第59話 出逢えた奇跡を
二泊三日分の荷物といっても都内の為、たいした量ではない。しかも帰ろうと思えばすぐに戻れる距離だ。
「雪乃、荷物はそれだけ?」
「うん」
軽々と抱えた鞄はたいした重さではなく、備え付けの化粧品を使用することもあり必要最低限だ。
玄関には一部ドライフラワーにする最中の薔薇が下がり、微かな香りに綻ぶ。
「ーーーー行こうか」
「うん」
手を差し出され、素直に握り返す度に実感するが、想いを伝える事はない。ただ愛おしさは周囲にダダ漏れであり、雪乃自身も気づいていたはずだ。ただ確信がなかっただけで。
当たり前のように助手席に乗り込んだ雪乃は、匠もお気に入りで菫が購入した服に身を包んでいた。
「その服も似合うな……可愛い」
「ありがとう……」
「母さん、センスだけはいいからな……」
「匠さんと似てるよね……」
「そう? あそこまで強引じゃないでしょ?」
「……………………」
無言のまま見つめられても、運転中のため触れ合う事はできない。無自覚な婚約者に困り顔の雪乃も、嬉しい気持ちもあるため強く批判する事はない。ただ時折見せる強引さは確信犯だろうと結論づけた。頭の切れる彼が最適解を導き出せないとは考えづらいからだ。
「……明日だね……」
「そうだな」
態とらしく逸らす雪乃に笑みが溢れる。
準備は整い、あとはこの身一つでホテルに向かっても何ら差し障りはなかっただろう。
フロントに告げれば、最上階のスイートルームに案内された。
「…………さすが冬時さんだな」
「うん…………」
広々とした窓からは眺望の良さが見てとれるし、部屋の広さは勿論のこと、テーブルにはリボン付きの食事券が置いてあった。ホテル内の飲食店で利用できるとメモ付きで、さっそく寿司を食べにエレベーターに乗り込んだが、評判のいい五つ星ホテルにも関わらず誰ともすれ違わない。
匠を見上げれば、彼も察したであろうと分かる。どちらからともなく溜め息を吐いた。
「……エグゼクティブフロアは貸し切りみたいだな」
「うん…………おじいちゃんが、すみません……」
「いや、さすがスケールは違うけど……雪乃を独占できて嬉しいかな」
顔が近づき、一気に染まる。愛らしい姿は独り占めしたいし、いつまでも愛でていられるのだろう。甘い視線に耐えきれず、思わず視線を逸らす頬は染まったままだ。
「…………匠さん?」
空気が緩んだのを感じて見上げれば、嬉しそうに微笑む彼がいた。
「……意識してくれるのが嬉しくてね……あ、着いたな」
お目当てのフロアに着き、手を差し出す匠の腕に勢いよく触れれば、染まったのは彼の方だ。
「…………なんで、そんなに可愛いかな……」
「……どうかしました?」
思わず出た本音はほんの小さな呟きで、雪乃には聞き取れない。
二人きりの空間から出れば、敬語に戻りお淑やかが増す。
「いや、ここも貸し切りかもな」
「はい……でも、今回は祖父に感謝です……」
「そうだな……」
萎縮する事なく告げた本音に自身も驚いていた。やり過ぎ気味になる祖父に溜め息を呑み込んだのは、一度や二度ではない。匠と再会したお見合いも悩みの種の一つであった。
隣を見上げれば、穏やかな笑みを見せる婚約者に自然と綻んでいく。
「お疲れさま」 「お疲れさまです」
ノンアルコールとソフトドリンクで乾杯をして、握りたての寿司が目の前に置かれていく。この店も貸し切りのようでカウンターに二人がいるだけで、他に客はいない。
冬時の溺愛ぶりを感じる匠に対し、雪乃は社交性を発揮して店主と談笑する余裕すらある。ただ匠にだけは微かに緊張していると伝わっていた。もちろん相手が気づく事はなく、美少女に褒められご満悦の様子が見てとれる。一流の職人であってもほんの数秒で虜にしてしまうのだから、学校での人気ぶりもイベント化した告白ラッシュも致し方ない事かもしれない。そう頭では分かっていても、ままならないのが感情であり、ここまで揺れるのは婚約者に対する想いだけだ。
「美味しかったですね」
「あぁー」
頬を緩ませ、終始リラックスした様子の雪乃は外では珍しい。ほぼ貸切同然だからこその反応であり、婚約者がそばにいるからこその彼女だと、分かっているからこそ綻ぶ。
揃って部屋に戻りルームサービスで紅茶を頼めば、いつもの味にほっと息を吐き出す雪乃が愛らしい。外でのリラックスモードとは異なり、二人きりの空間に多少なりとも緊張していたと見てとれる。家と変わりないが、いつもとは違う部屋がそうさせているのか、明日に控える婚約パーティーが迫り緊張感が増したのか、おそらくその両方だろう。
「ソフトドリンクもあるからバーに行ってみる?」
「うん……」
当然のように握られる手に実感が増す。大々的な発表となれば、後戻りはできない。雪乃自身は少しも抱いていないが、微かに過ぎるのは彼にとって最良かという事だ。周囲からすれば分かりやすい程の溺愛っぷりだが、恋愛経験の乏しい雪乃にとっては未知数が大多数を占めていて、目前になって加速したともいえる。離れて過ごす四年間に不安がないといえば嘘だ。受験が終わった途端に会いたくなるほど、心を占める割合の大きさに気づかされ、一週間が長く感じたという自覚もある。
目の前に置かれたグラスに淡い赤色の液体が注がれていく。本家にあるバーでノンアルコールのカクテルを飲んだ経験はあるが、外では初めてだ。未成年が入店できない事もあるが、近距離で隣り合って座る事に慣れていないからだろう。お誘いは今までにも多々あったが、仕方なく応じたところで人目の多いホテルのラウンジが主流であった。
「……美味しいです……」
「よかった……雪乃はジンジャーエールを飲むから好みだと思ったんだ」
「ありがとうございます」
間接照明が中心の店内も二人きりだ。微かに流れる音色に反応を示し匠を見つめれば、彼も気づいたのだろう。穏やかな瞳と交わる。
「いい声してるよな」
「うん……この間、映画でも流れていました」
「あの曲もよかったな」
「うん」
共通の話題で盛り上がる仲睦まじいカップルに、バーテンダーがカウンター越しに微笑む。一流と接する機会の多い二人から見ても、シェイカーを振る動作一つとっても無駄がない。そもそも冬時が関わった人選に間違いはないと分かっているからこそ、申し訳なくも思う。たった二人だけのために今日は勤務しているのだから。
「……美味しかったです……ごちそうさまでした」
「いえ……また、お待ちしております」
『はい』
揃って応える姿は微笑ましい。
ただ匠にとっては気がきではない。何気なく口にした言葉でさえも、一瞬で虜にしてしまう。リップサービスに慣れているはずのバーテンダーでさえも、微かに表情が変わった一瞬に気づいていた。
腕を差し出され素直に触れれば、至近距離に染まる。貸し切りで助かったと安堵したのも揃ってだろう。
タイミングを計ったかのように匠のスマホが鳴れば、次の指令が待ち受けていた。
「ーーーー雪乃……部屋にエステティシャンが来てくれてるらしい」
「エステ、ですか……?」
「あぁー、今も綺麗だけどな」
耳元で囁く確信犯を見上げれば、嬉しそうに微笑まれ言葉に詰まる。砂糖をぎゅっと固めたような甘々な雰囲気だ。
「うっ……匠さんも受けるんですよね?」
「そう、みたいだな……」
無駄にあるツインベッドの部屋ではすでに準備が整えられ、アロマオイルのいい香りが漂っていた。
顔を見合わせ苦笑いを浮かべながらも素直に従う。パーティーの規模は理解しているし、用意されてしまえば断る理由はない。簡易のパテーションで仕切られベッドに横になれば顔だけが見え、安堵する分かりやすい雪乃がいた。
「雪乃さま、凝ってらっしゃいますね」
「気持ちいいです……」
香りだけでなくエステティシャンの手腕だろう。瞼が重くなる彼女を自身もマッサージを受けながら眺めていた。
「匠さま、お加減はよろしいですか?」
「あぁー」
フェイシャルケア中には無理だが、ボディーメンテ時は穏やかに会話をする二人に、手を動かしながらも微笑ましい視線が向けられていた。美男美女の仲睦まじい姿は、それだけで眼福である。
「ーーーーーーーー雪乃……」
自身の施術が終わり、声をかけても反応はない。
スタッフが退出すると、そっと抱き上げキングサイズのベッドがある部屋に移動した。
「…………婚約発表か……」
さらさらの髪にそっと触れ、明日に控えるパーティーに想いが巡る。公の場で婚約発表になれば、ある種の煩わしさから解放される一方で責任が伴う。望んでいた匠にとっては重圧すら心地よいのだろう。愛らしい寝顔に綻んでいた。
「……雪乃、おはよう……」
「……おはよう、ございます……」
アイスブルーの瞳が瞬き、勢いよく起き上がる雪乃に対し、彼は変わらずに微笑む。珍しく慌てた様子すら愛らしくて仕方がないようだ。
「……まだ九時だから、大丈夫だよ」
「あっ……はい……」
思わず敬語になる姿に、笑いを堪えるようにしながら頭を撫でる。染まっていく頬に何も感じない方が、どうかしているだろう。
愛おしそうに見つめられ、ますます染まっていく頬に触れられ、そっと瞼を閉じれば柔らかな感触が唇から離れていった。
「…………楽しみだな……」
「ーーーーっ、うん……」
至近距離にたじろぎながらも頷く。素直な反応を抱きしめられ、そっと背中に手が伸ばす。
「…………雪乃……」
向けられる視線と甘い声色に実感が湧く。婚約者として隣に立てる日が来たと。
「…………匠さん……」
どちらからともなく瞼を閉じれば、重なる唇から熱が帯びていった。