第65話 花束を贈って
拠点をイギリスに移すとはいえ、リモートでも執筆自体は可能だ。ネット環境さえ整っていれば、ある意味では何処にいても続けられる職業である。
ただ大学生活がメインになる為、執筆ペースが落ちると予想され、担当編集者も了承済みではあるが、雪乃に限ってはあまり関係ないだろう。高等部に進学してからの三年間も成績上位をキープしつつ、数々の作品を生み出しヒットメーカーと呼ばれるまでになったのだから。
「その制服に袖を通すのも、今日までか……」
「うん……」
自身の事のように名残惜しそうにする婚約者に微笑む。スマホで撮影会が行われ、朝からリビングは賑やかだ。
「……迎えに行くから」
「うん、ありがとう」
広げられた腕の中に収まり、早くも卒業を実感する。
「…………いってきます」
「あぁー、いってらっしゃい」
匠とのやり取りを思い出し、笑みが溢れる。晴れ渡る空を見上げた横顔は希望に満ちているかのようだ。
通い慣れた道も今日で最後となると、景色が変わって見えるのだろう。幼馴染に手を振る雪乃は柔らかな笑みをみせる。
「おはよう、愛理、風磨、キヨ」
「おはよう」 「雪乃、おはよう」 「おはよう、雪乃」
卒業式という事もあり、いつも以上に注目の的だが関係なく穏やかに談笑を続けているが、花の飾りを渡しにきた渡邊にとっては緊張の連続である。いくら彼が生徒会長を務め、人前に慣れているとはいえ、それとは比べるまでもない。
「卒業、おめでとうございます!」
『ありがとう』 『ありがとな』
交わした言葉は生徒会での仕事内容がほとんどで、学年が違う事もあり話す機会は多くはなかった。それでも会話を重ねれば、美しい見た目だけでなく中身も可愛らしいと気づく。ハッキリと主張してリーダーシップを取る事もできるが、副会長として支える姿が印象的であった。そこまで気づく彼は賞賛に値する為、幼馴染が甘さを見せていた部分もある。
「……先輩…………おめでとうございます」
「渡邊くん、ありがとう」
振り絞って出したであろう言葉に笑みが返された。あまりに晴れやかな表情に倒れる生徒が続出したが、それはまた別の話である。当の本人は呑気なもので、周囲を気にする素振りはない。幼馴染がこぞって溜め息を吐きそうになるほどの豊かさがあった。
「…………どうかしたの?」
小首をかしげる仕草すら可愛らしいが、喜ばしい変化とはいえ先が思いやられる。この場に婚約者がいたなら同じような反応を示していただろう。彼女には敵わないと。
滞りなく式は終わり、教室では写真を取り合う姿があちこちで見られ、雪乃たちの周囲には多くの人が集まっていた。中には最後の思い出にと、写真をせがまれる場面も多々見受けられたが、不快感を与える事なくツーショットは回避されていく。目を光らせる清隆や風磨だけでなく、雪乃や愛理も回避能力は高い方だ。それでも例年なら強引な輩もいるが、学園祭に婚約者が来た事により『彼氏がいる』と、本人が言い回らなくとも周知の事実となっていた。車での送迎もある意味では彼の策略通りともいえるだろう。実際に悪い虫は、ある程度ではあるが回避できているのだから。
周囲を見渡し、押し寄せる。いくら幼馴染と同じ進学先とはいえ寂しさは募る。親元を離れるのも、卒業するのも、初めての経験ではない。中等部を卒業した時にも経験したはずだと、自身に言い聞かせても制御できずに揺れ動く。作家活動に生かすべく何事にも取り組んできた雪乃であっても、感情まではどうにもならない。彼と再会した日から少しずつ変化していった。周囲が気づかない僅かな変化でも、自身にとっては大きな変化であった。今ではそばにいる事が当たり前になり、知らなかった頃には戻れないだろう。
抱きついてきた愛理を受け止めれば風磨のヤキモチが炸裂しそうだが、二人のやりとりには慣れたもので今更である。ただ周囲の反応は幼馴染とは違いシャッターチャンス到来であるが、清隆が声をかけた事で簡単に防がれる。
二人の苦労には気づいていないのだろう。屈託のない笑みに頬を染める生徒が続出だ。特に雪乃たちの近くにいたクラスメイトは直撃である。
本来の雪乃は人好きで自身は根暗な性格と思っているが、社交も難なくこなし明るい性格であった。些細な変化に敏感なところが悪い方に傾いていただけで、美しき令嬢である。
在校生から手渡された花束を抱え幼馴染と分かれれば、車窓から匠が顔を覗かせていた。
「雪乃、お疲れさま」
「お疲れさま……匠さん……」
「すごい花束だな」
指摘されるのも無理はない。元生徒会副会長というだけでなく、その容姿端麗さからも憧れが大きかったのだろう。隠れファンが多くいた事もあり、顔見知り程度の在校生からも花束を受け取っていた。お菓子の類は持ち帰っても食せない事があるが、花に害はなく卒業を理由に受け取ったともいえる。彼女にとって卒業後も会う機会があるのは限られた友人だけだ。愛理たち親友を入れても、数える程度だろう。
隣で綻ぶ美しい横顔からフロントガラスに視線を移し、車を走らせる。卒業ソングをBGMにしながら会話を交わせば、自然と表情も柔らかになっていく。
「……雪乃」
差し伸べられた手を握り返しフロントを抜ければ、エレベーターで高層階に辿り着いた。
「…………広い……」
「あぁー、向こうの部屋で着替えておいで」
「うん……」
素直に従えば、彼が選んだワンピースがラックに掛かっている。
「…………素敵……」
思わず呟き、手に取れば上等な生地感が伝わる。高価な物に触れる機会の多い雪乃が口にしてしまうほどの一着である。彼が厳選したと簡単に想像はつくし、オーダーメイドであるかのようなサイズ感は言葉にならない。
少し緊張した面持ちで扉を開ければ、柔らかな笑みに心音が速まる。ただそれは彼女に限った事ではない。服に合わせた薄づきのメイクに、彼もドキリと音を立てていた。
「……綺麗だな……」
「あ、ありがとう……」
見惚れ合う姿は初々しい付き合いたてのカップルのようで、すでに同棲までしている雰囲気は皆無である。
タイミングを見計らったかのように専属のスタッフがワゴンを押して入出すれば、窓際のテーブル席に着くように促される。いうまでもなくレストランに行く事はなく部屋での食事だ。白いクロスの中央には小さな生花が飾られ、カトラリーも綺麗に並べられていた。
口に運ぶ度に綻ばせる彼女に向けられる視線は相変わらずの甘さがあり、シェフまでも一瞬で虜だ。洗練された所作に愛らしさが備われば最強であろう。
「……美味しい……」
漏らしたような言葉が本音だと伝わり、匠だけでなくその場に居合わせたスタッフも虜だ。一瞬で魅了する引力が桁違いであると、その容姿からも分かってはいたが再認識させられていた。
デザート皿には【卒業おめでとう】の文字が書かれ、思わずスマホで写す学生らしさが微笑ましい。どんなに着飾っていようとも高校を卒業したばかりで、これからがまた新たな生活の始まりである。
顔を上げれば、穏やかな表情の彼に音を立てる。彼自身に自覚はなくとも、婚約者に向ける視線はいつだって穏やかな甘さを孕んでいた。両想いだからこその反応であると、春翔になら分かっただろう。彼がここまで気を許しているのは彼女だからであり、今まで誰にも見せてこなかった表情であった。
ティーカップが下げられ二人きりの空間に戻れば、向けられる視線に加速していく。僅かでも分かりやすくなった雪乃の反応に、そっと手が触れる。
「ーーーー匠さん?」
「……頑張ったな…………」
作家としての活動は順風満帆とはいえ、学業との両立も一人暮らしも、最初の頃は寂しさが強かった。なりたい職につき自身で決断した事とはいえ押し寄せてくる不安はあり、初めから何もかもが軌道に乗っていたわけではない。完璧にこなすあまり、保健室のお世話になった事もあったのだ。
「…………ありがとう……」
触れられた指先でこぼれ落ちた涙に気づく。怒涛の日々を振り返り、思わずこぼれた本音だ。
「……匠さん…………」
「雪乃…………待ってるよ」
「うん……」
重なる心音に冷静さを取り戻す。初めての経験ばかりの雪乃にとって慣れない距離感が当たり前になっていたと気づく。抱き寄せられ、ふわりと感じる香水に誰にも譲れない独占欲が疼く。彼ほどの人なら自身を選ばなくとも相手には困らないと分かっているし、彼が望んでくれたからといって努力しない理由にはならない。隣にいられる自信が欠けていると感じているからこその選択でもあった。
予感に瞼を閉じれば、ゆっくりと唇が重なり解けていく。薔薇の香りに瞬かせれば、目の前が誰よりも大きな花束で視界を埋め尽くす。
「雪乃、約束だよ?」
「……うん…………」
素直な反応に苦笑いを浮かべるさまに変わりはない。再会した日から甘さは常にあった。甘やかし上手な彼の腕に抱かれ、背伸びをして唇を寄せれば、瞬かせた表情に思考が飛んでいくのであった。