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*番外編* あなたと見る月だから②

 「おはよう……」

 「……おはようございます……」


 直視できず視線を逸らす雪乃に笑みが溢れる。数えるほどの触れ合って目覚める朝だが、それでも少しは慣れようとしていると伝わる。ただ持ち前の適応能力の高さを発揮しても、雪乃にとっては難しいようだ。


 半年ぶりに素肌で感じる温もりに、そっと瞼を閉じる。


 「…………匠さんだ……」

 「ーーーー雪乃?」


 声に出したと気づき、急激に体温が上昇する。このままでいたいとさえ思うのは、自身だけではなかったと、心の奥がじんわり温かくなっていくようだ。


 「……雪乃」

 「うっ……近いです……」


 思わず敬語になり、微かに潤んだ瞳に高鳴らないはずがない。口づけるように額を寄せれば、逸らされたはずの視線が交わり綻ぶ。間近に感じる婚約者の温もりと視線は、雪乃の熱を深めさせるだけだが、ぎゅっと包まれれば徐々に落ち着いていった。

 電話やパソコン画面越しでの会話を重ねても、実際に触れ合うことのできない距離に慣れないことが多かった。たった数ヶ月の同棲でも、一緒に過ごす時間が当たり前になるのに、そう時間はかからなかったからだ。朝の挨拶を口にしても返されることがない現実に、入学した当初よりも慣れ始めてきた頃の方が大きく感じていた。


 「パンケーキ、食べに行く?」

 「うん……」


 ベッドから起き上がって交す言葉に自然と綻ぶ。隣に並んでいられる現実に弾ませながら。


 「ーーーーーーーー匠さん……」

 「これもいいな」

 「とてもよくお似合いです」


 店員と意気投合されては、さすがの雪乃も口を挟めない。そもそも一目のあるところで、婚約者に反論はしないだろう。誰に見られているか分からないのだから。

 ゆっくりと朝食を堪能した後、匠に連れられるままジュエリーショップを梯子していた。洋服がかさばる事が一番の要因の為、これが日本だったなら今まで以上に爆買いされていただろう。


 「……匠さんは欲しいものないの?」

 「んーー、特にな……」


 ジト目でも見つめられれば、愛しさが込み上げてくる。繋いでいた手をぎゅっと握り直されれば、言葉にならない。語彙力に長けている雪乃であっても、彼にだけは当てはめられない感情があった。


 片手にアイスを持ちながら、海辺をゆったりと歩く。実に穏やかな時間だが時は無情だ。こうして過ごしている間にも、一刻と離れる時間が近づいているのだから。


 「ーーーー美味しい……」

 「イギリスの食事には慣れた?」

 「うん……でも、日本食が恋しくはなるかな……」

 「夕飯は日本食がメインって言ってたよな」

 「うん」


 何気ない会話を覚えている記憶力の良さを分かってはいたが、匠が勤務前の時間帯にも関わらず彼女の事はしっかりと聞いていた。一つも聞き逃すことがないようにと。


 「匠さん、あの……」


 甘い眼差しに、続くはずの言葉が出てこない。


 「……どうした?」

 「いえ…………」


 気遣われ、小さく首を横に振る事しかできない自身に落胆の色が微かに出る。


 文章なら……執筆なら、困らないのに…………


 彼女の執筆ペースは入学当初は落ち着いていたものの、今は以前と変わらずハイペースを保っている。学業に差し支えがないか編集者に気遣われるほどだ。


 「……美味しいですね」

 「あぁー……」


 微かに視線を逸らし、取り止めのない会話を重ねる。本心を伝えることは難しいと痛感せざる得ない。


 無意識で吐いた微かな溜め息は、彼でなければ気づかなかっただろう。


 「雪乃と行きたいところがあるんだ……」

 「うん……」


 いつになく真剣な眼差しと緊張感が混ざり合ったような声色に脈をうつ。握られた手の優しさとは対照的に、どこか追い詰めたような横顔を見上げれば声にならない。

 視線が下がった雪乃には、周囲の景色は映っておらず、ただ彼を見つめていた。これだけの熱視線を間近で受けて彼が気づかないはずはない。ただ衝動に駆られる事はなく、歩みを進めた。


 「ーーーーーーーー雪乃」


 耳元で感じた声に顔を上げれば、彼女のすきな笑顔が間近にあった。彼の背中越しに映る真っ白な祭壇に加速する。ようやくチャペルにいると気づいたのだ。


 「驚いてるな……」

 「……うん…………」


 今の表情ならば、たとえ幼馴染だったとしても気づいただろう。それほど表情が豊かになっていた。とはいえ些細なことに変わりはなく、ただのクラスメイトならば気づかなかったはずだ。


 そっと左手を取られたかと思えば、甲に柔らかい感触があった。匠に唇を寄せられ、言葉にならない。


 「…………すきだよ……」


 見上げれば、微かに赤みを帯びた頬にふわりと表情が緩む。


 「匠さん…………私……」

 「あぁー……」


 額が寄せられ、潤んだ瞳を堪える。上手く表現できない感情に振り回されている場合ではないと、自身が一番よく分かっていた。

 彼の気持ちを疑っている訳ではない。あれだけ態度で示されれば、自覚も芽生える。愛されていると。ただ、どうしても埋められない歳の差に勝手に不安が過ぎるだけだ。分かっていてもままならない感情があり、振り回されることがないように努める雪乃であっても、婚約者に限っては話が別であった。

 上手くいくように努力し続ける事はできる。何の根拠もないが、伊達に藤宮の娘ではない。大人に囲まれて育った事もあり、幼い頃から大人びていた。思考を悟られる事なく振る舞うことが常でもあったからだ。


 「…………ずっと、すきでした……」

 

 一年前に戻ったかのような敬語に、頬を緩ませる婚約者の視線で伝わったと分かる。何を言っても伝わらないと感じた日々が遠い昔の記憶のようだ。


 「きっと、俺の方が……」


 耳元で告げられ、微かに触れた唇に表情が変わる。自身だけが知る婚約者だと分かっているからこその反応だ。他の誰にも同じような事はしないが、仮にあったとしても塩対応がいいところだろう。

 触れられた指先に手を伸ばす。雪乃らしくない行動も彼に対してだけであった。


 「…………匠さん……ありがとう……」


 微かに表情を崩す彼は、その言葉に込められた意味を正しく理解していた。

 自身が望まなければ、交わる事はなかった。春翔と友人とはいえ、それだけだ。彼女にとって兄の親しい友人として映っていたと、自覚はあった。あの頃に告げられた言葉の意味を聞く勇気は今のところない。ただ、そうであって欲しいと願うだけ。叶わないからと、諦められるような想いではなかったと思い知らされたからこそ策略を巡らせ、今に至るのだから。


 「それは、俺の台詞だよ……」


 背中に遠慮がちだった腕がしっかりと伸びる。本音はどこまでも愛でていたいところだが、周囲がそれを許さない事も、彼女が守られるだけの女性でない事も分かっていた。会うたびに想いは募るが、会えない間も募っていった想いは確かにあった。


 「……雪乃の学校生活の話が聞きたいな」

 「学校生活?」

 「あぁー、慣れてからは話題になるけど、入学当初はそうでもなかったから……」

 

 当初を思い返せば、学校生活自体は順調だった。ただ隣に彼がいないだけで、幼馴染と高校生の頃と変わらずに過ごしてきた。ただ自身が想っていたよりも、ずっと大きな存在になっていた事に改めて気づかされ、鈍感さを恨んだくらいだろう。他の誰でもない彼だからこそ、一喜一憂する感情に気づかされていた。


 「……会いたかった…………」

 「……えっ?」


 ストレートに告げられ反応が遅れるが、珍しい表情に綻ぶ。


 「……自分で決めたことだから、後悔はない選択だったけど…………寂しかった……」


 予想外に表情が変わるのはお互いさまだ。ぎゅっと抱き寄せられ、重なる心音に自覚が芽生える。貴重な時間に泣いてはいられないからと、理由をつけていただけだと。結婚式を間近で見た事もあるだろう。兄が継ぐまでに紆余曲折あり結ばれたのだ。家柄が関係ないとはいえ、藤宮ほどになれば、そう簡単に切り捨てられるものではない。お互いを信頼し合っているからこその絆であると、羨ましくも感じていた。それは、雪乃が知らなかった感情ばかりだ。


 上手く伝えようとしなくてもいいと、それだけで心が軽くなっていたのは確かだ。叶わないならと諦められるような夢ではなかったように、彼だからこそ感じる大きな変化であった。


 「…………雪乃……」


 添えられた頬に溢れる。制御できない想いに落胆した事もあるが、今は違う。彼がいたからこそ生まれた感情があり、それが自身にとっていい影響であると、兄や幼馴染の反応を見れば明らかだ。


 「……匠さん…………」


 見上げる潤んだ瞳は悩ましい。二人きりを理由に抱き寄せたが、それ以上は節度を死守である。


 「はぁーーーー……」


 深い溜め息に揺れ動く感情を抑えようとすれば、ぎゅっと力が籠るのが分かる。


 「……やっと、本音を言ったな」

 「えっ?」


 瞬かせる愛らしさに微笑めば、待っていたのだと悟る。聡い彼女には素直さを発揮していい場面が少なかった。無邪気に微笑めば、足元を掬われる事もあると知っていたからだ。気のおけない幼馴染を除けば、親しい友人は少ない。物書きをするにあたって客観的な思考回路は役立っていたが、感情移入しにくい点が欠点でもあった。ただ文章にするにあたってはマイナスに転じた事はなく、最大限の評価を受ける場面が多々見られた。

 ただ感動するような作品さえも、人前で泣いた事はほとんどない。感動超大作と自身の作品を大々的に宣伝されたところで、その感情の根源までは理解できなかった。泣いたところで何かが変わる訳ではない。涙を流して解決するならば、多くの人が簡単に物事を解決に導いているはずなのだから。周囲に上手く溶け込むようにしてきた彼女だからこその思考回路だろう。【月野ゆき】の紡いだ物語には感情の乏しい主人公よりも、ごく普通の少女や少年がメインであった。それは、ある意味では彼女の理想を投影させていたからだ。こうありたいと願う想いは多々あり、幼い頃に諦めた想いも確かにあった。それでも捨てられなかった夢を現実にするべく努力を重ね、今に至るのだ。

 藤宮の名を使った事はないし、また一族が彼女の書物を買い占めるべく動いた事実もない。軽い気持ちで手に取った者はいたが、その考えを恥じたくらいだ。賞を総ナメする実力は本物であったのだから。

 

 「…………匠さんは…」

 「後悔はない……といえば、語弊になるかもしれないけど……雪乃が選んだ道を後押しした事に後悔はないよ」


 はっきりとした口調に潤む。望む言葉をくれるのは、彼の機転の良さであると分かる。瞬時にそう判断できる彼女もまた同年代に比べ大人びていた。


 「明日は乗馬しに行くんだよね?」

 「あぁー、楽しみだな」

 「うん」


 素直な表情に愛おしさが込み上げる。知らなかった頃には戻れないと悟りながらも、本当はどこかで分かっていたと気づく。幼い頃の彼女の思考回路は、年齢にそぐわない程に回転が良かった覚えがあった。

 あの日の言葉を呑み込んで口にすれば、真っ赤の染まる彼女に綻んでいった。

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