第57話 プラトニックな恋模様
車窓から手を振るスーツ姿の匠に対し、雪乃は制服姿だ。とはいえコートを着込んでいる為、学生らしさはコートから見えるスカートと鞄にローファーくらいだろう。
「明日、楽しみにしてるね♡」
「うん!」
愛理たちに手を振り、助手席に乗り込むと、スムーズにハンドルが切られる。
「近くのスーパーでいい? 肉は頼んだよ」
「ありがとう……」
肉好きな面子が揃う為、メインメニューはローストビーフに即決した。他にはガーリックシュリンプやグリーンサラダにローストポテト、カルパッチョやグラタン等の親友や兄夫婦好みのラインナップだ。
春翔たちの為に匠がワインを選び、雪乃が新鮮な食材を入れていけば、カゴはすぐに埋まっていった。
「買い忘れはないかな……」
スマホを見ながら確認する雪乃の手は取られ、カートに引き寄せられる。さすがの集中力だが、スーパーでまで発揮されては匠の身が持たない。
「雪乃、ブラックペッパーが少ないんじゃなかったか?」
「あっ、そうだった……」
二人の会話で同棲していると簡単に想像がつくだろう。ただそこまで聞き耳を立てているとは思えないが、彼女に限ってはあり得る事だと結論付けた。今も手を取らなければ親切心を装って、話しかけようとしてた二人組が視界に入っていた。
彼女の愛らしさには同意するが、ここまで引き寄せなくともと、嘆きたくはなる。匠が一緒にいる時はないが、一人になる場面がない訳ではない。あっさり引いてくれる輩なら救いだが、夏のような出来事は勘弁である。いくらボディーガードが陰にいるとはいえ、犯罪域に入らない限り手出しする事はないのだ。
目当ての物を手に楽しそうな横顔に釣られるが、内心は気がきではない。思わず手を握り、明らかに牽制するくらいだ。
一瞬驚きながらも微笑まれれば、言葉を呑み込むしかない。見惚れているであろう人々を回避すべく、手を引かれて戻ったと、雪乃が知る由もない。
家で揃って夕飯をとり、早々と片付けを済ませ、下準備にとりかかる。
「ーーーーあ……」
「……匠さん?」
シャッター音に振り向けば、スマホを片手に同じくエプロン姿の匠がいた。
「可愛くて、つい……」
「もう……それなら、一緒に撮りたいよ」
「あぁー」
色違いのエプロンを同じタイミングで着る機会は少ない。普段は雪乃が夕飯を作る事が多いからだが、マグカップだけでなくお揃いはいくつもあった。
スマホを片手に近づく婚約者に珍しいと感じながらも、快く収まる。自身の撮った雪乃は愛らしいが、寄り添って入り込む姿は眼福だろう。そっと触れる白い手に、言い難い感情が込み上げていても何ら不思議はないが、ただ甘い雰囲気になる事はなく、雪乃が真面目さを発揮して調理が進んでいく。
「雪乃、これも切っていい?」
「うん、みじん切りでお願いします」
味付けのほとんどは彼女だが、時折差し出されるスプーンに頬が緩む。
本人達に自覚がなくとも、十分に甘い時間が流れていた。並んでキッチンに立つ二人は、どこから見ても愛し合う夫婦である。
「匠さん、上手だね」
「そう? 雪乃ほどじゃないけどね」
「そんなことないよ……この間のシチュー、とっても美味しかったよ」
「それはよかった……また作る?」
「うん、今度は一緒に作りたいね」
「そうだね」
想像しただけで楽しい。そう二人が感じたのは言うまでもない。今の下準備ですら楽しいのだから、調理時間が長ければ話もその分できるというものだ。
ただし手際の良さが難点だろう。下準備は一時間も経たずに終わり、雪乃がお風呂を促す形で終了となった。
いつもは先に入る事の多い彼女なりの気遣いだろう。仕事終わりに寄った為、早く疲れをとって欲しいと思っている事は、一目瞭然であるし、彼は気づかないほど鈍感ではない。素直に従えば、柔らかな笑顔に惹かれそうになりながらも、浴室に向かう匠の姿があった。
「……………………喜んでくれるかな……」
一人きりになるなりスマホを取り出して思わず呟く。その画面には明日の配送が指定されていた。ホームパーティーの許可が下りた日から考えていた事で、幼馴染と兄夫婦には根回し済みだ。雪乃らしくないと言えば、らしくないかもしれないが、慣れない事をしてでも彼を喜ばせたい想いが強かったのだろう。
続いて浴室から出れば、匠が珍しいグラスを片手にパソコンと向き合っていた。
「いい香りでした……」
「よかった……雪乃がすきそうだと思ったんだ」
「ありがとう」
綻ぶ笑顔に湯上がりの上気した頬が相まって、抜群の破壊力だ。珍しく口にしたウイスキーを零すまでには至らなくとも、氷が揺れ微かにグラスの音を響かせる。
「ーーーーお仕事?」
「そんなところ……雪乃、おいで?」
素直に頷き隣に寄り添えば、ドライヤーの音が響く。毎日とはいかなくとも習慣化されていた。特に週末前後に見られ、スキンシップにも効果的だが、そんな婚約者の策略に雪乃が気づく事はない。ただ彼女にとっても大切な時間である事は確かだ。彼が触れる度に高鳴りながらも、居心地の良さがあり離れられそうにない。
「ーーーーーーーー綺麗な髪だな」
「そうかな……匠さんも綺麗な髪だよ?」
「ありがとう……」
いつもなら微妙な反応のはずが、婚約者からだと居心地がいい。匠も満更ではない様子がその表情からも分かる。
珍しくお酒を飲む姿は絵になり眺めていたくなるが、貴重なオフショットはいつも彼によって遮られる。そばにいられる幸せを感じながらも、もう少し眺めていたかったとも思う。相反する自身の感情に戸惑いながらも、彼のそばが一番であると改めて感じるひと時だ。
微かに速まる心音が、自身と同じ想いであると告げているかのように響く。
頬に触れる手が合図になったかのように瞼を閉じれば、柔らかな唇と重なる。徐々に深くなる口付けに瞼を開ければ、いつもより熱っぽい婚約者の顔が間近にあり、一気に真っ赤に染まる。頭の回転が速い雪乃であっても、ソファーに押し倒された状況を把握するのに時間を要した。
「ーーーーっ、あ、あの……」
「ん?」
組み敷かれているものの拘束された訳でも、無理やり押し倒された訳でもない。敢えていうなら、そうなるように仕向けられたが近いだろう。ただ目の前に迫る彼に思考回路がショート気味な雪乃がそれに気づく事はないし、匠が表情に出す事もない。
愛おしそうに見つめられれば、それ以上は言葉にならない。言葉の代わりに彼にそっと抱きつけば、予想外の反応にたじろいだのは匠の方であった。
「ーーーーっ!!」
「……………………匠さん……」
上目遣いの潤んだ瞳は彼の過失であり、お風呂上がりが理由にはならない。吸い寄せられるように胸元に唇を寄せれば、甘い声が耳元で響く。
自身から発した言葉に驚き、視線が交われば悪い顔に気づくが手遅れだ。声を聴きたさに攻められていると自覚するが、時はすでに遅し。啄むような可愛らしい口付けに大人な色香が混ざる。本気で抵抗しない彼女に慣れるように宣言したのは匠だが、簡単に手を出せる想いではなかった。本物に変わるまで長い年月を要したのだから、卒業まで待つ事も苦ではないと高を括っていたが、実際は苦行のような日々もあったといえるだろう。
そばにいるのにこれ以上触れる事のできないもどかしさが押し寄せる。深くなる口付けに難なく応えてくれるようになった婚約者の成長は喜ばしい反面、先に進みたくなる衝動を抑えなくてはならない。染まりながらも応える愛らしい反応に削られながらも、思い切り抱きつくことで留まる。
「……………………匠さん?」
「……雪乃…………」
耳元で囁かれ、驚きながらも小さく頷けば、さらに熱の籠った腕に抱きしめられる。胸元から聞こえる速度は自身と同じく早鐘のように鳴っている。
「……明日は楽しみだな?」
「うん!」
綻びながらも自身の変化を分かっていた。抱きしめてもらうだけで満足していた頃にはもう戻れない。彼が留まらなかったなら受け入れていたと気づき、また染まっていく。
可愛らしい頬に柔らかな感触が離れ、ふわりと横抱きにされたかと思えばベットの上だ。微かなアルコールの香りに酔ったのかすぐに眠りにつく雪乃に対し、自身の腕の中にいる婚約者に視線を向ける匠がいた。
「ーーーーーーーー敵わないな……」
さらさらの髪を撫でながら漏らした本音だ。基本スペックの高い彼女だからこそ、何でも器用に卒なくこなす。料理の下準備にしても一人で出来たはずだが、敢えて二人で行った。時短的な意味合いも少しはあるが、大まかな理由は片時も離れたくないからだ。少しの隙間もなく側にいられるなら、それが一番かもしれないと、少し狂気じみた想いに気づき溜め息である。
何も知らずに眠る婚約者は柔らかで、甘い香りがほのかに鼻を掠める。込み上げる熱に気づかない振りをして、明日が楽しい時間であるようにと、想い描きながら眠りについた。