最終話 ずっと綺麗でしたよ
キーボードに触れる手は、かなりの速度で動いている。カタカタとスムーズに書き進める彼女はお気に入りの服に身を包んでいた。プレゼントを貰う機会の多い雪乃であっても、彼からの贈り物は特別である。ノートパソコンと向き合う姿は絵になり、ここがカフェだったなら多くの視線を集めていただろう。ただ、今は彼の独占状態であるため、視線が交わり穏やかな笑みを返す。
今後の執筆はある程度の融通が効くとはいえ、彼女自身から溢れ出る言葉たちは防ぎようがない。明日に控えているからこそ、平常心を保つように過ごす努力をしていたともいえる。
「買い出し忘れはない?」
「うん、大丈夫だよ」
「そうか……あとはノートパソコンくらいか」
「うん……」
押し寄せる感情を振り払うように会話を続ける。社交性の高い二人というだけでなく、相手が愛しい婚約者ならば沈黙でも構わないが、今日に限って続けたのはおそらく同じ理由からだっただろう。物理的に遠くなる距離を止めることができないならば、せめて離れる瞬間までは耳心地の良い声と温もりを感じていたいと。
共通の想い出がある事に、この日ばかりは春翔に感謝である。歳の差を実感していたのは、雪乃の方が強いだろう。早く大人になりたいと願うほどに、先を進んでいく匠と肩を並べられる兄が羨ましかったのだから。
揃ってキッチンに並び、昼食を作る。受験前は彼の手料理を食べる機会が多々あり、一通りのことは何でもこなせてしまう器用さが浮き彫りになったが、彼自身は雪乃の手料理が一番の好物であるし、作る姿を隣で見られるのも婚約者の特権であると自覚もしていた。
一日が、とても早く感じる…………描いていて、時間が足りないと感じることは、今までにもあったけど…………ここまでではなかった……
はじめて知る感情でも、彼が隣にいるだけで安心感がある。見損ねた映画が流れるテレビから視線を移せば、タイミングを見計らったかのように交わり、音が立たないはずがない。加速しながらも、そっと触れてくる指先に身を委ねる。
素直すぎる反応に苦笑いを浮かべたかと思えば、甘い言葉が囁かれていった。
一気に染まる頬に触れる手つきは優しく、まるで繊細な物にでも触れるかのようにそっとだ。変わらない扱いに振り返るのは、再会したばかりの事だ。あれだけ憂鬱だったお見合いがはじめて意味のあるものになったのは、間違いなく相手が匠だったからに他ならない。仮に彼以外から同じ提案をされていたとしても、頷くことはなかっただろうと気づく。あの場で即答できたのは、今の彼を知りたかったから。そして、今の自身を見て欲しかったからだろう。けして縮まることのない歳の差であっても、簡単に諦められるような想いではなかったのだ。続けてきた執筆と同じように、どうしても叶えたい強い想いが通じたともいえる。
触れ合えば心音が重なり、募っていった想いに潤む。見下ろされた瞳から想いが伝わり、言葉にする彼に逸らしそうになりながらも返す。言葉にしなければ、伝えたい想いの半分も伝わらないと知っていたからだ。
「ーーーーおはよう」
「……おはようございます……」
まだ数えるほどの抱き合って目覚める朝だ。素肌の触れ合う距離感に鳴りながらも微笑み返し、隙間が開けば引き寄せられて加速する。そこに昨夜のような大胆な姿はなく、真っ赤に染まる初々しさに彼も色づく。
離れ難いのはお互い様であり、離れようとしない彼女の唇に触れれば、返される反応に高鳴る。頭では分かっていても、抗いようがない感覚であったのは言うまでもない。愛しい婚約者と触れ合える現実は、再会した日には叶わないと感じていたが諦めるつもりはなかった。あの日から片隅にあった想いに決着をつけるべく策略を巡らせ、ようやく実を結んだのだから簡単に手放せるはずがない。それでも自身がそうであったように、家と関係ない場所で羽ばたく彼女を見てみたいのが本音だ。
「…………雪乃?」
素肌に触れる柔らかな感触に反応しながらも、長い髪に触れれば微かに揺れる肩が愛らしい。
「…………匠さん……」
名前を呼んだ声色に微かに含まれる色に気づかないはずがない。些細な変化に敏感だからこそ、藤宮家の人間も一目おく敏腕社長と呼ばれているのだから。
「……ダメだな…………」
「えっ?」
「その顔……幼馴染にも見せないでくれ」
塞がれた唇から伝わるのは、自身だけではない想いだ。雪乃が描いてきた恋愛小説は乏しい経験を元にしている為、理想像が多分に含まれていた。現実は都合通りにならず、思わず逸らしたくなる事もあった。汚い現実に嫌気がさしたともいえるが、彼だけは違った。
目の前にいる婚約者は、歳の離れた彼女にも礼を尽くしていた。それが藤宮の娘だからではないと、幼いながらも感じ取っていたのだ。上辺だけの想いは透けて見え、些細な声色で本心ではないと伝わっていた。
祖父がよく口にした言葉を思い出すのは、離れる距離だけではなく、今までは自身の選択に迷いがなかったからだろう。多少の後悔はあっても、そこまで強く感じた事はなかった。責任の取り方は知っていたし、言葉の使い方も分かっていた。ただ好かれる事はあっても、自身の本音を語る場面は極端に少なく、幼馴染には打ち明けた本音さえも友人には伝えられない事が多々あった。言わなくても分かってくれる状況であったともいえるが、それが奇跡的な事であると自覚はあった。同じ家で過ごしてきた家族ですら全てを知っている訳ではない。ある程度の思考を読み解く事は出来ても、根底までは分からない。分かる方が奇跡に近いのだ。書き進めていく事は、雪乃にとって自身を見つめ直す機会の一つにもなっていた。
見送りにきた匠同様に、清隆に向けられる瞳が潤む。二年生に進級する茉莉奈がついて行ける筈はなく、この時ばかりは歳の差を強く感じずにはいられない。春になる度に訪れる出逢いと別れは経験してきたはずだが、今までとは比べものにならない。時差もあり物理的な距離感の違いを感じずにはいられないからだ。
「…………いってきます」
「あぁー、いってらっしゃい」
ふわりと優しい香りに包まれ、距離がゼロなことに反応が遅れる。雪乃らしくない行動だが、幼い頃を想い返せば説明がつく。彼女はなかなかのお転婆ぶりで、さすがは兄妹と感じた場面も多々あったのだから。
囁かれた言葉に、自然と緩むのを感じ放つ。
「……会いにいくよ」
「ーーーーっ、う、うん……」
微笑みを携えていたはずが、こぼれ落ちる涙を止める術はない。触れられた指先は『泣いてもいいよ』と、促しているかのようだった。
「…………雪乃」
心配そうに背中に触れる愛理に拭って微笑む。精一杯の強がりに彼女らしさを感じながら、飛行機は飛び立っていった。
予定していた時間通りに担当編集者とリモートだ。時差を考慮しているとはいえ、オフの日はのんびりしたいところだが、キーボードに触れる手は滑らかに動いていく。タイピングには慣れたものでほとんど打ち間違いはないし、語彙力だけでなく英文法も見事なものである。
「ゆき先生! また記録更新ですよ!!」
「ありがとうございます……」
パソコン画面いっぱいに顔を寄せて豪語する相変わらずな担当編集者に微笑む。そこには以前のような曖昧さはなく、心からの世辞と受け取っているようだ。
「学業に差し支えはないですか?」
「はい、田中さんのおかげで無理なく過ごせています」
執筆速度が抜群に速いこともあるが、今のところ学業に影響を受けた事はない。成績も常にトップを幼馴染と競うほどだ。
タイミングを見計らったかのように、元に戻った画面が即座に切り替わる。隙間時間には慣れたものだが、それだけが理由ではない。
婚約者の落ち着いた声に先ほどよりも綻んでいく。
「…………桜が綺麗……」
「でしょ?」
自慢げに告げられ、くすりと微笑む。巡る季節に想いを馳せるのは雪乃に限ったことではない。
「次の休みが楽しみだな」
「うん……無理はしないでね」
「あぁー、雪乃のことで無理した事はないだろ?」
「うっ、うん……」
素直に頷いてしまう純心さは健在である。
「雪乃の案内、楽しみにしてるよ」
「うん……」
甘さを孕んだ声色が響き、音を立てる。温もりを感じられない距離感に時折押し寄せる感情があり、胸の奥がチクリと痛む。ただ表情にほとんど出る事はなく、幼馴染ですら気づく事はない。
「……雪乃…………」
「匠さん?」
真剣な眼差しと声色で微かに揺れる。隠し事はできないと、この二年で実感してきたが、それでも婚約者の前では気丈に振る舞っていたい。甘える事が苦手な彼女らしさも健在であり、本音を隠す事は得意だが彼の前でだけは皆無であった。
「…………無理はしないこと」
「うん……」
素直に頷き、彼には敵わないと悟る。
「……匠さん……」
「ん?」
スーツに着替えた匠が画面にはっきりと映り、愛おしそうに見つめる瞳に染まりながらも囁く。朝から甘いやりとりが交わされ、その日の彼は終始機嫌が良さそうだったというが、それはまた別の話である。
「…………いってらっしゃい」
「あぁー……雪乃は、ちゃんと眠ること」
「うん……また明日ね」
「あぁー、おやすみ」
短い会話もこの二年ですっかりと定着していた。時差の分だけ雪乃にとっては寝る前の会話でも、匠にとっては翌日の朝に交わす会話が多い。今のように画面越しで話す機会もあるが、どうしても時間がない場合や合わない時は、通話やメッセージだけのやり取りになる事もある。
「ーーーーーーーーできた!」
大きく伸びをして呟く。ルーティン化した画面越しの会話に緩ませ、書き上げたばかりの文章を読み返す。
「…………【Wispering that the moon is beautiful】……」
日本語で書き上げた小説は、国内での出版ならば最速で売上上位にランクインし、簡単に発行部数を更新し続けるだろう。大手の出版社が発行している事もあるが、それだけが理由ならばここまで読まれる事はなかったはずだ。
一定数のファンを獲得して今も新規ユーザーを得ているのは、刺さる言葉が使われているからだけでなく、丁寧な日本語を学んできた雪乃らしい文脈と、読みやすい簡潔さにあった。
一度も顔を出さない作家は多々いるが、ここまで認知度があるにも関わらず顔出しをしないのも珍しいだろう。
募る寂しさを消化するように書き上げた小説は、この年の賞レースを総ナメする事になり、それははじめて英語で紡いだ言葉たちだが、それはもう少し先の話だ。
夜空を見上げ、振り返る。過ぎゆく季節に後悔はないと、今ならはっきりと言えると。
「…………綺麗……」
月に向かって微笑む脳裏に浮かぶのは、幼い頃の想い出と婚約してからの彼の姿であった。