あなたは本当に死んでしまう」
「でも……っ!」
俺は叫ぶ。
「戻ったら、俺はどうなる? 半年も寝てたんだ。体は動くのか? 後遺症は? それに、あんな痛い思いをするのは……怖いんだよ!」
ここなら、俺は最強の剣士だ。五体満足で、空だって飛べる。
残酷な現実に戻るより、このままメイの幻影と永遠に過ごすほうが幸せなんじゃないか?
そんな俺の弱音を遮るように、メイの幻影が、俺の頬を両手で包んだ。
すり抜けるはずの手が、今は温かい。
「私がいる」
彼女は力強く言った。
「現実には、私がいるの。毎日、あなたの手を握って、話しかけてる。あなたが戻ってくるのを、ずっとずっと待ってる」
視界が涙で滲む。
彼女は俺を待っている。半年間、動かない俺のそばで。
「……メイ」
「帰ろう、カイト。痛みも、苦しみも、全部私が半分背負うから。だから、お願い。私を一人にしないで」
俺の心臓が現実の心臓が、ドクンと大きく脈打った気がした。
俺は立ち上がる。
背中の《黒の断罪者》を地面に突き刺し、捨てる。
この世界での強さなんて、もういらない。
「ああ……帰るよ。君のところへ」
俺はメイの手を握り返した。
今度は、確かな感触があった。
世界が真っ白な光に包まれていく。
重い。
まぶたが、鉛のように重い。
喉が焼けつくように渇いている。
全身に鈍い痛みが走っている。
ああ、これが「生きている」ということか。
俺は渾身の力を込めて、目を開けた。
ぼやけた視界に、白い天井が映る。
消毒液の匂い。電子機器の規則的な電子音。
そして、右手に感じる、温かい重み。
視線をずらすと、ベッドの脇で椅子に座り、俺の手を握りしめたまま突っ伏している少女がいた。
銀髪ではない。黒髪の、少し痩せてしまった、現実の彼女。
「……め、い……」
声は掠れて、ほとんど空気の音しか出なかった。
だが、その微かな音に、彼女はビクリと反応した。
顔を上げる。
目の下に隈を作り、涙で赤く腫れた瞳。
彼女は、信じられないものを見るような顔で俺を見つめ、それから、くしゃりと顔を歪めた。
「……カイト……!」
「……おは、よう……」
俺は、動かない指先を必死に動かして、彼女の手を握り返す。
ゲームの中のような、華麗な動きはできない。
みっともないくらい無様で、弱々しい力だ。
それでも、この温もりだけは、どんなレアアイテムよりも尊い。
メイが俺の胸に縋り付いて泣きじゃくる。
その体温と重みが、俺に教えてくれた。
俺の旅は終わったのだ。
偽りの楽園から、愛しい人が待つ、この痛ましくも愛おしい現実へと、俺は帰還したのだと。
窓の外から、朝日が差し込んでくる。
それは、ポリゴンの光よりもずっと眩しく、俺たちを照らしていた。




