薄汚れた少年
西の大陸で広大な領土も持つウェルパリアニス帝国。
3年前にダグエル=パリアニスが初代皇帝として建国したこの地は着実に成長を遂げる一方で、戦いの傷跡もまだ深く残されていた。
帝都ウェルスの外れ。活気のある街から間違った路地の先へと迷い込めば、戦争によって行き場をなくした者たちの集まる退廃地区が広がる。
直す気もないのか痛んだ家屋が立ち並び、まともな職についていないだろう人相の悪い男が闊歩するその場所へは、まともな人間ならむやみに立ち入ったりはしない。
詐欺、窃盗、暴行、強盗、果ては殺人まで、おおよその犯罪者がこの退廃地区には揃っている。
必要悪を欲した皇帝と、この退廃地区に数名いる有力者達の思惑が合致しなければ、この場所は更地になっていただろう。
別にこの退廃地区が皇帝についたわけではない。あくまで対等な立場を保っている。
最低限のルールを退廃地区にもたらすために、有力者達は各々の組織を作りあげた。
やがてその組織には、表社会から秘密裏に依頼が舞い込むのであった。
「おい、スノー。スノー、いないのかい? まったく。スノー、スノー!」
ぼろきれを纏った老婆が家畜が住むような小屋で何度も声を荒げると、ようやく反応するかのように、一角にある積み上げられた藁から白い腕が這い出てきた。
老婆はため息を吐くとその腕を掴んで引きずり出す。
現れたのは薄汚れた少年だ。
「いるなら返事をしな。仕事だよ。ギムレスの所にさっさと行くんだよ」
「ふぁーぁ。ロコ婆、おはよう」
「おはようってな時間じゃないんだがね」
呆れた顔をした老婆は、小屋の片隅に放置されていた布切れをつまむと少年の頭にかけた。
「顔ぐらい拭いていきな」
「ふぁーい」
あくびをしながら返事をする少年は洗いもせずに顔を拭くが、もともとが奇麗ではない布切れだ。
申し訳ない程度に顔の汚れは落ちたが、その風貌は浮浪者と言っても過言ではない。
「今回はそれなりに大きな仕事らしいからね。下手打つんじゃないよ」
用事は済んだと言わんばかりに、再び大きくあくびをする少年を背に小屋を出ていく老婆。
気にすることもなく、二度、三度と腕を上げ伸びをしたスノーも立ち上がる。
「大きな仕事かぁ。そういえばこの前ギムレスに怒られたっけ」
独りごちる少年は、数日前の事を思い返す。
仕事は完璧にこなしたが、身なりが汚いと注意を受けていた。
少年はまだ汚れの少ない衣服に着替えると、慌てることもなくゆっくりと水場へと足を運ぶのだった。
退廃地区の水場は何が混じっているか分からない水路か、少なくともここ数年は修繕されていない井戸が数カ所あるだけだ。
少し開けた場所にある井戸に辿り着いた少年は、人目を気にすることなく服を脱ぎ捨てる。
そのまま滑車から延びる紐を引っ張り釣瓶桶を手に取ると、迷いなく水を頭からかぶるのだった。
「うぅぅ、目が覚める」
まだ気温の高い時期ではあるが、井戸水は冷たい。
少年は獣のように体を震わせて水滴を飛び散らかす。
その様子を見て、一人の男が近づいてきた。
「なんだスノー。水浴びなんて珍しいな。今日は雨が降るんじゃないのか?」
「この前ギムレスに身なりをきれいにして来いって怒られたんだ」
男はなるほどなと頷いたが、すぐに疑問が生じた。
「つまりギムレス様から仕事の依頼があったてことだろ?」
「うん」
「そんなにゆっくりしてていいのか?」
「そういえば。ロコ婆にさっさと行けって言われた」
男の顔が青ざめる。
言葉に対し行動が伴っていない少年の態度には慣れてはいるが、退廃地区の有力者であるギムレスの機嫌をそこなえば、とばっちりが自分の身に降りかかるかもしれない。
「お、おい。早く行けって!」
「えぇ? でもまだ体拭いてないし」
「そんなもんすぐ乾くから。ほら早く!」
男は構わず少年の衣服を拾い上げると、さっさと着ろとまくし立てる。
「ほら、早く、早く行け!」
「もぉ、せっかちだなぁ」
背中を押され、少年は水滴を垂らしつつその場を離れるのだった。
少年がようやく向かったのは、破損した家屋の多い退廃地区の中では珍しい石造りの建物だった。
入り口には体つきの良い2人の男が番をしているが、少年の存在を無視するかのように与えられた職務に務めていた。
少年が横を通り抜け、扉にある鈴の音を耳にして、ようやく1人の男が視線を向ける。
「ったく、ギムレス様は二階でお待ちだ。もう少し普通に来れないのか?」
「えぇ? 普通に来たよ」
「あぁ、分かった。分かった」
男が手をひらひらと振って、さっさと行け、と仕草で示す。
扉が閉まると、もう片方の男は驚きの表情を浮かべながら小さく呟いた。
「ありゃ、なんだ? 急にガキが現れたぞ」
「あぁ、お前は初めてだったっけな? あいつは存在感が無いからな。影が薄すぎるっていうか」
「影が薄いとかってレベルじゃないだろ? 全然気づかなかったぞ」
「そりゃそうだ。あのギムレス様がガキに仕事を与えてるんだ。それだけで特別なガキだって分かるだろ?」
ここで仕事を与えられる者が特異な存在であることなど、番を務める人間にとっては常識だ。だがそれでも今あった出来事は異質であった。
だが気にしたところで仕方がないこともよく分かっている。
二人は会話を終えると自分の職務に戻るのだったが、その襟元には小さな花が差し込まれていた。
少年のちょっとしたいたずらであるが、二人がそのことに気付くのはずっと後のことだった。