婚約者に好きな人ができたらしい
「リーゼ、本当に申し訳ないが、私との婚約を破棄して欲しい」
辺りが暗くなり、月夜に照らされた学園の庭園にて向かい合って座る男女の片方がそう告げた。
突然の婚約破棄にも関わらず、リーゼと呼ばれた女性の方は特に変わった様子もなく、静かに紅茶を嗜んでいる。
「リーゼ、聞いているのか…? 私との婚約を破棄してくれないだろうか」
「ええ、しっかりと聞いていますわ、ノア様。婚約破棄ですわね。理由をお聞かせ願えますか?」
「理由か…」
リーゼに理由を聞かれ、ノアは少し言いよどんだ。
しかし、婚約の破棄を申し出ている以上、理由を言わないことは礼を失すると考えたのか、彼は意を決したように口を開いた。
「好きな、人が出来たんだ…」
(ああ、やはりそうなのですね…)
リーゼは涙をこらえる様に、悲しみを見せないように、静かに紅茶を口へ運んだ。
***
リーゼ・ヘルエスタ侯爵令嬢。
メンゼ王国のヘルエスタ侯爵家の長女として生まれた彼女は、小さいころから才色兼備、文武両道として有名だった。夜の空を詰め込んだ様な、藍色の目。絹の様な艶のある綺麗な髪。彼女の容姿を目にした者は一瞬で彼女から目が離せなくなる。さらに、一度、何かを教えると、全てを吸収し、すぐに自分のものにしてしまう。武術も魔法も、数学、政治、あらゆるものを吸収していった。
やがて彼女は天才、鬼才、王国まれに見る逸材、など様々な呼び方をされるようになった。彼女がこのように呼ばれる様になったのはわずか7歳の時だった。
「あなた、リーゼにもそろそろ婚約者を見繕っても良いと思うわ」
ヘルエスタ侯爵家王都邸宅にて、リーゼの母親であるマリーがそう言って、侯爵家当主ヘドリックに話しかけた。
「うむ、そうだな…、しかし…まだ良いのではないか…?」
ヘドリックは婚約者を設ける事には少し反対の立場であった。それもそのはず、じぶんの娘であり、今でも「お父様! 四つ葉のクローバーですわ!」とはしゃぎながら走り寄ってくる子を嫁に出す気になどなれなかった。
そんなヘドリックに腹が立ったのか、マリーは少し苛立たしげに言葉を放った。
「あなた…、数年前もそう言っていましたよね…? 一体いつになったら、リーゼは婚約者を探せるのかしら?」
「しかし、リーゼはまだ6歳だぞ? まだ婚約者を探すには早いだろ」
「もう6歳なのです。あなたがそう言ってリーゼを甘やかすから、未だに淑女のしの字も知らないお転婆娘なのです!」
リーゼはマリーが言うようにお転婆娘に育っていた。
何でもやれば出来る、皆が自分を褒めてくれる、さらには父が甘やかす、そんな環境で6年間育ってきたリーゼは今や、淑女教育など気にも止めず、外を元気に走り回るようになっていた。
「むぅ…、元気なのは良いことだろう…」
「元気なのは良いことですが、そろそろ落ち着いて、婚約者を探しませんと、あの子は独身になってしまいます」
「…リーゼは才能があり、可愛いから、引く手数多なはずだ」
「今は、そうでしょうね? しかし、歳を取ったらどうなるでしょう? 同じ年代の方は皆、婚約者がいるでしょうね」
「むぅ…」
侯爵としても、娘には結婚して幸せになってほしい。
「分かった、では、婚約者捜しを始めるか…」
「それと並行して、淑女教育もこれまで以上に厳しくいきます」
両親の会話を自室で盗み聞きしている者がいた。
小さな体をベッドに横たわらせ、盗聴魔法を用いて両親の会話を盗み聞きしていたのである。
「淑女教育が…厳しくなるっ…!」
婚約者を探す云々の話よりも、彼女は母が言ったその一言に戦慄していた。
***
婚約者は意外とすぐに決まった。
侯爵家とも仲が良く、性格も非常に誠実で真面目な、1歳年下のノア・エンゼルート伯爵令息である。
今日はその相手との初の茶会である。
リーゼは自身の将来の相手になるであろう相手と会うことに非常に緊張していた。
「リーゼ、分かっているわね? しっかりと淑女らしく、接するのよ?」
緊張しているリーゼを膝に乗せ、頭をなでながら、マリーは微笑んだ。
なんとも圧のある微笑みである。
「わ、分かりましたわ、お母様! 私、しっかりとやってきますわ!」
どんなに才能があり、どんなに可愛かろうと、リーゼは母には逆らえない。淑女教育が始まってから、リーゼは母の恐ろしさを知った。どこに逃げても、何の魔法を使っても全て無駄。すぐに見つかり、捕まって、叱られてしまうのである。
「さすが私の娘ね、じゃあ、行くわよ」
そう言って、リーゼとマリーは手をつなぎながら、ノア・エンゼルートとその母親の待つ、庭園へと赴いた。
庭園へ着くと奥の椅子に二人の人物が座っていた。
二人の人物はリーゼ達が来たのを見ると、即座に立ち上がり、深く礼をした。
「お久しぶりです、マリー様。そしてお初にお目にかかります、リーゼ様」
白髪を複雑に編み込んだ、綺麗な女性はそう言って二人に頭を下げた。
「そうかしこまらなくて構わないのですよ、エリー」
そう言って、マリーは女性に声をかけた。
その言葉を聞いて、エリーは顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。
「では、気楽に話しましょうか。マリー様。ほら、ノア、自己紹介なさい」
母親に促された少年は丁寧に頭を下げる。
「お初にお目にかかります。マリー様、リーゼ様。ノア・エンゼルートです。以後、よろしくお願いいたします」
ノア・エンゼルート。彼の姿を見て、リーゼは釘付けになっていた。
エリーと同じ、新雪のような真っ白いさらさらとした髪。そして父親譲りなのか、マリーとは違うエメラルドのように綺麗な碧色の目。
「ほら、リーゼ、あなたも」
母から声をかけられてやっと、自分が何をすべきかを認識したリーゼは顔を少し赤く染めながら、軽く裾を持ち上げながら淑女として礼をした。
「お初にお目にかかります。ノア・エンゼルート様。リーゼ・ヘルエスタですわ」
婚約者との茶会は途中から、マリーとエリーの談笑会に変わり、リーゼとノアは二人で庭園を歩いていた。
「リーゼ様、見て下さい、あの花、リーゼ様と同じ、藍色ですよ」
「そ、そうですね! 藍色の綺麗な花ですね!! あ、あの花はノア様と同じ、白いお花です!」
「そうですね、どの花もとても綺麗です。リーゼ様は好きな花などはありますか?」
「…花と言えるか分かりませんが、四つ葉のクローバーが好きですわ!」
「あの幸運を呼ぶとされる?」
「はい!」
「そうなのですか…では今度、四つ葉のクローバーを探しに、少し出かけませんか? この庭園にはクローバーは生えていない様なので」
「まあ! それは良い事ですわ! 是非行きましょう!」
そう言ってリーゼは少し頬を染める。
この人と一緒に出かけられる、この人に誘われる。婚約者なのだからそんなことは今後もあるはずだが、リーゼはたったそれだけのことで非常に喜んでいた。
(ノア様が一緒に出かけようと言って下さりました! これは気に入ってくれたと思って良いのよね!)
リーゼは完全にノアに一目惚れしていた。
そしてそれは、ノアも一緒だった。
(うまく誘えたぞ! よし! 何着ていこうかな~)
リーゼとノアはお互いに一目惚れしていた。
そして、お互いが照れくさそうに、並んで歩いているのを、マリーとエリーは眺めながら、微笑んでいた。
初めての対面から、リーゼとノアは良く会うようになった。
お互い、上位貴族と言うこともあり、様々な用事などに会える日はそう多くなかったが、何もない日は必ずと言って良いほど会っていた。
「ノア様、今度はこうですわ! これで私の勝ちです!」
「くっ、そ、その手があったか…!」
「あーはっはっはっはっは!! 今日も私の勝ちです!」
あるときは、家の中でチェスや、様々なボードゲームをし、
「あ、あれ見てください! とってもおいしそうですよ!」
「おお、あれは肉をコメに巻いているのか…?」
「ノア様! 食べてみましょう!」
「そうだな! あれは食べるべきだ!」
あるときは、城下を練り歩いたりした。
二人は確かに仲を深めあい、お互いが、お互いを愛していた。
数年が経ち、二人は14歳と13歳になった。
メンゼ王国では15歳になる年から、学園に通うことになっている。貴族子女を良質な環境で育て、国の発展に繋げるためと名目を立ててはいるが、実際は将来の為の派閥形成と人脈づくりの為である。
そして、リーゼは今年から学園に通うことになっている。今日はその見送りの日である。学園は敷地を広く持つ必要があるため、王都内には建設出来ず、隣の都市に建設された。そして通う生徒はそこへ行き、4年間を過ごす事になる。
「リーゼ、しっかりと学び、そして元気に帰ってくるのよ」
「ええ、お母様、任せてください」
マリーはリーゼを抱きしめ、リーゼも抱きしめ返した。
「…リーゼ、寂しくなるな…。っく…」
「お父様、泣かないでください。また帰ってきますから」
ヘルエスタ侯爵はまるで今生の別れの様に泣きながら、リーゼを抱きしめる。
そして、リーゼも少し困った顔をしながらも抱きしめ返す。
「リーゼ、僕も来年行くから、待っていて欲しい。元気で。愛しているよ」
リーゼのこと敬称も敬語もなしで話すほど仲良くなったノアは、そう言って抱きしめた。
「ええ、私もあなたを一番愛していますわ。今度会うときはもっと美しく、強く賢くなっておきますね」
「ははっ、僕も負けられないね」
そう言ってノアはリーゼを離した。
「では、お父様、お母様、ノア。行ってきます」
「「「行ってらっしゃい」」」
リーゼは家族に別れを告げ、学園へと向かう馬車へ乗り込んだ。
***
リーゼが学園に入学してから1年が経った。
リーゼの学園に入学してからの日々は非常に順風満帆であった。
勉学では分かってはいたが常に1位、魔法実技などにおいても武芸に秀でた家の男子などを差し置いて1位。そして、その美しい藍色の髪と藍色の目。他人に優しく、接しやすい彼女は瞬く間に人気者になっていた。元々貴族界で有名だったのもあるが、彼女自身の性格と才能を持ってして、学内で大きな派閥を築いていた。
「リーゼお姉様、明日には新入生が入ってきますわね」
そう言って、中庭で本を読むリーゼに、ある令嬢が話しかけた。彼女はリーゼの妹でも何でもなく、ただリーゼを慕ってそう呼んでいるのである。
「ええ、ミア。楽しみですわね」
そう言ってリーゼは令嬢に笑いかけた。
リーゼとしても明日を非常に楽しみにしている。何と言っても、1年間会えなかったノアが入学してくるはずなのである。この学園にいる限り、外の情報や人に触れることは出来ない。政治情勢や世間の情勢は週一回の授業で周知されるため、それ以外の外部との接触は禁じられていた。この国ではそれが普通であった。
(明日は、とびっきりのおめかしをして行きましょう!!)
内心、うきうきしているのをなるべく、近くにいる令嬢には見せないようにしながら、彼女は本に目を落とした。
翌日の昼下がり。
彼女は1年生の教室がある棟に近い、中庭のベンチに腰をかけていた。静かに本を読みながら、そこに座っている。そよ風になびく藍色の髪は、彼女をさらに美しくさせていた。
「やあ、リーゼ」
その声にリーゼははっと顔を上げる。
以前聞いた時より少し低くなった懐かしい声に彼女はかつてないほど、心が躍っていた。
「久しぶりですわ、ノア」
リーゼが顔を上げるとそこには白髪に碧色の目。最愛の婚約者ノアが以前よりもがっちりとした姿でそこに経っていた。
「待っていましたわ、ノア」
「僕もこの時を待っていたよ。やっとリーゼと一緒に過ごすことができる」
「ふふっ、これからの日々が楽しみでなりませんね?」
「ああ、全くだよ、僕の学園生活は最高のものであると今、決まった」
二人は無事に再会を果たした。
そして、これから四年間、自分たち二人は楽しみながら、愛しあいながらそれぞれが学園生活を楽しむとリーゼは思っていた。
しかし、1年後、その考えは、一人の令嬢が転入してきたことによってあっけなく打ち砕かれる事になった。
***
「初めまして! この度、この学級に転入することになりました! マリア・ハニーピーです! よろしくお願いします!」
金色のふわふわとした髪。くりくりとした大きな目。そして人なつっこい笑み。
人の母性をくすぐる見た目をした彼女はノアのいる学級に転入することになった。
「よろしく、マリア嬢。ノア・エンゼルートだ。この学級の代表的なことになっている」
そう言ってノアは彼女に挨拶を返した。
ノアはこの学年の首席かつ、リーゼが惚れるほどの美形。そしてそれを全く笠に着ない性格から入学1年で自然と、リーダー的存在になっていた。
「ノア様ですね! よろしくお願いいたします!」
これが、ノアと、マリアの初めての出会いだった。
ノアは非常に性格が良い。どれだけ自分が忙しかろうと、困っている人がいれば声をかけ助ける。他人の為に自分を犠牲にできるような性格であった。
そのため、転入生として、右も左も分からないマリアを助けようとするのはノアらしいことでもあった。
ノアとマリアは良く一緒に行動するようになった。
そしてそれはリーゼも知っていた。最初は自分以外の女性と仲良くする事に嫉妬をしていたが、同じ年の男女が同じ環境で過ごせばそういうこともあるかと、納得していた。そのため、ノアに対して何か言うこともなく、むしろ自分の派閥の者にマリアに何もしないようにと少し不満げな者達を諫めていた。
「リーゼ! ちょこれーとという聞いたこともないお菓子をマリア貰ったんだ! すごくおいしいよ、食べるかい?」
「リーゼ! これは、ぽてとちっぷすと言うらしい! 何でも芋を油で熱したものだそうだ、おいしいよ!」
リーゼはノアからマリアの不思議な話を聞いたり、マリアの不思議なお菓子を貰ったりしながら日々を過ごしていた。その話はどれも面白く、お菓子はおいしかった。
リーゼの中でマリアの印象は、良くなっていった。こんなに面白い話が話せて、こんなにおいしいお菓子を作る発想力があり、さらには人なつっこい。ノアがマリアを気にかけているのも分かる気がした。
そう思い、特に何もしなかったのがいけなかったのだろうか。
さらに1年が経ち、リーゼが4年生、ノアが3年生になった辺りからノアはリーゼと会うことを拒むようになった。
リーゼが一緒にボードゲームをしないか、一緒に庭園でお昼を食べないかと誘ってもノアは、忙しいから、マリア達と食べるからと断るようになったのだ。
それは突然の事ではなく、徐々に徐々にだった。最初は数回に1度断られる程度だったが、今では何を言っても全て断られる。
(ノアは私のことを嫌いになってしまわれたのでしょうか…)
リーゼは部屋で課題をしながら考え込んでいた。最近は毎晩のように考えてしまう。そして、毎回、泣きそうになってしまうのだ。
(やはり、マリア嬢の方が良いのでしょうか…)
リーゼはマリアに対して劣等感を抱いていた。
彼女は自分よりも勉強も出来なければ、魔法も大して使えない。しかし、その人なつっこい笑みと、人一倍頑張ろうとする姿は皆の庇護欲をかき立てる。
対して自分はどうだろう。勉強も魔法も並ぶ者はいない。やれば何でも出来てしまう。確かに人として見れば優秀だろう。しかし、女としてどうなのか。男性とはプライドの高い生き物だ。自分よりも優秀な女を好むだろうか。
リーゼの目に涙があふれる。
そしてそれは頬を伝って、机に落ちる。
ポタポタとその涙は止まらない。
カタンッ。
突然、窓が音を立てた。
リーゼがふと、窓を見ると、鳥の形をした紙が、窓の縁に止まっていた。
この国で主流の手紙を送る方法である。
リーゼは椅子から立ち上がって、窓を開けて、紙を掴んだ。紙は鳥の形を崩し、1枚の手紙へと姿を変えた。
その手紙には 『明日、庭園で話をしよう。時間は夜。庭園で待っているよ ノア』と書いていた。
リーゼはその手紙を見て、何となく悟ってしまう。明日、ノアから何を告げられるのかを。
次の日の夜。
月明かりが明るく照らす庭園で、リーゼとノアは向かい合って座っていた。
リーゼは平静を装い、持参した紅茶に手を伸ばしていた。
「リーゼ」
「っ!」
対面に座るノアに話しかけられリーゼの心臓がびくりと跳ねる。
(やめて、何も言わないで。聞きたくない。その先の言葉は聞きたくない)
「リーゼ、本当に申し訳ないが、私との婚約を破棄して欲しい」
リーゼは紅茶を飲む手を止めない。
動揺を悟られないように。悲しみを表に出さないように。
「リーゼ、聞いているのか…? 私との婚約を破棄してくれないだろうか」
再度告げられた、婚約破棄。
リーゼは震える声で答えた。
「ええ、しっかりと聞いていますわ、ノア様。婚約破棄ですわね。理由をお聞かせ願えますか?」
「理由か…」
リーゼに理由を聞かれ、ノアは少し言いよどんだ。
その顔をリーゼは見ていない。少し悲しそうな彼の顔を。泣きそうな彼の顔を。
そして、婚約の破棄を申し出ている以上、理由を言わないことは礼を失すると考えたのか、彼は意を決したように口を開いた。
「好きな、人が出来たんだ…」
(ああ、やはりそうなのですね…)
リーゼは涙をこらえる様に、悲しみを見せないように、静かに紅茶を口へ運んだ。
涙をこらえる様に、その紅茶を飲み込んで言った。
「分かりましたわ。ノア、いえ、ノア様。お幸せになってください」
そう言ってリーゼは紅茶を机に置いたまま、席を立った。
リーゼはノアから顔を逸らし、目から涙をこぼしながらその場を去った。
「僕は最低だな…」
ノアはそう呟いて、涙を浮かべながら自分を嘲笑うように笑った。
***
ノアに婚約破棄を告げられてから数日が経った。
しかし、リーゼの心は全く晴れていない。ノアに、愛していた婚約者に別れを告げられた悲しみは数日程度では全く癒えなかった。
リーゼはここ数日部屋に籠もっていた。何日も涙を流しているのだろう。彼女の目は腫れていた。部屋は薄暗く、カーテンを全て閉め切り、今もベッドに横になっている。
(なにも、したくない…。今頃、ノアはマリアさんと笑いあっているのでしょうか…。私に向けていたあの笑顔をマリアさんに…)
リーゼの目から再び涙があふれ出る。ノアとマリアが楽しそうにしている光景を想い浮かべるたび、胸が締め付けられ、涙がとめどなく溢れ出てくる。
コンコンコンッ
リーゼがそんな風に悲しみにくれている時だった。突然、部屋のドアがノックされる。
リーゼはいつもの様に自分を心配してやってきてくれる自分の派閥の人達だろうと思い、そのノックを無視した。
コンコンコンッ
コンコンコンッ
コンコンコンッ
そのノックはしばらく続いた。
リーゼは不思議に思う。いつもであれば応答がなければすぐに帰って行くのに今日は珍しく何度もノックをしている。
「ちっ」
舌打ちだ。
苛立たしげな舌打ちが部屋の外から聞こえる。リーゼもどうやら自分の派閥の者ではないらしいと察し、体を起こしてドアを見ていた。
「リーゼ様! いらっしゃるのでしょう! マリア・ハニーピーです! ここを開けて下さい! お話があります!」
ドアの向こうから聞こえた思いがけない声にリーゼは目を剥いた。
ノアと恋仲になったマリアが自分を訪ねてきた。自分をあざ笑いに来たのだろうかと、リーゼは自嘲気味に笑った。
「マリアさん、何のご用でしょうか。私はあなたと話すことはありません」
久しぶりに誰かに向けて言葉を放った。その声は自分が思っていたよりもかすれていて、今にも消えそうな声であった。
「ノア様のことで、お話があります! いいから開けてください!」
随分とマリアはいらだっている様で、その苛立ちは声に現れていた。
リーゼは本心で言えば、マリアには帰って欲しかったが、マリアにはその気配がない。断れば永遠にドアの前に立っていそうだ。
リーゼはベッドから立ち上がり、ドアを開けた。
「入りますね、リーゼ様」
そう言って、マリアはリーゼの部屋に入り、椅子に座った。
「マリアさん、何のご用でしょうか? 私を嘲笑いにでも来たのですか?」
リーゼの口から出た言葉は棘を含んでいた。
当り前だ。自分の最愛の人を奪った人物を目の前にして、冷静ではいられない。
しかし、リーゼの予想と反してマリアの様子はあざ笑いに来たようでも、勝ち誇りにきた訳でもなさそうだった。その顔には明らかな怒りを浮かべ、目には涙を浮かべている。
その様はまるで、好きな人の為に怒っているかのようであった。
「リーゼ様! リーゼ・ヘルエスタ様! なぜ! 彼と! ノア様との婚約破棄を受け入れたのです!! あなたはノア様のことを愛していたのではないのですか!」
突然、マリアはリーゼに向かって怒鳴り声を上げた。
リーゼは彼女が怒っている意味が分からなかった。しかし、無性に腹が立った。なぜ、私がこんな風に言われなければならないのか、ノアを奪ったのはお前じゃないかと。
そう思うと同時に、彼女は叫んでいた。
「愛していましたよ! 誰よりも! でも! ノアが愛したのは私じゃなかった! あなたが私からノアを奪ったのでしょう!?」
「奪ってなどいません! 彼は未だにあなたを愛しています!! あなたに婚約破棄を言い出した時、彼はどんな顔をしていましたか! どんな声をしていましたか! 少しでも嬉しそうでしたか!」
リーゼははっとなる。そう、リーゼはノアの顔を見ていない。何を言われるのか薄々分かっていたから。傷つくのが恐くて、ずっと紅茶を見ていた。
「確かに、私はノア様を好きになりました! 彼が恋人であればどれほど幸せだったでしょうか。…でも! 彼はあなたを愛している! だからこそ、あの方は…」
マリアはポタポタと涙を床に落とす。
リーゼは目の前の少女に動揺していた。なぜ、泣くのだ。泣きたいのはこっちだと。
「私では…、私ではあの方を救えない…、 人脈もなく、頭の悪い私では、助けることができない! あの方を救えるのはあなただけなんです! お願いです、あの方を、助けてください…」
そう言ってマリアは深く、頭を下げた。自分では出来ないことを悔いているように、体を震わせながら頭を下げた。
リーゼは分からなかった。なぜ、彼女は泣いているのか。そしてノアを救うとはどういう意味なのか。
でも、マリアは救ってくれと言って泣いている。普通なら、恋敵であるはずのリーゼが婚約を破棄したから喜びに満ちあふれているはずなのに。それなのにマリアは怒り、そして泣いている。ノアを救ってくれと頼みながら。
「…意味が分かりません。なぜ、あなたが泣いているのです。なぜ、私にノアを救ってくれと頼むのです」
リーゼは頭を下げているマリアに対して、声を震わせながら言った。
その言葉を聞いたマリアは顔を上げ、なぜ自分がこんなことをしているのかを語り始めた。
「…ノアはあと1年も生きられません。…劣化病です。彼はあなたが自分から離れられるように、私を恋人役に選び、婚約を破棄、したのです…」
劣化病。この世界で有名な病気だ。発症した者には体のどこかに痣が現れる。そして、発症してから2年以内に、死ぬ。治療法は見つかっていない。
それを聞いて、リーゼは目を見開く。
とても信じられるものではない。先日、自分との婚約破棄をしたのはそれが理由だったと。そしてなぜ、マリアには言っているのに、自分には言っていないのかも。
「…詳しく聞かせてください。これまでの経緯を全て、偽りなく」
リーゼはとりあえず、全てを聞くためにマリアに全てを話すように促した。
…と言うことです」
「…」
全ての話を聞き終えたリーゼは、絶句した。
マリアが話したことはそれほどまでに信じがたいことだったのだ。
(マリアは異世界から来た? この世界のことを全て知っている? いや、それよりも、ノアが私が今後も生きられる様に、婚約破棄をしたなんて…)
ノアは、数年前、劣化病を発症した。
劣化病は不治の病。それを知っていたノアは、一番に自分が死んだあとのことを考えた。ノアにとって一番心配だったのはリーゼだった。リーゼはノアを愛している。その愛の深さをノアは知っていた。自分がいなくなった後、リーゼはどうするだろう。リーゼは一途で、深い愛の持ち主だ。であれば、自分を追いかけて死ぬ、もしくは新たな婚約者などをつくることなく、一生独身を続けるかも知れない。そんな考えがノアの頭には浮かんでいた。リーゼには自分のことは忘れて、幸せにいきてほしい。笑って欲しい。
そして、ノアは、リーゼに嫌われるように動くことを決めた。そこに都合良く、マリアが現れた。純粋な気持ちで話しかけてくれるマリアを自分の為に使い、リーゼに嫌われるように、故意にマリアとの時間を優先した。マリアのことを話し、マリアとの関係をアピールし、徐々にリーゼと会うことを拒むようにしていった。
でも、リーゼは嫌いになったとは言ってこない。婚約も破棄しようとしない。そしてノアはさらに嫌われる手段をとることに決めた。それがマリアを好きになったから、婚約破棄をする、という内容だった。
リーゼは苛立ちを感じていた。
(なぜ、自分は気づかなかったのだろう。ノアを一番知っているのは自分なのに、ノアの愛の深さを知っているのは自分なのに。ノアが、マリアの想いを利用しながら、私を傷つけることに何も感じないはずがないのに。一番苦しいのは全て失ってしまう彼のはずなのに。)
気づけなかった自分に腹が立つ。うじうじと自信をなくして部屋に籠もり、涙をこぼす日々。その間、どれだけ彼が苦しみ、悩んだことか。それを思うだけで、彼女の心は自分の不甲斐なさでいっぱいになった。
そして、決意した。
目に微かに残っていた涙を服の裾で拭い、顔を上げる。
「マリアさん、あなたが言っていた通り、ノアを救いましょう」
「っ! はいっ!」
「そのためにはあなたの言う、異世界の知識も使わせてもらいます」
「…でも、私、頭はそれほど良くないのです…」
「関係ありません。あなたのその異世界の経験からくる発想力を頼りにしています。そして、安心して下さい。劣化病の治療法など、すぐに見つけ出します。私は天才なのです。そしてそこに異世界の情報が加わる。私とあなたがいる。それだけで十分です」
リーゼは自信満々にそう言った。
彼女に出来ないことはない。幼い時から、いつも彼女が実現したいと思ったことは実現してきた。彼女にはその自信と自負があった。
その日から、リーゼとマリアは二人で学園の研究室に入り浸った。教員には卒業研究のためだと言って、二人は、図書館から研究書を持ってきて調べたり、歴史書、魔法書についても全ての情報を洗い出した。
その間も、学校は続いていたが、その全ての講義を欠席し、彼女らは研究室で劣化病の研究を続けた。
そしてノアは少しずつ、学園を休むようになった。劣化病が悪化し始めたのだろう。彼の体は少しずつ、弱っていった。
***
早朝の学園。まだ、薄暗い時間帯にもかかわらず、リーゼとマリアは研究室に居た。
研究室には簡易的な寝床とマリアが作った間食の数々、そして無数の魔法陣が書かれた紙が置いてあった。
リーゼとマリアが研究室に籠もってから数ヶ月。研究室で寝とまりをしていた為か、リーゼとマリアは軽くやつれていた。
「できた…」
リーゼは文字を魔法陣を書く手を止めた。
そして、魔法陣が書かれている紙を持ち上げて再び言った。
「できた…! ついに出来たわ!」
「本当ですか!?」
マリアもリーゼの声を聞いて作業を止めて振り返る。
「ええ! 理論上は完璧! この魔法陣を経由して魔法を行使すれば、劣化病は治るはず!」
「なら! 今すぐにでも!」
そう言って、リーゼとマリアは研究室を飛び出して男子寮へと向かった。
「ノア、入りますよ!」
リーゼは男子寮に着いて、即座に魔法を使い、寮内へ侵入。そしてマリアを招き入れ、ノアの部屋を探し当てた。
リーゼは声をかけ、ノックも無しに部屋に入った。
部屋に入った瞬間、香ってくる嫌なにおい。その匂いに鼻を押さえつつもリーゼとマリアは部屋に入り、ノアがまだ寝て居るであろうベッドの上に目をやった。
「っ!」
「ノアっ!」
そこに居たのは、体全身にどす黒い痣が浮き出ているノアだった。
リーゼはすぐにノアに駆け寄り、ノアの様子を確かめる。
(息はある、脈も弱ってはいますが、確かにある)
リーゼは魔法陣の書かれた紙をノアの体に乗せる。
「マリアさん! あなたの魔力を、魔法陣に注いでください! すぐに魔法を使います!」
そう言ってリーゼはマリアに指示を出す。
マリアは異世界から来たからなのか魔力の性質が違っていた。リーゼはそこに目を付け、何がどう違うのかを分析し、それを治療法の中に組み込んだ。そのため、マリアの魔力がなければ、この魔法は機能しない。
マリアは全身真っ黒なノアに驚いていたが、リーゼの声で我に返った。
「っはい!」
マリアの魔力が魔法陣に通っていく。
続いてリーゼも魔力を通す。
リーゼの魔力、マリアの魔力が混ざり合ってこの魔法は初めて完成する。
二人の魔力が通った魔法陣は淡く光り始め、紙から浮かび上がった。
魔法陣は光を増し、やがて、その光は粒となって、雪の様に、ノアの体にゆっくりと落ちていった。
その間、二人は必死に魔力を供給し続ける。
「お願い、治って…!」
願いを込めながらリーゼは魔力を送る。
この魔法が成功すれば、ノアの痣は引き、劣化病は完治する。
やがて、魔法陣から降る光は収まり、魔法陣は光を失い、空中に消えた。
リーゼと、マリアは魔法が終わったのを見て、絶望する。
魔法は確かに機能した。魔法陣が途中で崩壊しなかったことがそれを表している。
なのに、確かに、機能したはずなのに、ノアの体は黒い痣が残っていた。
そして
彼は息をしていなかった。
***
ノアの部屋に学園長、そしてノアの両親が入ってくる。
リーゼとマリアが、ノアの死を伝え、来て貰ったのだ。
エリーは涙を流し、エンゼルート伯爵は震えながら、その場に立っていた。
リーゼとマリアは、その様子を眺めながら、放心したかのように、まるで何かの抜け殻のように椅子に座り、涙を流していた。
その部屋は絶望と悲しみに包まれていた。
最愛の人を失った悲しみに、最愛の人を救えなかった絶望に、我が子を亡くした悲しみに。
誰もが、ノアの死を悲しんでいた。
その時、ポトッとノアの枕元から何かが落ちた。
「…これは…」
エンゼルート伯爵がそれを拾い上げ、おもむろにリーゼに向かって差し出した。
「…四つ葉のクローバーの栞…」
それはノアが最初にリーゼを誘って四つ葉のクローバーを探しにいった時に作ったものだった。幸運にも二本も見つけたリーゼとノアはそれを栞にして持っていた。
「…持っていてくれたのね…」
懐かしい情景。二人で四つ葉のクローバーを探しに郊外へ出かけた。
それを思い出して彼女はさらに涙を流した。ノアは確かに、最後までリーゼを愛していたのだ。
リーゼは涙を流しながらも、エンゼルート伯爵からその栞を受け取ろうと手を伸ばした。
そして、リーゼがその栞に手を触れた瞬間だった。
「っ!?」
「なんだっ!?」
クローバーが激しく、発光を始めたのだ。
その光は増し続け、部屋を真っ白に照らした。
***
リーゼは目を開ける。
そこには自分と同じ様にまぶしさから目を瞑っていたノアの両親、学長、マリアがいた。
「なんだったのでしょう…」
そう言ってクローバーの栞を探すリーゼ。
しかし、リーゼの目線はある一点で固定された。先ほどまで、真っ黒なノアが横たわっていた場所。そこに黒色ではない何かが横たわっている。
いまだ、視界がチカチカするリーゼは立ち上がって、それに近寄った。
「…リーゼ」
そこには、痣など微塵も残っていない、ノアが横たわっていた。
その顔にはほっとしたような笑みが浮かんでいる。
リーゼはその顔を見て、涙する。
愛おしい人、世界で一番大切な人が、再び目を覚ましたのだ。
「ノア!!」
リーゼは叫びながらノアに抱きついた。
****
自分は死への道を歩いているのか。
それとももう死んでいるのか。
痣が全身に広がり、体を自由に動かすことが出来なくなり、横になった時から、僕の記憶はない。
今は真っ白い空間を歩いている。
歩く先に何があるのかは分からない。でも、自然と歩みは進んで行く。
リーゼとマリアにはひどい事をしてしまった。何をやっても償いきれないことを。
リーゼは傷ついただろうし、マリアのことも利用した。僕はどうしようもないやつだ。
僕は後悔の念に駆られながらその道を歩んでいた。
ふと、道の途中に何かを見つけた。
それが何かがどうしても気になり、近づいてよく見てみることにした。
(四つ葉のクローバーの栞?)
そこにはリーゼと一緒に作った四つ葉のクローバーの栞が落ちていた。
僕はそれを何気なく拾い上げようとした。
その瞬間、僕の視界は真っ白照らされ、意識を手放した。
僕が目を覚ますと、目の前には泣きはらした目と少し痩けた頬のリーゼがいた。
僕の体に痣はなく、自由に手足を動かすことができる。
「…リーゼ」
「ノア!!」
僕が彼女の名を呟くと、彼女は目に涙を浮かべながら、僕の体を抱きしめた。
「リーゼ、君が僕を治してくれたのかい?」
「…っ! いいえっ!」
彼女はそう言った。そして、僕の顔を見て、心底嬉しそうに笑った。
「四つ葉のクローバーが幸運を運んできたの!」
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