『グラウンドに響く愛の声』
『グラウンドに響く愛の声』
第一章 試合への誘い
携帯電話の着信音が、朝の静寂を破る鐘の音のように響いた。隆介は新聞を読む手を止め、まるで運命の使者を迎えるように画面を確認する。娘の菜月からのLINEだった。
「お父さん、今週の土曜日に横須賀市の球場で試合があるけど、行ける?悠翔の応援に来てくれる?」
隆介の唇に、まるで春の陽だまりのような微笑が浮かんだ。孫の悠翔が高校二年生になって、ますます野球に打ち込んでいることを、彼は心の奥底で誇らしく思っていた。しかし、菜月が試合の話をするたびに、隆介の胸には複雑な感情が、まるで秋の夕暮れのように静かに去来する。
「もちろん行くよ。悠翔は最近どうだい?」
すぐに返信が舞い戻ってきた。
「元気にやってる。でも私は...やっぱり健さんに見つからないか心配で」
隆介は深いため息をついた。それは、まるで長い冬を耐える樹木のような重いため息だった。菜月の口癖である「健さんに見つからないかなぁ」という言葉が、彼女の心に宿る見えない重荷を、雄弁に物語っていた。
第二章 悠翔の原点
十六年前、悠翔が生まれた日のことを隆介は、まるで昨日の出来事のように鮮明に覚えている。その日の記憶は、彼の心に深く刻まれた年輪のように、決して色褪せることがない。
「先生、赤ちゃんは...」菜月が、まるで嵐に震える小鳥のような声で尋ねた。
「食道閉鎖症と先天性弁膜症、それに軽度の先天性側弯症があります。体重も1800グラムと小さく、これから長い闘いになるでしょう」医師の言葉は、まるで冬の雨のように冷たく、家族の心に深く沈んだ。
生後三ヶ月のある夜、悠翔の容態が急変した。呼吸が止まりかけ、医師たちが慌ただしく処置室に駆け込んだ。
「どうか...どうか助けて」菜月は廊下で崩れるように泣き続けた。
隆介の妻が菜月を抱きしめ、震える声で言った。
「この子はきっと生きる。私たちの愛を受けて、必ず強くなる」
その瞬間、保育器の中で悠翔が小さな手を握りしめた。まるで「僕は頑張るよ」と言っているかのように。
菜月は保育器に手を当て、声をかけた。
「悠翔...お母さんがいるからね。絶対に諦めないから」
「大丈夫、大丈夫よ。この子は強い子だから」再び、隆介の妻が菜月の手を握りしめて言った。その声には、まるで母なる大地のような温かさと力強さがあった。
「お母さん...」菜月は涙を流しながら、保育器のガラス越しに祈るような眼差しで小さな命を見つめていた。
処置室から医師が出てきた時、家族全員が息を呑んだ。「危険は脱しました。この子、本当に強い生命力ですね」
その後の年月、悠翔は家族の心配をよそに、体は小さいながらも、まるで若竹のようにすくすくと成長していった。
小学二年生のある日、悠翔は菜月に向かって、瞳を輝かせながら言った。
「お母さん、僕、野球やりたい」
「え?野球?でも悠翔は体が小さいし...」
「大丈夫だよ。お父さんも野球やってたんでしょ?僕もやりたい」
健吾は甲子園を目指した元高校球児だった。息子の申し出を聞いて、まるで過去と現在が交錯するような複雑な表情を浮かべた。
「悠翔、野球は厳しいスポーツだぞ。体が小さいと苦労することもある」
「それでもやりたいんだ。お父さんに教えてもらいたい」
健吾の目に、まるで春の雨のような涙がにじんだ。
「...分かった。一緒に頑張ろう」
第三章 封印された愛情
少年野球チームに入団した悠翔だったが、体の小ささゆえに出番はほとんどなかった。それでも彼は、まるで太陽を慕う向日葵のように、一日も練習を休むことなくグラウンドに立ち続けた。
「悠翔、辛くない?」菜月が、まるで我が子の痛みを分かち合うような心配そうな声で尋ねた。
「平気だよ、お母さん。僕は野球が好きだから」
「そう...でも、お母さんも応援に行きたいのに...」
菜月の声は、まるで秋風に散る木の葉のように次第に小さくなった。健吾が、夜空のように厳しい表情で口を開く。
「菜月、お前はもう試合を見に来ることはできない。分かっているだろう?」
「健さん、でも息子の...」
「だめだ。お前は障がい者支援団体で無理をして、統合失調症になったこと、十年間の闘病生活で家族がどれだけ苦しんだか、忘れたのか?」
健吾の声は、まるで雷鳴のように震えていた。
「私...私は申し訳ないことをした。でも、悠翔の姿を...」
「いいや、もう決めたことだ。父母会にも事情を話してある。母親として何もできないだろう。お前が来ることで、また無理をして病気が再発したらどうする?悠翔のためにも、お前は家で静かにしていてくれ」
菜月は、まるで雨に打たれる花のように涙を堪えながら頷いた。
「分かった...分かったよ、健さん」
第四章 中学での飛躍
中学生になった悠翔は野球部に入部し、二年生からセカンドのレギュラーを獲得した。まるで蛹から羽化した蝶のように、彼の才能が花開き始めた。
「悠翔、今度の試合でスタメンだって?」隆介が、心に宿る喜びを抑えきれずに電話で尋ねた。
「うん、おじいちゃん。セカンドで出るよ。お父さんも喜んでくれてる」
「そうか、そうか。お母さんにも伝えてくれるかい?」
「...お母さんには、お父さんが話すなって言ってるんだ」
隆介の胸が、まるで冬の夜のように痛んだ。
「そうか...でも、おじいちゃんがお母さんに話してもいいかい?」
「うん、お母さんも知りたがってるから」
隆介は菜月にLINEを送った。それは、まるで闇夜に灯される一筋の明かりのようだった。
「悠翔がレギュラーになったよ。セカンドで頑張ってる、観戦に行こうか」
すぐに返信が舞い戻ってきた。
「本当?嬉しい!でも健さんに見つからないかぁ...やっぱり行けないからlineで試合経過を詳しく教えて」
隆介は試合の度に菜月に結果を報告し続けた。地区大会を勝ち進み、ついに東海大会出場を決めた時の菜月の返信は、まるで心の奥底から絞り出されたような短い言葉だった。
「ありがとう、お父さん。観戦したかったけど...lineでリアルな試合経過で興奮したよ」
ある日の夕方、悠翔は部活から帰ると、台所で料理をしている菜月の後ろからそっと抱きついた。
「お母さん、ただいま」
「おかえりなさい。今日も練習お疲れさま」
悠翔は母親の肩に顔を埋めた。
「お母さん、僕ね、試合で活躍したら、みんなに自慢したいことがあるんだ」
「何?」
「世界で一番優しいお母さんがいるって」
菜月の手が止まった。包丁を置き、振り返ると悠翔が真剣な顔で見つめていた。
「お父さんが言ったんだ。お母さんは僕のために色んなことを我慢してくれてるって。だから僕、絶対に頑張るよ。お母さんが誇れる息子になる」
菜月は涙をこらえながら悠翔を抱きしめた。
「悠翔...ありがとう。お母さんはもう十分誇らしいよ」
第五章 秘密の観戦
高校に進学した悠翔は、相変わらず野球に打ち込んでいた。ある日、隆介は心の奥底で静かに燃え続けていた決意を、ついに言葉にした。
「菜月、今度の試合、一緒に見に行こう」
「え?でも健さんが...」
「大丈夫、外野の目立たない場所にいれば分からない。お前も悠翔の頑張りを自分の目で見るべきだ」
菜月は、まるで迷子になった子供のように長い間黙っていたが、やがて蕾が花開くように小さくつぶやいた。
「...行きたい。息子の姿を、この目で見たい」
「健さんに見つからないかなぁ...でも、行こう」
試合当日、隆介と菜月は外野の片隅で観戦した。まるで秘密の花園に足を踏み入れるように、二人は静かに座った。悠翔はサードの守備に就き、途中からはピッチャーとしてマウンドに立った。
「あれが...あれが悠翔?」菜月の声が、まるで風に震える鈴のように震えた。
「そうだよ。立派に成長したじゃないか」
九回表、悠翔がピッチャーとしてマウンドに上がった瞬間、菜月の心臓が激しく鳴った。
菜月の目に、まるで雪解けの水のような涙が溢れた。生まれた時は1800グラムしかなかった小さな赤ちゃんが、今はマウンドで堂々と投球している。
「信じられない...本当に信じられない」
「悠翔はお前と健吾の息子だ。強い子に育ったんだよ」
悠翔がアウトを奪った瞬間、菜月は、まるで春の風に誘われるように思わず立ち上がりそうになった。
「静かに、静かに」隆介が菜月の手を引いた。
「ごめんなさい...でも嬉しくて。すごい...すごいね、悠翔」
隆介も目を潤ませながら言った。
「ああ、立派な選手になったな」
三人の打者をアウトに取った悠翔が、ベンチに戻る時、ふと外野席を見上げた。その視線が、偶然菜月のいる方向を向いた。
悠翔は気づいていないはずなのに、なぜかその方向に向かって小さく頭を下げた。
「まるで...まるでお礼を言ってくれているみたい」菜月がつぶやいた。
「きっと心で繋がってるんだよ。親子なんだから」
菜月は声を殺して泣いた。十六年間の想いが、その瞬間に全て報われたような気がした。
第六章 帰り道の車中で
横須賀市の球場での観戦を終えて、帰路の車の中で隆介は菜月に話しかけた。夕暮れの空が、まるで水彩画のように薄紅色に染まっていた。
「菜月、実は仕事の関係で知り合った菜緒子さんという方がいるんだ」
「どんな人?」
「とても心優しくて素敵な方でね。君と悠翔のことを話したら、まるで自分のことのように静かに涙を流して聞いてくれたんだ」
菜月は、まるで新しい世界への扉を見つけたような興味深そうな表情で隆介を見つめた。
「どんなことを話したの?」
「悠翔が小さく生まれたこと、でも今はこんなに立派に野球をしていること。そして、お前が病気になったこと、観戦できないことを話したんだ」
「その方、何て言ってくれたの?」
隆介は、まるで春の陽だまりのような温かい表情で答えた。
「菜緒子さんはただ静かに涙を流していただけだったよ」
菜月の目が、まるで朝露に濡れた花びらのように潤んだ。
「本当に?会ったこともない私のことを...」
「母親として、人間としてお前のことを不憫と思ってくれたと思う」
「そんな...」
「『お母さんとして息子さんを応援したい気持ちは当然です。でも、それを我慢して家族のことを想っている。本当に立派な方です』って、菜緒子さんは思ってくれたと思う」
菜月は会ったこともない菜緒子さんのことを想像しながら、心の奥底で、まるで氷が解けるような温かいものを感じていた。
第七章 想像の中の優しさ
その瞬間、菜月の心の堤防が決壊したかのように、号泣が始まった。
「お父さん...菜緒子さんの話...まるでお母さんの声に聞こえた、『がんばれ、がんばれ』と」
隆介は慌てて車を路肩に停めた。車内に響く菜月の嗚咽が、まるで長い間封印されていた魂の叫びのように聞こえた。
「菜月...」
「会ったこともない菜緒子さんが、私のことで涙するなんて...まるで夢のよう」
菜月の涙は、まるで春の雪解け水のように止まらなかった。
「お父さんの話を聞いていたら、菜緒子さんが私に直接話しかけてくれているような気持ちになった。『あなたは素晴らしいお母さん』って...まるで天使の声のように」
「そうだね、多分、菜緒子さんも『がんばれ』て応援してくれると思うよ」
「この十年間、ずっと苦しかった。健さんや悠翔に申し訳なくて、でも息子の姿を見たくて...まるで砂漠で水を求めるように」
菜月は想像の中で菜緒子さんの優しい表情を思い浮かべていた。それは、まるで慈愛に満ちた観音様のような顔だった。
「悠翔が小さく生まれた時、お母さんが『大丈夫、この子は強い子だから』って言ってくれた。今日、お父さんから菜緒子さんの言葉を聞いた時、まるでお母さんが天国から語りかけてくれているように聞こえたの」
「お母さんも、菜緒子さんも、きっと君を誇りに思ってるよ」
「菜緒子さんがどんな人なのか、会ったことはないけれど...心の中で、まるで暖炉の火のように温かい人だってわかる。そんな人が私のことを理解してくれてるって思うと...」
隆介は、まるで壊れやすい陶器を扱うように菜月の肩を抱いた。
「お前はもう十分強いよ。今日、勇気を出して悠翔を見に来た。それだけで十分だ」
「菜緒子さんの優しさが、まるで光のように心の奥まで届いた...会ったこともないのに、不思議ね」
第八章 新たな始まり
それから数日後、健吾が帰宅すると、菜月が玄関で迎えた。
「健さん、お疲れさま」
「ああ、ただいま。今日は調子はどうだ?」
「健さん...話がある」
健吾の表情が緊張した。
「何だ?」
「先日、お父さんと一緒に悠翔の試合を見に行った」
健吾の顔が青ざめた。
「菜月...約束を破ったのか?」
「ごめんなさい。でも、どうしても息子の姿を見たかった」
「君がまた無理をして...」
「違うの、健さん。私、少し変われたかもしれない」
菜月は会った事もない菜緒子さんが静かに涙したことを話した。
健吾は静かに口を開いた。
「菜月...」
「会ったこともない人が、私のことをそんなふうに理解してくれてる。お父さんから話を聞いただけなのに、菜緒子さんの優しさが心に届いた」
「菜月、君は何も悪くない。病気は君のせいじゃない」
「でも、迷惑をかけた。でも今は分かる。菜緒子さんの想いを想像していたら、私も家族の一員として、悠翔を支えたいって思えるようになったの」
健吾は菜月を抱きしめた。
「一緒に頑張ろう。今度の試合、二人で見に行こうか」
「本当?」
「ああ、家族なんだから、一緒に応援しよう」
第九章 グラウンドに響く声
次の土曜日、球場に菜月、健吾の二人の姿があった。
「悠翔、頑張れー!」
菜月の声が初めて球場に響いた。悠翔は観客席を見上げ、母親の姿を確認すると、大きく手を振った。
「お母さんが来てくれた...」
「悠翔、集中しろ」健吾が笑いながら言った。
「はい、お父さん」
試合は接戦だった。九回裏、悠翔がピッチャーとしてマウンドに立つ。
「悠翔!お前ならできる!」健吾が声を張り上げた。
「頑張って、悠翔!」菜月も大きな声で応援した。
悠翔は深呼吸をし、渾身の投球を行った。バッターは空振り、ゲームセット。
「やったー!」菜月は思わず立ち上がった。
「よくやった!」健吾も拳を振り上げた。
悠翔は家族に向かって大きく手を振った。その瞬間、菜月の頬に涙が流れた。
「お母さん?」健吾が心配そうに尋ねた。
「嬉しいの...こんなに嬉しいことがあるなんて思わなかった」
「菜月...」
「健さん、ありがとう。お父さんも、菜緒子さんも、みんなありがとう」
エピローグ 家族の絆
試合後、家族三人は久しぶりに一緒に食事をした。
「悠翔、今日はお疲れさま」菜月が息子に声をかけた。
「お母さんが応援に来てくれて、すごく嬉しかった」
「私も...私も嬉しかった」
「菜月、君の応援の声、一番大きかったぞ」健吾が笑った。
「そうかしら?」
「ああ、びっくりしたくらいだ」
「お父さんにも、菜月の変化を報告しないとな。菜緒子さんのあの話がどれだけ菜月の心を救ってくれたか、伝えたい」
「そうね。菜緒子さんに、心から感謝したいと思う」
悠翔が母親を見つめて言った。
「お母さん、今度の試合も来てくれる?」
「もちろん。今度は最初から最後まで、大きな声で応援するから」
「やった!」
健吾が菜月の手を取った。
「菜月、君はもう一人じゃない。家族みんなで支え合っていこう」
「健さん...ありがとう」
その夜、菜月は久しぶりに安らかな眠りについた。心の重荷が少しずつ軽くなっていくのを感じながら。
窓の外では星が静かに輝いていた。小さく生まれた悠翔が、今は家族の希望の星となって、みんなを照らしている。
菜月の口癖だった「健さんに見つからないかなぁ」という言葉は、いつの間にか「みんなで応援に行こう」という言葉に変わっていた。
グラウンドに響く家族の愛の声は、これからも悠翔の背中を押し続けるだろう。そして、菜緒子さんの無限の優しさは、この家族の心の中で永遠に生き続けるのだった。
(完)