第50話 ひと時の休息
キッチンからシチューのいい香りが漂っているが、雪乃が調理しているわけではない。彼女の目の前にあるローテーブルには、分厚い辞書や参考書が広がり、黙々と解いている。
「ーーーー雪乃、昼にするよ?」
「う、うん……」
「こっちに座ってね」
手を取られ、ダイニングテーブルの椅子を引かれ、座るように促される。素直に従った雪乃は、ランチョンマットの敷かれたテーブルに視線を移した。
「……美味しそう」
「雪乃の口に合うといいけどな」
「ありがとう……いただきます……」
シチューを口に運べば、コクのある旨味が広がり頬が緩む。
「美味しい……」
「よかった……久しぶりに作ったから、少し心配だったんだ」
「そうなの?」
「あぁー、雪乃が作ってくれるのが殆どだからね」
「そんなことないよ、ありがとう……」
雪乃は早朝の一時間ほど執筆作業にあてていたが、朝食を終えてからはずっと受験勉強に勤しんでいた。さすがの集中力としか言いようがない。
今も昼食を促さなければ、まだ勉強していただろう。あと数週間で此処を離れる現実が近づいていた。
「空港には見送りに行くから」
「ーーーーいいの?」
「あぁー、俺が行きたいんだよ」
「うん……ありがとう……」
現地で試験が行われる為、数日間家を空ける事になる。同棲を始めてからというもの、毎日のように食事を共にしてきた。ほとんどが雪乃の手料理であったが、匠にとっては癒しの時間にもなっていた。
どんなに疲れて帰っても、温かく迎えてくれる人がいる。それだけで救われていた。多少の無理をしてでも、彼女との時間を確保したかったくらいである。寂しさが募るのは、なにも雪乃に限った事ではないのだ。
「着替えておいで」
「うん」
素直に頷き、洗い物を匠に託して部屋に戻れば、ハンガーラックに真新しいワンピースがかかっている。
「ーーーーこれを着て……ってこと、だよね……」
総レースの淡い色のワンピースは、色白な彼女に似合うと想像がつく。また彼が可愛いらしい服を着せたがる趣向も分かるデザインだ。
鏡の前で身だしなみを整えて戻れば、柔らかに微笑まれ落ち着かない様子が見てとれる。
「匠さん……」
「やっぱり似合うな……」
「ありがとう……いつの間に用意したの?」
「ん、内緒」
悪戯な笑みに驚いてる場合ではない。彼もいつものデートにしては珍しくジャケットまで着込んでいた。
「買い物に付き合ってね」
「う、うん……」
手を取られ、綺麗に片付いたキッチンを横目にエントランスまで向かえば、駐車場にあるはずの自家用車が用意されていた。
「今日は俺に時間をくれる約束だろ?」
「う、うん……」
デジャブ感の否めない高級店に辿り着き、促されるままVIP専用ルームに通される。
すでに新作と思われる服がハンガーラックにかかり用意されていた。この間もこんなことがあったじゃない! と、心の中で叫んだところで無駄だ。婚約者が嬉々として選んでいると明白である。
「……………………匠さん……」
「ん? まずはこれからね」
当たり前のように服を手渡され、イヤな予感の的中に溜め息が出そうだ。
「…………散財しないで下さいね?」
「してないけど?」
悪びれた様子は清々しい程に一切ない。知っていたとはいえ、兄と同じく着飾る事に余念がないようだ。
素直に受けとれば、着替える度に一人ファッションショーの開幕である。
「ーーーー似合うな」
「……ありがとうございます……」
恥じらったように頬を染めて応える姿が愛らしい。二人きりという事もあり、写真を撮るのにも遠慮がない。
匠のスマホには、すでに雪乃専用のフォルダーがあるほどだ。
「匠さん……」
「ん?」
「……ここって…………」
すでに車の後部座席はショップの袋の山であるが、また促されるまま違う店内に入っていく。
店員に案内されるまま奥に進めば、あらかじめ用意したであろう指輪が並んでいた。
「雪乃はどんなのがいい?」
「指輪……もらってるよ?」
「それは俺が選んだやつだから。雪乃の好みが知りたいんだよ」
すでに薬指を輝かせる指輪ではなく、結婚指輪のリサーチも兼ねての来店である。
受験が終われば自身がそうであったように、海外を行き来する日が続く。それに加えて婚約発表もあり、選んでいる時間が減ると聞かされても、結婚指輪を選ぶには早すぎると感じていた。少なくとも籍を入れるのは、大学卒業後の三年後であると、雪乃自身は思っているからだ。
「オーダーしたいから」
「うん……」
素直に頷くあたり心得ている。店員のいる前で揉める事はない。
値札がない物を見た事がある雪乃でも緊張が走る。自身の指で試される度に、素人から見ても良質なダイヤモンドであると分かるほどの大きさで光り輝いているからだ。
「普段使いだと……この辺とか、雪乃がすきそう」
「うん……」
言い当てられ内心では驚く雪乃も、そこまで表情には出ていない。ただ匠にとっては分かりやすい反応であった。
「これをベースにして貰えますか?」
「かしこまりました」
高額だからと遠慮する素振りよりも、ただ婚約者とのペアリングを喜ぶ仕草が愛らしい。
「仕上がりが楽しみだな」
「うん」
綻んだ表情に店員が見惚れていたのは言うまでもない。著名人と接する機会の多い、VIP担当の彼女でさえも虜にしていたのだ。
繋がれた手に導かれるまま歩く雪乃は、これからの事を考える度に押し寄せてくる漠然とした不安を見透かされた気がしていた。そのカンは正しく、彼が見誤ることは少ないだろう。
「ここのケーキ、雪乃もすきだろ?」
「うん」
幼馴染とも訪れた事のある一流ホテルのラウンジに入った途端に、英会話レッスンが始まった。
「Which do you like a cake?」
「Unn…………」
なんの抵抗もなく返す姿は流石である。
勉強ができる事も、頭の回転の速さも知っていたが、それでも実際に流暢に話す言葉を聞く機会は少ない。
曖昧な応えが少ない英語に、雪乃の本音が漏れる。先ほどの結婚指輪もだが、買い物の量だ。車に積んで帰る事で少し減らされたが、それでも十着以上はあった。
「よく利用するの?」
「打ち合わせで、たまにね」
「そうなんだ……」
穏やかなまま英会話を交わし、ゆったりとした時間が流れていたが、急に引き戻される。
「あっ、一條さん! こんな所でお会いできるなんて……」
「……お久しぶりですね、三井さん」
タイトな服が豊満なバストラインを強調しているだろう。日本人離れした顔立ちの彼女は、自身の武器を知っているようだ。
「あの、そちらの方は?」
「あぁー、お会いするのは初めてでしたか……」
左手を取られ、匠が見せつけるように唇を寄せれば、顔を赤らめる。
「……近いうちに……ご紹介する機会があると思いますので」
「は、はい!」
そそくさと去っていく彼女に、先に溜め息を吐いたのは匠だ。
「ーーーー雪乃、真っ赤……」
「匠さんのせい……です……」
声を抑えて笑う彼は、雪乃が知る学生の頃のような表情だ。
「早く公言したいな」
「もう日程は決まったでしょ?」
「あぁー、そのうち招待状が届けば絡まれる事もなくなるさ」
「うん……」
「少しは妬いた?」
「うん…………妬くよ? 美人さんだったし……」
「雪乃ほどじゃないよ」
「!!」
耳元で囁く確信犯は嬉しそうに微笑んでいる。その表情を見れば、言葉に詰まり反論はできない。
「今日はドレスアップした雪乃も見れて、楽しかったな」
「ーーーーーーーー私も……匠さんとデートができて、嬉しかったです……」
照れると敬語に戻る率が高くなると、この数ヶ月で学んだ匠は、ハンドルを握りながら頬を緩ませた。
「雪乃なら大丈夫だよ」
「うん……ありがとう…………」
自分を信じて進む事は意外と難しい。小説家として活躍する雪乃は身をもって知っていた。それでも試すために、少しでも今の自分を変えたくて、受験すると決めたこと自体に後悔はない。ただ彼と離れる事が、自身で感じていたよりもずっと寂しく感じていたのだ。
ーーーーーーーー自身の気持ちすら、ままならないなんて…………
「…………匠さんには、分かってたんですよね……」
「あぁー……雪乃なら、超えられるよ」
「うん……」
押し寄せる不安は自信がないからだと、自身にも分かっていた。感情のコントロールに長けていたからこそ、本音を語る事は少なかった。彼に出逢うまでは。
「夜は南蛮漬けだろ?」
「うん……冷蔵庫にあったの分かった?」
「あぁー、美味しそうだった」
「ありがとう」
ラウンジと変わらずに英会話を続ける。その内容は婚約者らしいというよりも、妻に近いものに変わっていた。