潜入
日が城壁に沈み、空が緩やかに黒く染まろうとする頃、郊外にある大きな屋敷からすこし外れた場所にサリアはいた。
約束の時刻が刻一刻と迫る中、サリアの足は今からなすべきことへの緊張で震えていた。
震えが指先まで伝播すると、その手が優しく握られる。
「来たか」
「サリアの準備はいい?」
姿なき声に、もうサリアは驚かない。
むしろ傍にいると合図する感触に安心感を覚えていた。
「問題ない。それでは行くぞ」
サリアは覚悟を決めるように小さく頷くと、歩き出す。
高い石壁で囲まれた屋敷の門には三人の衛兵が立っていた。
それとは別に周囲を警戒する衛兵もおり、物々しい雰囲気を醸し出している。
「第四騎士団のサリアだ。グラム副団長のお招きにより推参させていただいた」
衛兵の視線が警戒するようにサリアの全身を確認すると、「ついてこい」と顎をしゃくった。
武器の確認をしないあたり、信用されているのか、はたまた取るに足らないと思われいるのか、推し量ることは出来ない。
門が開かれ屋敷の前まで来ると、衛兵と入れ替わるように執事らしき若い男がサリアを出迎えた。
「サリア様、当主より話は伺っております。ようこそおいで下さいました。案内しますのでどうぞこちらへ」
「よろしく頼む」
物腰は柔らかいがその所作はいかに訓練されているかが伺える。
この執事さえ、自分よりも強いのだろうとサリアは感じ取っていた。
屋敷に入りサリアは小さく息を吐いた。
とりあえずではあるが、第一関門突破である。
「しばらくこちらでお待ちください。当主にサリア様が参られた旨を伝えて参ります」
案内された部屋に入ると、執事は扉を閉めて出て行った。
周りに誰もいないことを確認して、サリアは小さく呟く。
「いるか?」
「当然いるよ」
耳元で声だけが聞こえる。
存在を全く感じないスノーの言葉は緊張のかけらも感じさせなかった。
「大丈夫か?」
「大丈夫なように僕がいるんだよ」
その場に連れて行くだけの自分と比べ、なぜこの少年はここまで落ち着いているのだろう。
サリアはそう考えながら、改めてこの少年は暗殺者なんだと納得した。
ここまでくれば、あとはグラム副団長と面会し、他愛もない話をして退出すれば自分の仕事は終わる。
と、その時サリアは自身の異変に気付いた。
極度の緊張に、ちょっとした安堵。
今さっきまでは気にもしていなかったのに、突然の尿意がサリアを襲う。
「ちょ、ちょっと私は部屋を出るから、ここで待っていろ」
サリアは姿の見えない相手に呟くと、部屋の前まで歩き立ち止まった。
「ここで待っていろよ」
念を押すが応えはない。
一瞬我慢しようかと考えたサリアであったが、押し寄せる波に抗う自信はなかった。
男装しようが自分は女性で、暗殺者とはいえデリカシーは持ち合わせていると信じてサリアは扉を開くのであった。
顔を赤らめ怒りに震えるサリアは、押し殺した声で非難する。
「普通付いてこないだろ!」
「いやいや、離れたりして不足の事態が起こったらどうするの?」
「なら、トイレの前で待てばいいだろ?」
「なにかあったらどうするの? ほら、お喋りやめないと」
「——っ!」
廊下の奥に執事の姿が見えると、サリアは口をつぐんだ。
ほんの少し前。
トイレを見つけ、用を済ませた直後のサリアに聞きなれた声が聞こえた。
「腰の留め金緩んでるよ。しっかり締めておかないと」
軽やかなスノーの言葉を間近で聞いたサリアは声にならない声を発した。
人はここまで顔色を変えれるのかと思う程に赤くなり、恥ずかしさと怒りに震る。
叫びが聞こえなかったのはとっさにスノーがサリアの口を押えたからだ。
「こちらにおられましたか。グラム様がお待ちです」
怒り冷めやらぬサリアであったが、唇をかみしめて男の後に続いた。
案内されたのは屋敷の奥にある重厚な扉の前だ。
「こちらになります」
執事は扉を開くと手のひらを中に向け、すっと横に逸れる。
サリアは気持ちを入れ替えるように大きく息を吐きだすと、標的の待つ部屋に足を踏み入れるのだった。
入った瞬間、緊迫した空気に、サリアは一瞬気圧された。
その部屋の造りはまるで謁見の間を模したようであり、視線の先、中央に座るのは標的である第二騎士団副団長グラム。
その隣には数名の衛兵が立っていたが、その一人一人が精強であるとサリアは感じた。
「よく我が誘いに応えてくれたな。歓迎するぞ、サリアよ」
すでに騎士として最盛期は過ぎているはずなのに、獰猛な獣のような威圧感。
サリアは握った拳を胸に当て、騎士の礼儀通りに頭を下げた。
「中々お誘いに応じられず申し訳ありません。しかしながら第二騎士団への転団の件については、お話を聞いてからと」
「ふむ」
「グラム様が身命を賭して騎士団の改革を行いたいことは存じていますが、具体的な話をお聞きできればと」
グラムは周りの兵に目配せをすると椅子から立ち上がった。
「サリアよ。つまらぬ芝居はお互いやめておくとしよう。我が何も知らぬとでも思ったのか?」
それは一瞬の出来事であった。
衛兵から巨大な戦棍を受け取ったグラムは一瞬でサリアとの間を詰め、地面に向けて叩き下ろした。
グシャリと潰れる音。振り下ろされた戦棍の巻き起こした風がサリアの頬を撫でる。
サリアは礼の格好のまま顔を上げることが出来なかった。
足元では血溜まりが広がっていく。
何がどうなったのかを確認するまでも無い。
この計画は失敗したのだとサリアは感じ取っていた。
体の奥底からくる震え。
サリアはその場にへたり込みそうになるのを必死に堪えていた。
「これで4度目だ。我が気に食わぬ者はこうして役にも立たん暗殺者を連れてくる。が、安心せよ」
グラムはサリアの肩をトンと叩くと、元の場所へと戻っていった。
「お前の命を取ろうとは思わん。どうせモーリスの差金であろう? 自分の娘を使うあたり、やつもなりふり構わぬ所まで来たということか。いや、娘ではなく手駒か」
怒りによってサリアは頭を上げグラムを睨みつける。
だが、それが体の震えを止めることが出来ないサリアの精一杯の虚勢であった。
「なぜモーリスの言葉を信じる? やつこそが騎士団腐敗の原因だとなぜ思わぬ?」
「父はお前のような野心など抱いてはいない!」
「ふむ。親子の繋がりが判断を狂わせるか。しかしお前とて疑問に思っているのだろう? 本当に血のつながりはあるのか、とな」
「——っ!」
サリアは反論出来ずに唇を噛み締めた。
真実はどうであれ、今までにグラムの言葉を考えなかったわけではない。
握られた拳に力が入る。
「このような姑息な手段もお前の望むものではないであろう? 案ずるな。我がその苦悩から救ってやる。この腐った騎士団を生まれ変わらせお前に居場所を与えてやろう」
力強いグラムの言葉に心が崩れそうになった時、救いの手が差し伸べられる。
見えない何かがサリアの手を掴んでいた。
その感触にサリアは自分の真横に視線を移した。
肉塊となったそれは、知っている少年のものでは無かった。
それが誰なのかは分からない。
だが、自分について来た暗殺者が生きていると知ったサリアの震えは止まっていた。
「少し。少しお時間を頂けますか?」
「ふむ。我がお前を気に入っているとはいえ、そう時間はやれん。明日、もう一度ここに来て返事をしに来るがいい」
「ご配慮ありがとうございます」
サリアは掴まれた手を握り返すと、頭を下げ部屋を出て行く。
扉が閉まると衛兵がグラムに声をかけた。
「帰してよろしいので?」
「ふむ。構わん。疑心も生まれたはずだ。モーリスに打てる手など残されてはおらん。それにあの女がモーリスの娘でない事は確かだ。かつての主君に義理立てなどするからこのような誤解を招く。今更いくら真実を語ったところで心には響かんだろう。あの女は明日、我の元に来るしか道は残っておらん」
「さすがグラム様ですね。では明日の寝室には誰も近づかないよう手配しておきます」
グラムは衛兵から酒を受け取ると、いやらしい笑みを浮かべ一気に飲み干すのだった。
命を刈り取る存在が間近にいることも知らずに。
屋敷を出たサリアは足を止め振り返る。
ここから先は暗殺者の領分である。
間違いなく少年が依頼を達成するとサリアは信じて疑わない。
人としての常識やデリカシーは持ち合わせていないが、スノーの姿を消す技術は完璧だった。
殺されたのが誰かは分からない。だがスノーの存在には誰一人として違和感すら感じる素振りを見せなかったのだから。
「暗殺者……か」
サリアの呟きは風と共に掻き消える。
これが正しかったのか答えは出ていない。
だが、自分の記憶の中にいる父を信じようと、サリアは再び歩き出す。
翌日、第二騎士団副団長急死の知らせが帝都を駆け巡るのであった。