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アリゾナの空に散ったカウボーイ

作者: と゚わん

ブラシをかけるたび、ザッ、ザッ、と乾いた音が心地よく響く。愛馬のダスティは気持ちよさそうに身じろぎし、温かい息を俺の腕に吹きかけた。夕暮れの光を浴びたその赤茶の毛並みは、まるで磨かれた銅貨のように鈍い光を放っている。俺はこの、汗と土と馬の匂いが混じった空気に包まれている時間がいちばん好きだ。余計なことを考えず、ただ目の前の命の温もりだけに集中できる。


「もうじき飯の時間だ、ダスティ」


そう声をかけると、やつは大きな黒い瞳で俺をじっと見つめ返してきた。この瞳には嘘がない。腹が減っているか、喉が渇いているか、機嫌がいいか悪いか。言葉はないが、こいつの考えていることは手に取るようにわかる。人間より、よっぽど素直でわかりやすい。


ふと顔を上げると、地平線の向こう、丘の稜線の下にトゥームストーンの町が広がっていた。最後の夕陽が建物の屋根を赤錆色に染め上げ、乾いた風が運んでくる砂埃の向こうで、ぽつり、ぽつりとランプの灯がともり始める。まるで、夜という獣が目を覚ます合図のようだ。


そして、風は音も運んでくる。


微かだが、途切れることのない喧騒。安っぽい酒場のピアノの旋律、男たちの酔った歓声、時折響くガラスの割れる鋭い音。すべてが混ざり合って、一つの巨大な生き物の唸り声のように聞こえた。(しろがね)の熱に浮かされた町。誰もが一攫千金を夢見て、欲望を隠そうともしない場所。


あの音のどこかに、今ごろ兄貴もいるのだろう。


アイク・クラントン。俺のたった一人の兄貴。きっとまた、オリエンタル・サルーンかどこかで、くだらない手札を握りしめ、ありもしない武勇伝を大声で語っているに違いない。そして、ほんの些細なことで誰かと睨み合い、相手がアープの息のかかった人間だと知ると、さらに大声で悪態をつくのだ。目に浮かぶようだ。


俺はため息をつき、もう一度ダスティの首筋を撫でてやった。ザラリとしたたてがみの感触が、ささくれだった気持ちを少しだけ落ち着かせてくれる。


俺たちが欲しいのは、ただ静かに牛を育て、この乾いた土地で生きていくための場所だけのはずだった。だが、あの町の熱は、すぐそばまで迫ってきている。まるで草原を焼き尽くす山火事のように、じりじりと、俺たちの穏やかな日常を脅かしていた。


遠くで、また甲高い笑い声が聞こえた。俺はそれに背を向けるように、黙々とブラシを動かし続けた。この静けさこそが俺の世界だ。そう自分に言い聞かせながらも、町の喧騒は、背中に張り付いた影のように、どうしても俺の意識から消えてはくれなかった。


ダスティを柵の中に戻し、最後の確認を終えた頃には、空の赤みはほとんど消え、深い藍色がすべてを覆い尽くしていた。母屋から漏れるランプの光が、地面に頼りない四角形を描いている。冷えた干し肉でもかじって、今夜は早めに休もう。そう考えながら母屋へ向かおうとした、その時だった。


遠くの闇から、荒々しい馬の蹄の音が聞こえてきた。一つじゃない、まるで嵐のように地面を叩く音だ。俺は足を止め、音のする方角を睨んだ。この無茶な馬の飛ばし方をする人間を、俺は一人しか知らない。


案の定、蹄の音に混じって、汚い言葉で何かをがなり立てる声が聞こえてきた。兄貴だ。


音はあっという間に大きくなり、やがて一頭の馬が、夜の闇を引き裂くようにして俺たちの敷地へ転がり込んできた。馬は急停止の反動でいななき、前脚を跳ね上げる。その背から、兄貴がもつれるようにして地面に降り立った。いや、落ちたと言った方が正確だった。


「クソったれが!あの野郎ども!」


兄貴は鞍に手をかけたまま、ぜえぜえと肩で息をしていた。顔は酒と怒りでまだらに赤く、いつもはきっちり被っている帽子は斜めにずり落ちている。ベストのボタンもいくつか外れ、胸元からのぞくシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。


「兄貴、何があった。馬が可哀想だろ」

俺は努めて冷静に声をかけた。彼の興奮に引きずられたら、話がややこしくなるだけだ。


「ビリー!お前も聞け!アープの野郎どもが、とうとう本性を現しやがった!」

兄貴は俺の肩を掴み、酒臭い息を吹きかけてきた。その目は血走り、焦点が合っていない。


「酒場でのことだ。俺はただ静かにポーカーをしていただけだ。そしたら、モーガン・アープの野郎が俺のカードを覗き込みやがってな、『カウボーイにしちゃあ、いい手札じゃないか』だと。あの見下した目で、そう言いやがったんだ!」


またか、と俺は心の中でため息をついた。「静かにポーカー」なんて、兄貴に限ってあり得ない。きっと、勝ち分を自慢げにひけらかすか、負け分を取り返そうと大声で騒いでいたに決まっている。


「俺が『失せろ』って言ってやったら、今度はワイアットだ。カウンターの隅でドク・ホリデイと話していたあの野郎が、まるで蛇みてえな冷てえ目でこっちを睨みやがる。『問題を起こすならよそでやれ』だとよ。まるで俺たちが町のゴミか何かみてえな口ぶりで!」


兄貴は掴んだ俺の肩を、怒りに任せて揺さぶった。

「奴ら、自分たちがこの町の王様だとでも思ってやがるんだ!法だ?秩序だ?笑わせるぜ!奴らがやってるのは、ただの縄張り争いだ!気に入らねえ奴らを力で追い出すための、ただの言い訳だ!」


「……だからって、馬を死なせるほど飛ばしてくることがあるか。話はそれだけか?」

俺は兄貴の目を見据えて言った。その剣幕に、兄貴は一瞬たじろいだように見えた。


「それだけじゃねえ!問題はそこじゃねえんだ、ビリー!」

彼は俺の手を振り払うと、忌々しげに町の方角へ唾を吐いた。


「秩序ぶった偽善者どもめ……」


その言葉は、いつもの兄貴の悪態とは少し違って聞こえた。それは、彼の心の底から絞り出されたような、どす黒い憎悪の塊だった。そして、その言葉は妙に俺の胸に突き刺さった。


偽善者。本当にそうなのかもしれない。バージル・アープの保安官バッジの輝きも、ワイアット・アープの揺るぎない正義の言葉も、すべては自分たちの利権を守るための飾り物に過ぎないのだろうか。俺たちが汗水たらして牛を育てているこの土地で、奴らは賭博場からの上がりで肥え太っている。どちらがまっとうな生き方かなんて、誰が決められる?


兄貴はまだ何かぶつぶつと悪態をつきながら、よろめく足取りで母屋の中へ消えていった。残された俺は、一人その場に立ち尽くす。


夜の闇は、さっきよりもずっと濃く、深くなっていた。遠くに見えるトゥームストーンの灯りは、まるで熱病に浮かされた誰かの目のように、不気味にまたたいている。これからやってくる嵐の、最初の稲光を俺は見たような気がした。背筋を、冷たい汗が流れ落ちていった。


兄貴が酒場でモーガン・アープとやり合ってから、数週間が過ぎた。季節は秋へと向かい、朝晩の風は肌にひやりとした感触を残していく。だが、トゥームストーンの町だけは、相変わらず熱に浮かされたままだった。アープ派とカウボーイズ派の間の見えない壁は日に日に厚くなり、酒場の視線は鋭く、交わされる言葉には棘が含まれている。俺はただ、嵐が通り過ぎるのを待つように、黙々と牧場の仕事に精を出すだけだった。


その嵐が、ついに現実のものとなったのは、乾いた風が砂埃を巻き上げる、ある日の午後だった。


ベンソン行きの駅馬車が襲われ、御者と乗客一人が撃ち殺された。


報せはあっという間に町中を駆け巡り、人々の囁き声は、犯人は「カウボーイズ」だと断定していた。俺はすぐにマクローリー兄弟の牧場へ馬を飛ばした。フランクもトムも、俺と同じように苦々しい顔で首を横に振った。「俺たちの仲間じゃない。だが、カーリー・ビルあたりがやったとしても不思議はねえ」。フランクの言葉は重かった。カウボーイズは一枚岩じゃない。中には、俺たちのように静かに暮らしたいだけの者もいれば、血の気の多い無法者もいる。だが、町の連中は俺たちをひとまとめにして「悪党」と呼ぶ。そしてその声を先導しているのが、ワイアット・アープたちだということも、俺たちは知っていた。


言いようのない不安が、腹の底に黒い澱のように溜まっていく。そんな夜だった。


どうにも寝付けず、毛布を抜け出して外の空気を吸っていた時だ。月が雲に隠れ、あたりが闇に沈んだその瞬間、敷地の外れ、枯れたメスキートの木の陰で、二つの人影がひそひそと話しているのに気づいた。


俺は反射的に身を伏せ、息を殺した。一人は、見慣れた兄貴の猫背なシルエット。だが、もう一人は誰だ?その男は背が高く、やけにまっすぐな姿勢で立っている。


やがて雲が流れ、青白い月光が再び大地を照らし出した。その光に浮かび上がった男の横顔を見て、俺は心臓が凍りつくのを感じた。


ワイアット・アープ。


なぜだ。なぜ兄貴が、あの憎きアープと、こんな夜更けに密会している?会話は聞こえない。だが、兄貴が必死に何かを訴え、ワイアットが静かにそれに頷いている様子は見て取れた。二人の間には、まるで獲物を品定めするような、奇妙で歪んだ空気が流れていた。密会はごく短い時間で終わった。ワイアットは闇に溶け込むように去り、兄貴は何度も後ろを振り返りながら、泥棒猫のようにこそこそと母屋へ戻っていった。


俺は夜が明けるまで、物陰で体を丸めていた。頭の中は混乱し、何一つまともな考えが浮かばない。


真実のかけらが俺の耳に入ったのは、それから数日後のことだった。仲間内での噂だった。どうやらワイアットは、駅馬車強盗の犯人を知っているアイクに近づき、仲間を売れば懸賞金が手に入ると持ちかけたらしい。そして、その密告の事実を盾に、今度はアイク自身を意のままに操ろうとしている、と。


俺は震える足で母屋に踏み込み、酒瓶を呷っていた兄貴の前に立った。


「兄貴」

声が自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。

「数日前の夜、ワイアット・アープと会ってたろ。一体、何の話をしてたんだ」


兄貴の肩がびくりと震え、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔はみるみるうちに青ざめていく。

「な、何のことだ。寝ぼけてるのか、ビリー」

「とぼけるな!この目で見たんだ!」俺はテーブルを拳で叩いた。「答えろ!あんた、仲間を売るつもりだったのか!?」


観念したのか、兄貴の顔から血の気が引いていく。だが次の瞬間、それは怒りの赤黒い色へと変わった。

「違う!俺は嵌められたんだ!」

兄貴は椅子を蹴り倒して立ち上がった。

「話を持ちかけてきたのはワイアットの方だ!あいつは俺を利用して、俺たちカウボーイズを内側からめちゃくちゃにするつもりだったんだよ!」


「だとしても、その話に乗ったのはあんた自身じゃないか!金のために!俺たち家族や仲間を裏切って!」


「うるさい!」アイクは獣のように叫んだ。「お前に何がわかる!いつもそうやって物分かりのいい顔をしやがって!お前は一体どっちの味方なんだ、ビリー!」


どっちの味方だ、と?その言葉が、熱い鉄のように俺の胸を焼いた。目の前にいるのは、血を分けた実の兄だ。だが、その瞳に映る俺への不信と自己保身の醜さに、俺はもう一片の信頼も置くことができなかった。


失望が、冷たい水のように頭のてっぺんから注がれる。


だが同時に、ワイアット・アープという男への底知れない恐怖が、背筋を駆け上がってくるのを感じていた。彼は、憎んでいるはずの敵ですら、ためらいなく駒として利用し、用が済めば捨て駒にする。その冷酷さ、計算高さ。


俺たちの敵は、町の保安官事務所にいるだけじゃない。この家の中にさえ、敵はいる。そして、どちらの敵も、俺一人の力では到底太刀打ちできない。


俺は深い孤独感に包まれ、ただ立ち尽くすことしかできなかった。アリゾナの空は、どこまでも高く、俺たちのちっぽけな争いなどまるで意に介さないように、ただ青く澄み渡っていた。


兄貴と怒鳴り合って以来、母屋の空気は鉛のように重かった。俺とアイクは互いに目を合わせようともせず、必要な言葉以外は交わさなくなった。まるで同じ屋根の下に暮らす、見知らぬ他人同士のように。俺は息が詰まるようなその沈黙から逃れるように、以前よりも長い時間を馬の世話や牧場の見回りに費やした。


その日も、俺は兄貴の顔を見ずに済む口実として、馬釘と革紐の買い出しを思いつき、一人でトゥームストーンの町へ向かった。ダスティの背に揺られながら、俺はこれがただの現実逃避でしかないことを自覚していた。


町のメインストリートは、相変わらずの活気だった。だが、俺に向けられる視線は、以前とは明らかに違っていた。すれ違う人々は俺の顔を見ると、あからさまに顔をしかめたり、連れと何かひそひそと囁き合ったりする。駅馬車強盗の一件と、兄貴の密告未遂の噂。そのすべてが「クラントン」という名前に泥を塗り、俺はまるで疫病神のような扱いだった。居心地の悪さに、俺は自然と帽子のつばを深く引き下げていた。


目当ての品が置いてある「フリンの雑貨屋」の前に馬を繋ぎ、軋むドアを押して中に入る。カラン、とドアベルの乾いた音が鳴った。店内は、外の喧騒が嘘のように静かで、スパイスと乾いた木材の匂いがした。


「いらっしゃいませ」


カウンターの奥から、澄んだ声がした。顔を上げると、そこにいたのは店主の娘だった。名前はサラ、だったか。年は俺と同じくらいだろうか。清潔な白いエプロンをつけ、栗色の髪を後ろで一つに束ねている。彼女は俺の顔を見ると、少しだけ目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「何かお探しですか?」


その笑顔には、町の連中が向けるような棘も偏見もなかった。俺は少し戸惑いながら、どもるように答えた。

「あ…ああ。馬の釘と、鞍を補修する革紐を」

「それなら、こちらの棚に。あなたの馬はいつも手入れが行き届いていますね。毛並みがつやつやで、とても大切にされているのがわかります」


彼女の何気ない一言に、俺は不意を突かれた。町の誰もが俺たちを「カウボーイ」という乱暴な括りで見る中で、彼女は俺個人の仕事を見て、それを褒めてくれた。心臓のあたりが、不意に温かくなるのを感じた。


「……ありがとう」

それだけ言うのが精一杯だった。俺は必要な品を手に取ると、足早にカウンターへ向かった。彼女が品物を紙で包む、その白く細い指先から目が離せない。勘定を済ませ、品物を受け取ろうとした時、ほんのわずかに彼女の指が俺の無骨な手に触れた。その柔らかい感触に、俺は慌てて手を引っ込めてしまった。


「ありがとう、助かった」

早口でそう言うと、俺は逃げるように店を出た。カラン、と背後で鳴ったドアベルの音が、やけに名残惜しく聞こえた。


店の前で、俺はしばらく立ち尽くしていた。胸の奥に残る温かい感触と、サラの穏やかな笑顔を反芻する。もしも、俺がただの牧場主で、クラントンという名前でさえなかったなら。彼女と、もっと普通に言葉を交わすことができたのだろうか。そんな叶わぬ夢想に、俺は自嘲気味に口元を歪めた。


その時だった。


通りの向こうから、二人の男が並んで歩いてくるのが見えた。黒いハットに、黒いフロックコート。磨き上げられたブーツが、規則正しく砂埃を蹴立てる。バージル・アープと、モーガン・アープ。その姿は、町の混沌を支配する絶対的な権威そのものに見えた。


俺は息を飲んだ。彼らの巡回ルートだったのだ。


二人の視線が、まっすぐにこちらへ向かってくる。モーガンの目が、店先に突っ立っている俺を捉えた。その瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。酒場で兄貴と睨み合った時のような怒りも、軽蔑もない。ただ、道端の石ころか、汚れた水たまりでも見るかのような、無機質な視線。俺という個人は彼の目には映っておらず、ただ「処理すべき問題」の一部として認識されているだけなのだと、痛いほどわかった。


隣を歩くバージルは、俺を一瞥しただけですぐに興味を失ったように前を向いた。その完全な無関心は、モーガンの冷たい視線よりも、かえって俺の心を深く抉った。


アープ兄弟が俺のすぐ横を通り過ぎていく。彼らが立てる足音と、腰のホルスターで揺れる銃の重みが、ずしりと俺の体にのしかかってくるようだった。


彼らの姿が通りの向こうに消えても、俺はその場から一歩も動けなかった。背後には、サラのいる雑貨屋の温かい光がある。目の前には、アープ兄弟が残していった、冷たく、どこまでも続く影がある。


俺は、そのどちらの世界にも属せない、薄汚れた境界線の上に一人で立っている。


サラとの出会いが灯してくれた小さな光は、あまりにも強く、冷たい現実に吹き消されそうになっていた。だが、それでも。心の奥の、まだ温かい場所で、その光は消えずに、必死にまたたいている。俺は拳を握りしめ、重い足取りでダスティの元へと歩き出した。


雑貨屋でのサラとの出会いは、俺の心に小さな種火を点した。だが、その火は燃え上がるどころか、日ごとに強くなる向かい風に、かき消されそうになっていた。兄貴だ。アイクは、ワイアットとの密告未遂の噂を力ずくでねじ伏せるかのように、以前にも増して攻撃的になっていた。


毎日のように町へ繰り出しては酒を浴び、アープ兄弟への罵詈雑言をわめき散らす。それはもはや、ただの悪態ではなかった。自分はアープなど恐れていない、自分こそが本当のカウボーイなのだと、仲間と、そして何より自分自身に証明するための、痛々しい虚勢だった。


ある日の夕方、フランク・マクローリーが俺たちの牧場にやってきた。彼はいつも冷静だが、その日の彼の目には、珍しく焦りの色が浮かんでいた。

「ビリー、お前の兄貴をどうにかしろ」

馬から降りるなり、フランクは言った。

「このままじゃ、アイク一人の問題じゃ済まなくなる。あいつは、俺たち全員を破滅に巻き込む気だ」


その言葉は、俺が心の底で恐れていたことそのものだった。


その夜、兄貴がまた町へ出かけようと、馬に鞍を置いているのを見つけた。俺は彼の前に立ちはだかった。これが、おそらく最後の機会になるだろうと、直感的にわかっていた。


「兄貴、もうやめてくれ」

俺の声は、自分でも驚くほど静かに響いた。

「町へ行くな。頼むから、今夜はここにいてくれ」


アイクは俺を一瞥し、鼻で笑った。

「邪魔するな、ビリー。これは俺の問題だ」


「違う!」俺は思わず声を荒らげた。「もう兄貴だけの問題じゃない!フランクも心配してた。みんな、あんたの無茶な行動に怯えてるんだ!俺たちの居場所はここだろ?トゥームストーンの酒場じゃない。牛を育てて、静かに暮らそうじゃないか。それで十分じゃないか……」


俺の言葉に、アイクの動きが止まった。一瞬だけ、彼の目に迷いのような光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。だが、それもほんの一瞬のことだった。彼はすぐに顔を歪め、虚勢の鎧で心を固めた。


「黙れ、ビリー!お前に何がわかる!」

彼は俺を突き飛ばした。よろめいた俺の耳に、彼の絶叫が突き刺さる。

「ここで引き下がったら、俺たちは笑いものにされるだけだ!アープどもにも、仲間たちにまでな!カウボーイはなめられたら終わりなんだよ!」


彼は馬に飛び乗ると、一度もこちらを振り返らず、闇の中へと駆け去っていった。蹄の音が遠ざかっていく。俺は、その場に立ち尽くしたまま、兄の消えていった闇を呆然と見つめていた。


もう、駄目だ。

兄貴を止めることはできない。


そして、血を分けた兄を見捨てることも、俺にはできなかった。愚かで、弱くて、どうしようもない兄貴だ。だが、それでも。俺の運命は、あの愚かな男の運命と、分かちがたく結びついてしまっているのだ。


俺はゆっくりと母屋に戻り、自分の鞍を手に取った。ダスティの背にそれを置き、手綱を握る。無意識のうちに、俺の足は町とは少し違う方角へ向かっていた。


馬を歩かせ、丘を一つ越える。眼下に、フリンの雑貨屋の小さな明かりが見えた。


ランプの光が、窓を暖かく照らしている。目を凝らすと、その光の中で動く人影が見えるような気がした。サラの影だ。彼女はきっと、一日の仕事を終え、家族と穏やかな夕食の時間を過ごしているのだろう。


俺のいる暗い丘の上と、彼女のいる光の中。その間には、決して越えることのできない、深く冷たい谷が横たわっている。俺は馬を止め、声もかけず、ただその光をじっと見つめていた。


ありがとう、サラ。

あんたの笑顔は、忘れない。


心の中で、誰にも聞こえない別れを告げる。それは、俺が夢見ていたかもしれない、もう一つの人生への訣別だった。


俺は馬の腹を強く蹴った。ダスティは一声いななくと、丘を駆け下り、町の喧騒へと向かっていく。兄貴が待つ、破滅へと向かって。


引き返す道は、もうどこにもなかった。帽子のつばが風に煽られる。俺は前だけを見据えた。これから起こるすべてを、受け入れる覚悟は、もうできていた。


俺がトゥームストーンの町に着いた時、夜はすでにその本性を現していた。酒場のピアノは狂ったように鳴り響き、男たちの欲望と酔いが混じり合った熱気が、砂埃とともに道を渦巻いている。俺はその空気を肺いっぱいに吸い込み、覚悟を決めてオリエンタル・サルーンの観音開きのドアを押した。


煙草の煙で霞む店内を見渡すと、案の定、兄貴はそこにいた。カウンターの隅で、空になったショットグラスを前に、虚ろな目でポーカーテーブルを睨んでいる。テーブルの上にはカードが散らばり、兄貴の前にあったはずのコインの山は、跡形もなくなっていた。


「兄貴、もう十分だ。帰るぞ」

俺は彼の肩に手を置き、声をかけた。兄貴はゆっくりとこちらを振り返ったが、その焦点の合わない目が俺を捉えるまでに、やけに長い時間がかかった。

「……ビリーか。見てみろよ、この様を。イカサマだ。アープの息のかかった奴らが、俺を嵌めやがった」

「もういいから。立てよ」

俺が腕を引くと、兄貴はそれを振り払った。「うるせえ!これから取り返すんだ!」


その時だった。店の入り口から、痩せた男がふらりと入ってきた。黒いコートを羽織り、時折、口元を押さえて咳き込んでいる。ドク・ホリデイ。その病的な瞳が、俺たちを値踏みするように一瞥した。

「おやおや。威勢のいいカウボーイも、カードの女神には見放されたと見える」

彼の声は囁くように静かだったが、酒場の騒音の中でも奇妙なほどよく通った。その言葉は、兄貴の張り詰めていた最後の理性を、いとも簡単に断ち切った。


「てめえ……アープの犬が!」

アイクはテーブルを蹴り倒し、腰の銃に手をかけた。ガシャン!とグラスやボトルが床に落ちて割れる。今まで騒がしかった店内が、一瞬にして水を打ったように静まり返った。誰もが固唾を飲んで、ことの成り行きを見守っている。


「やめろ、兄貴!」

俺は必死にアイクの腕に組みつき、銃を抜かせまいと押さえつけた。兄貴は獣のように唸り、俺を振りほどこうともがく。その時、人混みをかき分けて、トム・マクローリーが駆け寄ってきた。

「アイク、よせ!ここで事を起こすな!」

トムは俺とは反対側から兄貴の腕を掴んだ。俺とトムの二人で、半ば力ずくでアイクを店の外へと引きずり出す。ドク・ホリデイは、その一部始終を面白そうに、ただ静かに眺めているだけだった。


だが、悪夢はまだ終わらなかった。店の外の冷たい夜気が、兄貴の怒りを冷ますどころか、さらに燃え上がらせた。彼は俺たちの腕を振りほどくと、町のメインストリートの真ん中に立ち、天に向かって絶叫した。


「聞いてるか、ワイアット・アープ!バージル!モーガン!そしてドク・ホリデイ!てめえら偽善者ども!」


その声は、静まり返った夜の町に不気味なほど響き渡った。家々の窓のカーテンが揺れ、暗い影がこちらを伺っているのがわかる。


「明日だ!明日の朝、フリモント・ストリートで待っててやる!そこで決着をつけようじゃねえか!」

兄貴は狂ったように腕を振り回し、叫び続けた。

「俺か、てめえらか!どっちかがこの町の土に転がるまでだ!わかったな!」


もう、ただの酔っぱらいの戯言では済まされない。これは「宣言」だ。町中の人間が証人になってしまった、後戻りのできない挑戦状だ。


俺はトムと顔を見合わせた。彼の顔も、俺と同じように絶望の色に染まっていた。俺たちは再び暴れる兄貴の両腕を掴み、引きずるようにしてその場を離れた。


「兄さん、正気に戻ってくれ!」

俺の悲痛な声は、兄貴の耳には届いていない。彼はただ、同じ言葉を呪文のように繰り返しているだけだった。


空を見上げると、月はなかった。無数の星が、まるで冷たいガラスの破片のように、漆黒の空に突き刺さっている。俺は、兄貴の愚かさが作り出した巨大な運命の渦に、完全に飲み込まれてしまったことを悟った。


明日の朝、何かが起こる。いや、起こさなければならなくなってしまった。


俺の心は、空っぽの絶望で満たされていた。そしてその底で、奇妙なほど冷静な自分が、来るべき時を待っているのを感じていた。


悪夢のような夜が、ようやく白み始めた。俺とトム・マクローリーは、ほとんど一睡もせずに、めちゃくちゃに暴れる兄貴を宿屋の一室にどうにか押し込めた。だが、兄貴は眠るどころか、夜が明けるまでアープ兄弟への呪詛の言葉を吐き続けていた。俺は疲れ果て、ただ壁に寄りかかって、窓の外が灰色から青へと変わっていくのを眺めていることしかできなかった。


朝。俺は冷たい水で顔を洗い、渇いた喉を潤すために通りへ出た。トゥームストーンの朝は、いつもなら活気に満ちているはずなのに、その日に限っては、まるで嵐の前の静けさのように、不気味なほど静まり返っていた。人々は家々の戸口や窓から、不安そうな目で通りを伺っている。兄貴の昨夜の絶叫が、この町全体の空気を縛り付けていた。


その静寂を破るように、通りの向こうでにわかに人が集まり始めた。何事かとそちらへ向かう俺の耳に、断片的な会話が飛び込んでくる。


「……クラントンが、アープ市保安官に……」

「頭から血を流して……」


嫌な予感が、心臓を冷たく締め付けた。人だかりをかき分けると、その中心にいたのは、やはり兄貴だった。彼は地面にみっともなく座り込み、額から流れる血を手で押さえている。その傍らには、彼のコルトが虚しく転がっていた。


目撃者の男が、興奮した様子でまくし立てる。

「朝っぱらから銃をぶら下げてうろついてたんだよ。そしたらバージル・アープとモーガンが来てな。市保安官が『銃を預かる』って言ったんだが、こいつが口答えした途端、バージルの拳銃で頭を殴りつけられたってわけさ」


俺は地面に転がる兄を見下ろした。その情けない姿に、一瞬、どうしようもないほどの軽蔑がこみ上げる。昨夜あれだけ大見得を切っておきながら、この様はなんだ。


だが、その感情はすぐに、別の、もっと熱いものに取って代わられた。


怒りだ。


兄貴は確かに愚かだ。だが、法を司る保安官が、問答無用で市民に暴力を振るっていいという道理はない。これは法執行などではない。ただの、見せしめだ。俺たちカウボーイに逆らう者はこうなるぞ、という、アープ兄弟からの無言の恫喝だ。


昨夜、兄貴が叫んだ「秩序ぶった偽善者どもめ」という言葉が、今や疑いようのない真実として俺の頭に響き渡る。


その時だった。二頭の馬が砂埃を上げて、俺たちの前に止まった。フランクとトム・マクローリーだ。彼らも噂を聞きつけて駆けつけたのだろう。フランクは馬から飛び降りると、座り込むアイクを一瞥し、次に俺の顔をまっすぐに見た。彼の目は、いつも通りの冷静さを保っていたが、その奥深くでは青い炎が燃えているのがわかった。


「ビリー」

フランクは静かに、しかし、有無を言わせぬ力強い声で言った。

「これはもう、アイク一人の問題じゃない。クラントンとマクローリー、俺たち一族全員の名誉の問題だ」


その言葉が、俺の心に残っていた最後の迷いを、跡形もなく吹き飛ばした。


そうだ。もう個人的な感情や、サラへの淡い想いに浸っている時ではない。これは戦いだ。家族の名誉、仲間の名誉を守るための。そして何より、アープ兄弟が振りかざす、その独善的な「正義」に対する、俺たちの抵抗だ。


トムも黙って馬から降り、俺の隣に並んで立った。言葉はなかったが、俺たちは固い決意で結ばれていた。


俺は、腰のホルスターに収まる自分のコルトの、冷たくて硬い感触を確かめた。昨夜までのどうしようもない絶望は、今は冷え切った怒りと、暗い覚悟へと姿を変えている。


頭を抱えてうめく兄貴を背に、俺は顔を上げた。そして、アープ兄弟がいるであろう、町の保安官事務所の方角を睨みつけた。


空は高く、どこまでも青い。まるでこれから起こる悲劇など、何一つ意に介さないように。決闘の舞台としては、皮肉なほどに完璧な一日が始まろうとしていた。


午後の陽光が、フリモント・ストリートに長い影を落としていた。俺たちは、フライ写真館の隣にある、埃っぽい空き地に立っていた。俺、トム、そして頭の傷を押さえながら、幽霊のように青白い顔をした兄貴。フランクは、俺たちの少し前に立ち、通りの向こうを静かに見つめている。


俺は自分の銃の冷たい感触を確かめながら、心のどこかでまだ、最後の望みを捨てきれずにいた。郡保安官のジョニー・ビアンが来てくれさえすれば。彼が間に入れば、こんな馬鹿げた撃ち合いは避けられるはずだ。俺たちは話し合いに来た。ただ、それだけなのだ。そう自分に言い聞かせた。


だが、そのか細い希望を打ち砕くように、彼らは現れた。


通りの向こうから、四人の黒い影が、まるで一つの生き物のように、揺らぐことなくまっすぐにこちらへ向かってくる。先頭はバージル・アープ。その両脇を、ワイアットとモーガンが固めている。そして、三人の少し後ろを、病人のように咳き込みながらドク・ホリデイがついてくる。彼の黒いコートは、不自然に膨らんでいた。その下に隠された長い獲物のシルエットを認め、俺は喉がからからに渇いていくのを感じた。


死神の行列だ。俺は直感的にそう思った。


彼らは俺たちから数ヤードの距離で足を止めた。町の喧騒が嘘のように消え、この狭い空き地だけが、世界から切り離されたかのような静寂に包まれる。風が砂埃を巻き上げ、乾いた草がカサリと音を立てた。


「手を上げろ」

バージル・アープの声は、何の感情も含まない、ただの命令だった。

「銃をこっちへ渡せ。お前たちを武装解除する」


「待ってくれ、バージル」フランクが、落ち着いた声で一歩前に出た。「俺たちはトラブルを起こしに来たんじゃない。話し合いがしたいだけだ」


「俺は丸腰だ!」トムが両手を広げ、コートを開いて見せた。


その瞬間だった。


ワイアットの目が、蛇のように冷たく光ったのを俺は見た。あるいは、ドク・ホリデイが、コートの下からショットガンを引きずり出したのが先だったか。もう、わからなかった。


ただ、世界を引き裂くような轟音が響き渡った。


時間が、まるで粘り気のある蜜のように引き伸ばされる。耳鳴りの中で、俺は見た。轟音と同時に、隣に立っていたフランクの胸が、まるで熟れた果実のように弾けたのを。彼は「え?」とでも言うような、驚きに満ちた顔で俺の方を向き、そして、糸の切れた人形のようにゆっくりと地面に崩れ落ちていった。


「やめろ!」トムが叫んだ。その丸腰の友に向かって、ワイアットの銃が躊躇なく火を噴く。トムは腹を押さえ、信じられないという顔で自分の手を見つめ、そして、膝から折れた。


違う。こんなはずじゃなかった。


恐怖と、怒りと、どうしようもない悲しみが、俺の中で爆発した。理屈じゃない。考えるより早く、俺の右手は腰のコルトを抜き放っていた。フランクのために。トムのために。生きるために。


だが、俺が銃口を向けるよりも早く、鋭く、灼けるような痛みが俺の胸を貫いた。

「ぐっ……!」

モーガン・アープの銃口から、細く立ち上る硝煙が見える。息ができない。足から力が抜け、背後の建物の壁に叩きつけられるようにして崩れ落ちた。腹部に、もう一発、鈍い衝撃。世界が、ぐにゃりと歪んで赤と黒に染まっていく。


霞む視界の端で、俺は信じられないものを見た。


兄貴が。アイクが、敵であるはずのワイアットの腕に、子供のように必死にしがみついている。

「撃たないでくれ!俺は関係ないんだ!」

そう叫ぶと、ワイアットは彼を突き飛ばした。兄貴は一目散に背を向けて、路地へと逃げていく。その姿は、あまりにもみっともなく、哀れだった。


最後の瞬間に見た、兄の裏切り。

俺の口から、カハッ、と乾いた笑いともつかない息が漏れた。

ああ、結局、俺は何のために……。


銃声が、遠くなっていく。体の痛みも、胸を焼く怒りも、ゆっくりと消えていく。


瞼の裏に、故郷の牧場の、乾いた土の匂いが蘇った。ダスティの温かい息遣い。そして、雑貨屋で見たサラの、はにかんだような、優しい笑顔が浮かんで、消えた。


俺はただ、静かに暮らしたかった。ただ、それだけだったのに。


ゆっくりと、最後の力を振り絞って目を開ける。俺が見た最後の光景は、どこまでも高く、どこまでも無慈悲に青い、アリゾナの空だった。

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