第62話 ハニーメモリー③
「サプライズは成功かな……」
「うん……驚いたよ……」
受験の合間に選んだ意図が分かり視線を移せば、指輪が左手に馴染んでいる。同じように彼の手にも指輪があり、思わず綻ぶ。
「どうした?」
「ううん……嬉しいな、と……」
お揃いなら幼馴染と散々やってきたし、プレゼントなら今まで数え切れないほど貰ってきた。何も今に始まった事ではないが、相手が婚約者というだけで違うのだろう。愛理たち幼馴染はもちろん特別な存在だったが、彼はさらに特別な存在になったといえる。
三年も離れる選択をした自身であるが、耐えられそうにないと、心が叫ぶかのように鳴っていた。
思わず手を伸ばし頬に触れる仕草に、ピクリと揺れ動いたのは匠の方だ。
「…………雪乃?」
綻んだ表情が間近に迫り、離れる間もなく柔らかな感触と花の香りに包まれる。
いつの間にかソファーに移動し、彼の膝の上で口づけを交わす。引っ込み思案だった彼女にしては珍しく行動的だが、ままならない自身の感情を全て受け入れるかのような匠に、子供っぽさを自覚する。
「雪乃…………」
耳元で囁かれ、真っ赤に染まり離れようとした腕は、しっかりと握られていた。真剣な瞳に頷かない選択肢はなく小さく頷けば、綻ぶ婚約者に胸が高鳴る。忙しない心音と対照的に気持ちは落ち着いていった。
すっかりと冷めた紅茶を飲み干して、ホテル内のレストランに向かえば当然のように貸切であり、顔を見合わせて苦笑いだ。
「冬時さんに感謝だな」
「はい」
素直に頷く姿にウエイターが赤らめる場面が生じる度に、自慢の婚約者と思う反面、独占欲が疼く。だからといって彼が悟らせるような事はなく、穏やかに微笑み返すだけだ。
目の前に置かれる洗練された品々に綻ばせる雪乃を見つめる彼からは、愛おしさが滲み出ている。職場においてはクールな印象もある彼の珍しい一面だが、雪乃が気づく事はない。彼女にとっては甘々な彼が常だからである。
「美味しい……」
「あぁー、美味しいな」
「はい…………」
「どうした?」
「……いえ…………綺麗ですね……」
明らかに誤魔化したであろう雪乃を追求せず、同じように外の夜景に視線を移す。
「そうだな……」
言葉を呑み込んで眺めながらも、内心では婚約者の事でいっぱいである。大人な彼にもままならない感情があり、衝動に駆られながらも上手く抑えているに過ぎない。向けられる笑みに高鳴っていたのはどちらもだろう。
敷居の高い場所での食事も、眺めのいい夜景も、今までに何度も経験はある。雪乃だけでなく彼にとっても日常の一部であり、特別感は薄い。まだ学生の彼女よりも年齢の分だけ場数は匠が多いが、一般的な学生の経験値からすれば雪乃は段違いだ。
幼い頃からテーブルマナーは教えられてきたし、物心つく頃からパーティーにも参加してきた。ここ数年は参加を控えていたとはいえ、美しい所作は健在である。今もフォークとナイフを器用に使い分けていた。
「綺麗な盛り付けですね」
「雪乃なら作れそうだな」
「……似たような感じになら、出来るかもしれません」
「今度の休みにやってみようか?」
「はい」
一緒にキッチンに立つ約束を取り付けた匠も、即答する雪乃も穏やかな笑みを浮かべる。貸切りという事もあり、談笑しながらゆっくりと食事を楽しむ余裕があった。
コース料理は可愛らしいデザートプレートと紅茶で締めくくられ、匠の腕をとったままエレベーターに乗り込んだ。
「匠さん、ごちそうさまでした……」
「あぁー、美味しかったな」
「はい」
一流ホテルに入る飲食店なだけありクオリティーは高い。藤宮家が運営するハイクラスなホテルの一つだから当然といえばそれまでだが、それが当たり前な事自体が稀だ。
一條家の運営するホテルもあるが和を基調にしたものが多く、藤宮とは違った趣のあるものばかりだ。両家とも古くから親交があり今に至るが、結婚という形で縁が結ばれたのは今回が初めてである。
「明日には帰るんですね……」
「あぁー」
高層階から望む夜景の場所は違えど、美しい事に変わりはない。スイートルームの重厚な絨毯の床でなくとも、広々としたフローリングであるし、二人暮らしには有り余る広さだ。
窓の向こうに視線を向けたまま、一日を振り返る雪乃は左手に視線を向けていた。
ーーーー本当に、婚約したんだ…………
仮から本物になり、同棲を始めて今に至るが、大々的に公になったのは数時間前だ。今更ながら実感が湧き、今も手元に残る輝く指輪に自然と綻ぶ。
「?! た、匠さん……」
背後から抱きしめられ、心音が跳ねる。パーティーの緊張感は些細な事のようで、今の方が早鐘である。不意なスキンシップに弱い雪乃を分かっているからこその行動だが、匠が悟らせる事はない。
「ーーーー今日はありがとう……」
「いえ、こちらこそ……ありがとうございました……」
「これで堂々と連れ立って行けるな」
「どこかに行くんですか?」
「いや……社外にも婚約者がいるって言えるのが、嬉しくてね……」
彼の事情を察すれば、それも無理からぬ事だ。契約している社長に会う度に娘を紹介されてはたまったものではないし、仕事に支障が出ては元も子もないが、それだけが理由ではない。
「……分からない?」
「…………うん?」
素直に頷く純真さに微笑む。腕の中に感じる温もりは本物であると。
「…………こういう事」
「?!」
唇が触れ合ったかと思えば、ソファーに沈む体に思考回路が追いつかない。深くなる口づけに、ようやく息を吐き出す。
「ーーーーっ!!」
胸元に寄せられる唇に微かな吐息を漏らす。頬に触れる柔らかな髪がそっと離れ、瞳から逸らせない。
「どうする? 止めるなら、今だよ?」
そう言って離れようとした婚約者の腕を掴んだのは雪乃だ。
「あっ、あの…………お風呂に……」
真っ赤に染まりながらも上目遣いで告げられれば、抗いようがない。簡単に横抱きにされ、声は呑まれていった。
シャワーを浴びてベットに戻れば、肩を出した婚約者が小さな寝息を立てている。
「ーーーー雪乃…………」
甘さの孕んだ声で呼んでも、応答はない。彼女はすっかりと夢の中だ。無理をさせないと誓った彼であっても、抗いようがない甘さであった。
堪らず頬に口づければ、身じろぐ姿に酷く鳴る。無防備な姿は勿論だが、受け入れられた現実が夢心地であった。
慎重になった想いを彼女が知るはずはない。まだ学生という歳の差も、初めてになるであろう行為も、自身の事よりもより慎重になった。婚約者にはかっこいいといつまでも思われていたいし、幸せにしたいと思っての事だが、それが実行できているかは定かではない。仕事ができ、容姿端麗で、ハイスペックと呼ばれる社長であっても、婚約者の事においては臆病さが見え隠れしていた。ようやく公になり念願が叶ったといえる想いは、雪乃よりも強かったのかもしれない。
そっと抱き寄せて眠れば、心の底からじんわりと熱を帯びていくようであった。
温かな温もりで目覚めれば、間近にある婚約者の顔にまた心音が速まる。昨夜の行為を思い出したのだろう。真っ赤に染まりつつ、腕から逃れようとするが抜け出す事はできない。さらにぎゅっと抱き寄せられ、背後から微かな笑みが聞こえてきた。
「…………匠さん……」
「……おはよう、雪乃……」
「……おはようございます…………」
平然とする彼は離す気がないのだろう。腕に力を込められたまま、ちゅっと可愛らしい音を立てて唇が離れていった。
「…………今、何時かな?」
「んーー、チックアウトまでは、まだまだ時間があるよ?」
「!!」
素肌に触れる感触に速まる心音だが、当の本人は素知らぬ顔のまま話を続ける。
「……部屋に持ってくるように手配してくるから」
ほんの僅かな距離に、思わず伸ばしそうになった手に気づく。昨夜にも見られたが、想いが溢れたのだろう。ただ自身の行動に説明をつけられずにいた。見た目に反して恋愛初心者な雪乃には、ハードルの高いことばかりであるが、そうも言ってはいられない。パーティーでも感じたご令嬢方の視線に彼女が気づかないはずがないのだ。それは自身にもいえる事だが、いまいち反応は薄い。広い視野の割には、自身の事に無頓着なままだ。
「…………匠さん……すき、です……」
反射的に出た言葉に思わず口元を押さえる。
潤んだ瞳で告げられれば、破壊力は抜群であった。
「ーーーーっ、雪乃……すきだよ……」
頬に触れた指先が唇をなぞる。色香がダダ漏れなのはどちらも同じである。
深くなる口づけを交わし、朝からとびきりの甘い時間を過ごす事になったのはいうまでもないのであった。