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*番外編* 味がしないみたいだ

第53話 匠視点のお話

 一人暮らしが十年にもなれば、広々とした部屋で一人きりで過ごす時間が圧倒的に多くて、それが普通だった。

 起業当初は寝に帰るだけの日々だったが、それがなくなってからだいぶ経つというのに…………たった七日だ。

 雪乃が海外で過ごす間、寂しさは募ると分かっていたはずだが、予行練習は散々だった。


 俺の婚約者は完璧なご令嬢で、作り置きされたタッパーが冷蔵庫に綺麗に並んでいた。

 一つずつ減っていく度、会える日が待ち遠しく感じた。

 こんな感情…………知らなかった。

 出来立てより劣るはずだが、どんな料理よりも雪乃の手料理が一番で……


 「……あと、二日か…………」


 思わず口にした本音に驚かずにはいられない。今までの彼からは想像できない姿だろう。彼女がいた事もある匠の振られる理由は大抵同じだった。


 『匠くんは……私のこと、そんなに好きじゃないよね?』

 『楽しみにしてたのに……』 『また仕事なの?』

 『なんで分かってくれないの?』


 同じだけの想いを返すのが恋愛なら、はっきり言って向いてない。

 人並みに性欲はあるし、フリーの時に告白されて流されるまま付き合った事もあるが…………毎回同じような理由で振られれば、さすがに自身の欠点にも気づく。

 夢に向かって何の迷いもない純粋な瞳には、久しく合ってない。

 誰でもじゃなくて、君じゃなきゃダメなんだ…………そう気づいた瞬間には、もう戻れなくなっていた。


 今更のように去来する過去は自身にとって碌なものではないが、自身が思うほど人でなしではない。少なくとも紳士的な彼は健在であり、本音を隠していただけだ。

 彼に告白してきた女性のほとんどが、彼よりも自身の方が大切であったに過ぎない。ただ当時の彼には自身のダメさ加減が浮き彫りになり、婚約者にも全てを告げる勇気は今のところないのである。


 珍しく口にしたウイスキーは極上の逸品であるはずだが、味気ない。彼女がそばにいないだけで色褪せて見える。

 実際には何ら変わりない生活を送り、社長業をそつなくこなす匠だが、自身の中で押し寄せる感情があった。


 気持ちを切り替えるべく早朝にジョギングをしたり、気晴らしにバーに立ち寄ったりと、今までならストレス発散になっていた行動は、ある程度の気分転換にはなっても心の底から晴れる事はなかった。だからこそ仕事を詰め込んだともいえる。


 「ーーーーーーーー匠さん……」


 一週間ぶりに会う彼女に揺れる。ドラマでいうなら感動の再会でキスを交わす場面だろう。実際には手を繋ぎ合うに留めた。見送りの時のように抱きしめようものなら、注目の的になったに違いない。撮影でもしているのかと勘違いする人が続出した事を思い出して、出そうになった溜め息を呑み込んだ。


 「雪乃、おかえり」

 「ーーーーっ、匠さん……ただいま……」


 手を握れば、ごく自然に握り返す姿が愛らしい。自身の入試を振り返り、帰国した時は観光を終えた後で、何処かすっきりしていた事を想い出す。

 

 「…………匠さん……」

 「ん?」

 「ちゃんと食べてる?」

 「あぁー、雪乃が作ってくれた料理は完食したよ。どれも美味しかった」

 「それなら、いいけど…………」


 納得していない横顔に、朝食を抜いていた日々があった事を見抜かれた気がした。


 たった一食だが、朝は用意するのが面倒でコーヒーで済ませる事が多いし……実際、雪乃と暮らし始めるまでの仕事のある日の朝食は、コーヒーオンリーの日々の方が圧倒的だった。

 健診で引っかかった事はないが、栄養を摂るように牛乳を足した事くらいはある。


 「弁当も作ってくれたのか?」 

 「うん……よかったら食べてね」


 遠慮がちでも、俺のことを気づかって用意してくれたと分かる。

 目の前に並ぶ朝食も具沢山なミネストローネが置かれているし、一緒に買いに行った事のあるパン屋のクロワッサンもある。


 「あぁー、昼が楽しみだな」


 綻ばずにはいられない。

 島崎に見られたら、『ニヤけてますよ』と、突っ込まれかねないけど…………仕方ないだろ? 

 雪乃が、俺の為に用意してくれたんだから…………


 案の定、昼に島崎から突っ込まれた。


 「さすが雪乃様ですね……彩りだけでなく、栄養バランスも完璧じゃないですか」

 「あぁー……」


 完璧なご令嬢は、きっと俺でなくても結婚相手には困らない。

 無理やり感は今更ながら否めないが、それでも一緒に歩んでいきたいと思ったんだ。

 多少強引な手を使ってでも、どうしても一緒にいたかったんだ…………


 口にすれば優しい味がして食欲が進む。そばにいない間は、あれほど億劫だった食事も今は違うのだろう。きちんと取る姿に秘書が安堵したのはいうまでもない。雪乃だけでなく島崎に分かるほどの顔色の悪さが、一気に緩和されていくようだった。


 再開した二人での暮らしは快適だ。

 指摘されるまでもなく、自身の潔癖は理解していた。

 たとえ恋人であっても踏み込んで欲しくない領域があったのは事実で、自宅に招いたのは春翔くらいだった。

 幸いホテルで過ごす財力はあったし、わざわざテリトリーに招いてまで親しくなりたいと思う事もなかった。


 「おかえりなさい」

 「……ただいま…………」


 玄関先まで出迎えた雪乃に綻ばずにいられず思わず抱きしめれば、硬直しながらも背中に伸びた手が愛おしい。


 「……匠さん、お疲れさまです」

 「お疲れさま、雪乃」


 穏やかに微笑む婚約者の額に唇を寄せれば、分かりやすく染まる姿に綻ぶ。

 習慣になりつつある『いってらっしゃい』のキスも、匠にとっては役得だが、雪乃にとっては緊張の場面だ。ポーカーフェイスを発揮しながらも、さすがに染まる頬までは抑えられない。


 耳元で囁けば分かりやすい反応だし、本当…………敵わないな……


 独占欲の強さを改めて実感し、返される言葉とまっすぐに向けられる瞳にすら鳴る。


 「美味しい……」

 「よかった……しっかり食べてね?」

 「あぁー……」


 自身の無頓着さが明るみになり苦笑いだ。


 雪乃に心配させるのは不本意だが、気づかわれるのは……居心地がよかったりする。

 料理の品数や野菜が多めのメニューからも、体調を心配していると分かるし、随所に見られる優しさの溢れる言葉にも偽りがないと感じる。

 雪乃の本心だと分かるからこそ鳴らないわけがないし、惚れない方がどうかしているだろ?


 二人での食事の時間さえも、かけがえのないモノの一つになっていた。

 適温でテーブルに並ぶ料理はどれも絶品で、雪乃の貴重なエプロン姿が見れるのも婚約者の特権である。


 「匠さん、座ってていいよ?」

 「いや、二人でやった方が早いだろ?」

 「う、うん……」


 至近距離で伝えれば、素直に頷く姿に綻ぶ。並んで片付ければキッチンは元通り綺麗になり、ソファーに揃って腰掛けた。


 「ショートブレッド食べる?」

 「あぁー、紅茶も買ってきてたんだっけ」

 「うん、淹れてくるね」


 些細な事に笑みをみせ、再会した当初とは正反対だ。作りモノではない笑顔は想像以上である。


 「ーーーーーーーー本当、可愛いな……」


 自身から漏れ出る本音に驚きはないが、楽しそうに紅茶を淹れる姿にすら鳴る。

 上質な茶葉の香りと共に、隣に座った婚約者から向けられる眼差しは穏やかだ。


 「…………美味しい……」

 「よかった……」


 外食が味気なく感じた事なんてなかったはずなのに、雪乃がいなかっただけであまり美味しいと思えなくなっていたんだ。


 「……珍しい形だな」

 「うん、限定みたいだよ」

 「そうか……」


 弾む笑顔に高校生らしさが垣間見える。スコティッシュテリア型を頭から食べれば、バターのいい香りが口腔内に広がっていった。


 散々な予行練習だったが、離れて実感する事もあった。

 もう君なしじゃいられないこと。


 「雪乃……」


 アイスブルーの瞳が微かに揺れる。悪い大人が顔を出し、ぴったりと寄り添うように腰掛ければ、染まっていく頬に綻ばずにはいられない。


 「ーーーー匠さん……わざとですね?」

 「バレたか」

 「もう……」


 上目遣いで見つめられれば、落ちない人はいないだろう。


 冗談を言い合えるほどに仲が深まっていると自覚する大人な匠も、穏やかな彼女には敵わない。愛想笑いと感じさせる事なく微笑む姿は幼い頃と変わらずに健在であり、彼女の努力の賜物だ。


 「…………匠さん?」

 「ん?」


 どうやら思考が停止していたらしいが、上目遣いで小首をかしげるあざとさは天然気味な雪乃ならではだ。 

 春翔と幼馴染が守ってきたとはいえ、今までよく無事だったな……


 「雪乃、週末は出かけような?」

 「うん」


 花が満開に咲き誇る瞬間は、間違いなく彼を虜にしていた。それこそ味覚までも狂わせるほどに。


 …………もう一人だった頃には戻れそうにない。


 ふわりと唇に触れれば、分かりやすく染まっていく婚約者に微笑む。そばにいる幸せを噛みしめながら。

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