第61話 ハニーメモリー②
幼馴染と談笑する和やかな雰囲気に割って入る勇者は、春翔くらいである。名家のご子息やご令嬢である認識がなくては、この場にいる事すら叶わないのだ。
「匠、雪乃、婚約おめでとう」
『ありがとう』
揃って伝えれば、春翔にも喜色が浮かぶ。彼の隣ではお酒を控えた杏奈も、出来立ての料理が乗った皿を片手に綻ばせる。
個別の挨拶を済ませ、ようやく親しい顔ぶれが揃い、表情は変わらずとも安堵していた。雪乃であっても今回の招待客は一筋縄ではいかないと感じていたが、それを相手に悟られる事なく対応する姿は流石であった。
「さすが藤宮家が選んだだけあるよね」
「ああ、ビュッフェにしたって豪華だしな」
「どれも美味しいし♡」
「そうだな」
普段と変わらない口調に緊張感が緩和されていくようだ。
招待状自体は個人名で送られていたが、仮になくても本家に届いた招待状を使って参加していただろう。雪乃の婚約発表は幼馴染にとっても一大事だったが、杞憂に終わった。順調に挨拶が済めば、時間まで歓談する余裕がある。
「ーーーー揃っているな」
「冬時さん、本日はありがとうございます」
「いや、孫の晴れ姿が見れて満足だ」
「気が早いですよ?」
「そう言うな、いくつになっても孫は可愛いものなんだからな?」
「ありがとうございますと、言っておきますね」
「雪乃は手厳しいなーーー」
語尾を伸ばした所で可愛げはないが、孫を溺愛している事は明らかである。わざわざ終盤になった場で声をかけられた意味は、彼女なりに理解していたからこその対応であった。
和装に身を包んだ冬時は、グラスを片手にパーティーを満喫した様子が見てとれる。祖父だけでなくお互いの両親も参加していたが、メインは雪乃と匠の為、口を挟む事はない。
弁えている二人に対し、注意すべき事もないのが現実だ。匠は社長を務めているだけあるし、雪乃は作家として活動している事もあり、安定感があるうえ抜群の対応力を発揮していたといえる。
「…………雪乃、少しいい?」
「はい……」
著名な参加者からも祝辞を頂き、和やかなままお開きになる予定を破ったのは婚約者だ。
差し出された箱を開ければ、もっと先に受け取るはずだった指輪が入っていた。
「……………………匠さん……」
瞬かせながら見上げれば、綻ぶ表情が間近に迫り言葉にならない。ごく自然に触れられ、左手の薬指に通された指輪が美しい輝きを放つ。
「……雪乃」
差し出された左手に指輪を通す手が微かに震える。招待客に見守られながらのサプライズが要因だが、それだけではない。彼の瞳が物語っているようであった。
遠くで聞こえる歓声は、彼の唇が頬に触れた瞬間に一部悲鳴に近い声に変わる。淡い恋心が儚く散ったかと思えば、周囲の喧騒を他所にそっと瞼を閉じる。染まっていく愛らしくも見た事のない表情に、先程よりも騒々しくなったのはいうまでもない。
側にいた冬時がもっともオーバーなリアクションであるし、春翔たちまで参戦する勢いであった。
再び重い扉が両サイドから開かれれば、婚約披露パーティーが終わりを告げる合図だ。退出していく人々に揃って挨拶を交わす姿に、冬時だけでなく両親も満足気である。
提供された会場は規模の大きさからも祖父の発案であったが、料理やテーブルセッティング、BGMや生花等のパーティーに関する内容は、雪乃と匠が話し合って決めたものだ。図らずも本番前の予行練習のようであった。
春翔のように海外では好きな式を挙げる事も可能だが、国内においては藤宮家として盛大に挙げるしかない。招待客に関しても家と関わりのある面子がメインになってしまう為、親しい友人は海外に参列する予定だ。藤宮家から嫁いでいく雪乃も直系の娘である事から、今日よりも盛大になると簡単に想像がつく。
「式を楽しみにしているよ」
『ありがとうございます』
気の早い年長者に揃って告げれば、楽しそうに微笑まれる。幼い頃の雪乃を知る面々にとっては、感慨深いものが駆け巡っていただろう。美しく成長した彼女の隣には、美丈夫な匠の姿が常にあり、お似合いであった。
若くして起業する者は数多くいるが、彼のような規模で早々と経営が安定する社は少ない。非の打ち所がないからこそ、握手を交わす際に自然と力のこもる若者がいたともいえる。敵わないと瞬時に理解できるからこそ、優秀な彼に対して嫉妬心が強くなるというものだ。花のように甘い蜜をもつ彼女を手に入れたのだから。
「雪乃ちゃん、またね」
「はい」
杏奈は抜かりなくデートの約束を取り付け、嬉しそうに手を振った。終始春翔にエスコートされていたが、二人は妹から見てもお似合いである。雪乃も手を振り替えせば、残るは両親と発案者である冬時と祖母たちだ。
「ーーーーお疲れさま、いいパーティーだったぞ」
『ありがとうございます』
満足気な祖父に揃って応えれば、何処か懐かしむような表情が一瞬だけ読み取れる。自身の経験を想い出していたのかもしれないが悟る事は皆無だ。相手が望む表情は彼にとって造作もなく、息をするように偽る事も可能である。とはいえ、この場においては心から祝福を送っていたし、心からの労いの言葉であった。『ひ孫が見たい』だけが本音ではないが、可愛い孫の子供を早く拝みたいのは事実である。
「ご尽力いただき、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
匠に続いて頭を下げる姿に、若かりし頃の記憶が巡っていただろう。けして順風満帆ばかりの日々ではなく、苦楽を共にしてきたからこそ今がある。経験者だからこそ言葉に重みが増すというものだ。
「…………匠くん……雪乃をよろしく頼む」
「はい」
「父さん、それは私の台詞です」
「そうだったな」
和やかな雰囲気のまま、ラウンジでお茶をする両親たちを見送った。振り返れば空っぽになった会場が残る。
大勢の招待客で賑わっていた時間は、緊張の連続だったのだろう。年相応らしく息を吐き出す姿に向けられる視線は、甘いままだ。
「ーーーー雪乃、お疲れさま……」
「……匠さん……お疲れさまです……」
労いの言葉を掛け合い、今日を振り返る。よほどの事がない限り一度会話した相手を忘れる事はない。記憶力が優れているのは雪乃だけでなく匠もだ。招待客のリストには藤宮家縁の者が多くいたし、幼い頃に挨拶を交わした者もいた。全くの初対面は取引先のご令嬢やご令息くらいだろう。といっても、雪乃と同年代は幼馴染くらいで、社会人がほとんどであった。
「…………夕飯には早いから、部屋でお茶しようか?」
「はい……匠さんは、何か召し上がりますか?」
「ケーキセットでも頼もうかな。雪乃も食べるでしょ?」
「はい……」
幼馴染に料理を勧められたとはいえ、お腹が満たされるほど食べられた訳ではない。手渡されたプレートは二人で食べきったが、それ以降に口にしたものは飲み物くらいだ。本日の主役に声をかける者が後を絶たなかったからだ。
これは祖父母や両親にもいえることだが、あまりに場違いな輩は脳内でリスト化され、今後の良好な取引は望めなくなるだろう。ただそれは別の話であり、雪乃たちが知り得る事ではなくとも、何度か察する場面はあった。
「……どれも美味しそうです…………」
「ゆっくり選んだらいい」
「はい……」
ほどなくして、数種類のケーキがデザートワゴンに乗って届けられた。二人が腰掛ける窓際のテーブルには、すでに紅茶の入ったティーカップが置かれている。
雪乃が選ぶ姿に、紅茶を飲んで誤魔化しているが分かりやすく綻ぶ。人前が苦手としているが、今も丁寧に対応しているし、むしろ接客のプロが柔らかな表情に赤面気味であった。
「…………美味しい」
「あぁー」
二人きりになり、ようやく口調が戻る。嬉しそうに口に運ぶ姿は愛らしく、視線が交われば分かりやすい表情の変化だ。
見られていた事に気づき染まる頬も、まっすぐに見つめ返す瞳も、抱きしめたい衝動に駆られるには充分である。
「ーーーー匠さん、食べてみますか?」
「……あぁー」
差し出されたフォークは見当違いであるが、ある意味では当たっていた。フォークを持った手に触れられたかと思えば、ポトリと小さな音を立てて皿に落ちる。
一口大に切ったはずのケーキではなく唇が重なる。一瞬の出来事に瞬きする暇すらなく、大きな瞳がこぼれ落ちそうになったかと思えば真っ赤に染まる。
「ーーーーっ?!」
声にならない叫びに、婚約者はご満悦の様子だ。睨んだところで愛らしさは変わらずに健在であり、表情の豊かさが戻り安堵すら覚える。
本心に気づかない雪乃は、急に詰められた距離にたじろぎながらも抱きしめ返した。
「ーーーー雪乃?」
「…………匠さん……ありがとうございます……」
そっと触れる左手の薬指には、交わし合ったばかりの指輪が輝いていた。