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花風に乞う

作者: 雨桐ころも
掲載日:2023/03/25

 木の芽風が、街中の春を僕の部屋へ連れ込んだ。どこか懐かしい香りを、胸いっぱいに吸い込んでみる。カーテンの隙間から溢れる春陽が、僕の体を優しく包み込んでいる。全身に感じる春を、一片も逃したくなくて、僕は息を止めて、目を閉じた。

 

 

 瞼の裏に、ぼんやりと君の笑顔が浮かぶ。その途端に、息が苦しくなって、僕は、呆気なく春を手放した。だけど、本当に苦しいのは、きっと、息じゃない。



 部屋を柔く包んでいた春陽も、いつの間にか白雲の中に姿を隠してしまった。背中を預けているフローリングが、早く起きろと言わんばかりに冷たくなっていく。春はだめだ。どこか気持ちが浮き立っているのに、何かの小さなきっかけで、沈んでしまう。君が隣にいれば……なんて。「たられば」は、もうよそう。



 しばらく、微睡に身を任せてから、重たい腰をあげ、山の向こうに姿を消そうとする太陽を追うように僕も部屋を出た。


 昼間は暖かかったはずの外は、夜になると肌寒い。



「さむいー」



 そう言って大袈裟に笑う声、腕に抱きついてくる感触、風にのって香る甘い柔軟剤の匂い。鮮明に、その光景は浮かんでくるのに。目の前に、君がいたことを思い出すのは容易いのに。声、感触、匂い。感覚だけが、どんどん薄れていく。思い出そうとすればするほど、おかしくなっていく。クーピーで描いた絵を指で擦ったときみたいだ。僕の中の君の輪郭が、どんどんぼやけて、違うものへと変わっていく。


 これ以上、彼女の存在をぼやかすわけにはいかない。僕は、思考を停止し、空を見上げた。街灯に照らされた桜が、花風に揺られ、ほろほろとその花弁を地面へと落としていく。



「もう、一緒にいたいって、思えないよ」



 僕の手をすり抜けてアスファルトに落ちたピンクの花弁が、あの日、君の頬から落ちた雫と重なった。



「ごめん。大切にするから、やり直させてほしい」


「……なんで、最初から、大切にしてくれなかったの」



 君の手を掴もうとした僕の手が、空を切る。



「もう、信じられないや」



 彼女が小さく呟いた言葉が、僕の心に重く響いた。そして、すぐに君は僕に背を向けて離れていく。

追いかけなければ。今、追いかけなければ、行ってしまう。なのに、なぜか足が動かない。いや、本当は、わかっている。追いかけたところで、振り払われてしまうことを。悪いのは、全部、全部、僕だ。


 一際強い風が、桜並木の中を吹き抜け、視界が淡いピンクでいっぱいになった。舞い散る花弁を掴もうと必死に手を動かすが、一枚も掴むことができない。



「……くそ」



 地面に落ちた花弁を適当に拾い上げると、誰かに踏まれたのか茶色く変色している。わかりやすいチャンスは、たくさん与えられていたのに。それを掴むことなく、見落として、気づいた時には枯れていたのだ。



「ばかかよ」



 小さな花弁を二つに割いて、手放した。重力のまま落ちていく花弁よりも早く、僕から溢れた涙が、地面に染みをつくった。



 アスファルトにできた桜の絨毯をゆっくりと踏みながら、帰路へ歩を進める。時折目の前を横切る桜の花弁が、いつまでも僕を責めているように思えた。


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― 新着の感想 ―
[良い点]  色彩や空気感がとても丁寧で、目に浮かぶようです。 心象もきれいにまとまっており、とても読みやすいです。 [気になる点]  特にございません。 [一言]  拝読させて頂きありがとうございま…
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