第45話 モディファイ
年末の騒動から一変して穏やかな日々を送っていたが、今もある意味では騒々しい。
『雪ちゃん、ちゃんと着れる?』
「大丈夫だから……」
雪乃の目の前には実家からの届け物である着物が並ぶ。
通話を終えると、深い溜め息が漏れ出る。
「ただいま」
「おかえりなさい……」
「どうした?」
些細な表情の違いに気づいたのだろう。ネクタイを緩めながら気遣うが見当はつく。リビングには着物が幾つも広げられていた。
「俺はこの桜色がいいかな」
「ーーーー匠さん……言いましたね?」
「あぁー」
いくつも並ぶ着物はほぼピンク系の色合いである。カンの良い雪乃が分からないはずがない。
溜め息を呑み込み自身で着付けるが、手慣れたものでプロ顔負けの仕上がりだ。
「ーーーー綺麗だな……」
思わず漏らす本音に染まり、顔を背ける。ストレートな物言いは以前からあったが、婚約者になってから頻度は高くなる一方だ。こうして頬を赤らめる場面も多々あるが、二人の時限定である。雪乃のポーカーフェイスも、公式発表前の婚約という事もあり、家の中に限るが、逃げ場がない場所では分が悪い感は否めない。
「…………これにしますか?」
「全部、着てみて?」
「ーーーーご飯、食べたら考えます」
思わず敬語になるが、匠は楽しそうな笑みを浮かべたままだ。いくら着付けが出来るとはいえ、十着はあろう着物を全て着るのは遠慮したい。それが雪乃の本音だろう。
「美味しい」
「……ありがとう」
素直な反応は年相応に映るが、彼の前だけでだろう。人目がある場所では、それなりの行動が求められる事を幼少期からすでに理解していた。
「俺が洗うから、雪乃は着付ね」
「うん……」
キッチンから追いやられリビングに並んだ着物に手を伸ばす。着るたびに写真を撮りたがる為、髪も綺麗にアップにしていた。雪乃的には簡易の装いであるが、側から見れば十分に整っている。
「器用だな」
「そうかな? 匠さんは、どれが良かった?」
「全部」
笑顔で即答され、ジト目で睨んで見せても効果はなく、さらに笑みを深められるだけだ。
「色白だから、どれも似合うな……」
そう言って着物をあてる彼が選んだのは、雪乃が一番最初に着たものだ。淡いピンク地に桜の花があしらわれた上品な仕上がりの着物だ。
「うん、今回はこれかな」
「……うん……」
急に距離が縮まり、微かに染まる。意図しない反応に匠は頬を緩ませる。
「…………匠さん……」
「ん?」
「着替えたいんですけど……」
抱きしめられ身動きが取れない。見上げる瞳に衝動的になりそうだが、彼は距離感の良さを保ったままだ。
「…………匠さん?」
首を傾げる仕草にやられっぱなしだが、雪乃が気づく気配はない。むしろ敬語になってしまうほど心音が忙しない。
「ーーーー離れがたいな」
「えっ?」
「いや……正月は実家にも顔を出すけど、大丈夫?」
「うん、お二人ともご健勝ですか?」
「あぁー」
揃って無言になり、風呂に入るよう促される。ある意味いつもの流れではあるが、胸に微かに残る違和感が雪乃にはあった。
ーーーーーーーー誤魔化された?
勘の良さを発揮しても、その理由までは分からない。恋愛らしい事をしてこなかったツケだろう。
顔半分を浴槽につけ、ぶくぶくと音を出して気を紛らわせた所で現状が変わる訳ではない。
ストレートな好意を向けられた事はあるが、自身が想いを寄せる相手からは初めてに等しい。幼い頃から社長令嬢として見られてきた彼女は、自身の家が普通ではない事を理解しているが、幼い頃はそれが普通だったのだ。大人が頭を下げ、媚を売る姿は異様であった。
少なくとも幼馴染との出会いもパーティーだ。藤宮家が主催しなくとも招待状は山のように届いた。藤宮家と繋がりを持ちたい者は多く、現社長の春翔ですら辟易する程である。
「お先しました……」
そっとソファーに近寄れば、珍しい彼の寝顔だ。
「…………お疲れだよね」
年末の決算で忙しいことは知っていた。小規模とはいえ彼も社長なのだ。春翔のように忙しくとも不思議はない。
ただそう見えないように立ち回っていたのだと気づく。よく見れば目の下にはうっすらとクマが出来ている。
自室から取ってきたブランケットをそっと被せ、隣に座りノートパソコンを立ち上げる。一人で寝室に行く気にはなれず執筆していく。スムーズに動く指先に迷いはない。受験勉強が一番ではあるが、執筆も彼女にとっては大切なモノに変わりはない。ルーティンではあるが、彼の側にいたかったのだろう。無意識に腰を下ろしていた。
キーボードを打ちながら視線を移す。少し幼く見える寝顔に何度となく頬を緩ませ、違和感の正体に気づく。
ーーーーーーーー私が……触れたかったんだ…………
離れていった手を掴みたくなった。愛理お薦めの漫画や小説などの本の知識しかない雪乃だが、キスだけでは足りなくなっていたのだ。
はじめての感情に戸惑いながらも上気する頬は、匠が起きていたなら喜んで抱きしめ返す場面だろう。
「…………お疲れさまです……」
そっと頬に唇を寄せる。勝手に動いた自身に驚きながらも、温かさが広がっていく事に気づく。芽生えた想いに染まれば、視線が交わる。
「ーーーーっ!! お、起きてたんですか?!」
「いや……今、起きた……」
分かりやすい反応にいたずら心が湧きながらも控える。初々しい反応が彼にまで移ったようだ。
「……雪乃、ありがとう……」
「…………………ずるい……です……」
距離を詰められ、行き場を失った雪乃は腕の中に収まる。
「……匠さん…………」
上目遣いの破壊力にやられ、視線を逸らす事もできず強く抱き寄せる。
「…………初めてだな……」
「えっ?」
「……雪乃からしてくれたの」
「!!」
染まった頬に手が伸び、触れるだけの口づけが離れていく。間近にある緩んだ彼と視線を合わせられない。心音が忙しなく、言葉に詰まる。
「……もう一回」
甘い声に真っ赤な顔を埋めれば、同じような速度の音に気づく。雪乃だけが早鐘のように鳴っている訳ではないのだ。
さすがに攻めすぎたと反省する匠を他所に、柔らかな唇が触れ合う。雪乃が見上げれば、同じように染まった彼が目を見開いていた。
「ーーーーーーーー匠さん?」
「……いつの間に……覚えたんだ?」
「えっ?」
「いや…………雪乃……」
顎に触れられ、小さく開いた口から熱い想いまで伝わっていくようだ。
「…………んっ、匠さん……」
漏れ出る甘い囁きに理性を働かせる。強引な真似をして怖がらせる事は匠にとっても不本意だ。
「ーーーー入ってくるな? 先に寝てて良いから」
「…………うん」
頭に触れ、離れていく後ろ姿に言いようのない感情が込み上げていた。
「…………さすがの集中力だな」
風呂上がりの匠がそう呟くのも無理はない。雪乃が彼に気づく気配はなく、パソコンと向き合っていた。同棲してから何度となく遭遇しているが、最近はその比率が高い。自室ではなくリビングのソファーで執筆を行なっているからだ。
最小限に留めていても、水を注ぐ音を打ち消す事はできない。テレビもついていない室内にも関わらず、画面に集中している様子だ。切り上げるようにかけたアラームで、ようやく彼に気づいたくらいだ。
「ーーーー匠さん……」
「お疲れさま、そろそろ寝室に行く?」
「うん……」
驚いた表情を微笑まれ、些細なことに反応を示す。感情を抑える事が得意な雪乃も芽生え始めた感情に振り回されていた。
揃って同じベッドで就寝だ。いつもは寝つきのいい雪乃も今日は目が冴えている。パソコンを使っていた事が理由にはならないと、自身も分かっていた。
「ーーーーーーーー匠さん……」
「どうした?」
「……いえ…………」
足元の間接照明だけで殆ど真っ暗な中、隣から熱を感じる。手を伸ばせば届く距離に、幼い頃の遠い存在だった彼の隣にいる現実に染まる。
「……おやすみなさい……」
「おやすみ……」
雪乃以上に溜め息を呑み込んだであろう匠は、柔らかな髪に手を伸ばした。婚約者の変化に気づかないはずがない。自身に追いつきつつある感情が嬉しくないわけは無い。許されるなら抱き寄せて眠っていただろう。
冬時との約束を守るせいで不安にさせる事は不本意であり、限界も近い。
無防備な寝顔にそっと唇を寄せる匠にとって、愛でてから眠る事が習慣になっていた。