第38話 追跡と幼馴染と
ガラス張りの扉からリビングへ戻ると、匠が電話を手短に切った。
「ーーーーお先しました……」
「あぁー、俺も入ってくるよ」
「うん」
乾かしたばかりの髪から甘い香りを漂わせ、ラフな部屋着に身を包んだ雪乃は、違和感を覚えながらも口にする事なく炭酸水を飲み干した。
ソファーに腰掛け、指先をスムーズに動かす。長考した事もあり活字に迷いはない。
「はぁーーーー……」
いつもなら一日中でも書いていられる雪乃だが、脳裏に過る彼に指先が止まる。思わず吐いた溜め息にも、背後にいた彼にも気づかない。
「ーーーーっ?!」
声を出す間もなく背中から感じる熱に染まり、首元に近づくシャンプーの香りが心音を加速させる。
「…………匠さん?」
「今日……何かあっただろ?」
「…………聞いたの?」
「あぁー……でも、聞かなくても分かるよ」
「えっ?」
間近で視線が交わり、真っ赤に染まった頬に優しい手が触れる。
「珍しく落ち込んでいたから」
「…………そんなこと」
「あるだろ?」
「……………………はい……」
あっさりと認める雪乃に、温かな眼差しが向けられる。
隣に座り直した匠に肩を抱き寄せられ、高鳴る鼓動に落ち着きを取り戻していく。耳元で響く音は雪乃と変わりないのだ。
「……彼は、昔はもっと優しい子だったと……」
「そうか……」
「……花山院偀が……」
「あぁー……一人にならないでくれ」
「うん……」
花山院家の現当主である次男の偀の動向には、不可解な点が多い。三男の司は彼にとって捨て駒の一つのような気さえしていた。
集中力が欠け、匠の温もりに安堵したのだろう。雪乃が寝落ちするのにそう時間はかからなかった。
「ーーーーーーーー花山院か……」
栗色の瞳が揺れ、ベッドに横たわる白い頬に触れる。
「…………無謀な事を……」
思わず本音が漏れ、花山院が行おうとしている無謀な悪あがきに溜め息を吐いた。
目覚めがいいと自負している雪乃だが、ソファーで話した後の記憶がない。それもそのはず寝落ちしたのだから、寝室に行った記憶がないのは当たり前である。
小さな寝息を立てる婚約者に布団をかけ直し、静かにキッチンへ向かう。
休みの日は匠が朝食を用意する事もあるが、平日にキッチンに立つのは雪乃がメインだ。
週一程度でシズの料理レッスンという名の花嫁修行が折り込まれているが、雪乃の腕も並以上のため新たに教える事はなく、楽しく調理する感じだ。シズにとっては孫娘と楽しむ感覚であり、雪乃にとっても第二の祖母と接するような感覚だ。
手早く用意したのは、スクランブルエッグやサラダにバゲット等の洋食だが、背後からピピッ、ピピッと、音がする。炊飯器を開ければ白米のいい香りが漂う。
匂いに釣られるかのようにリビングに顔を出した匠は、テーブルに用意された二人分のお弁当と朝食に頬が緩む。
今まで一人暮らしをしていた匠にとって、手作り弁当は馴染みがない。彩り良く詰められた弁当は宝箱のようだと、些細な事にもセンスの良さを感じているとは、雪乃は少しも思っていないようだ。毎回のように綺麗になって帰ってくる弁当箱に、笑みが溢れていた。
「おはよう、雪乃」
「……おはよう……」
何とか敬語になるのを踏み止まり、パジャマ姿のままの彼に微笑む。起き抜けの隙のある彼は、雪乃だけが知っている姿だろう。
向き合って朝食を終えると、スーツに着替えて出社する匠を見送るのが平日のルーティンだ。
「あーーーー……」
「匠さん……そろそろ……」
玄関先で名残惜しそうに抱きしめられた雪乃も、声を上げた匠に名残惜しそうに手を振る。
彼のスマホには秘書からの着信があった。分刻みで動く事もある匠を催促する島崎に心の中で謝りながらも、腕の中からの脱出はなかなか困難である。
「……いってらっしゃい」
「ん、いってきます」
一瞬だけ触れた唇に頬が熱くなり、ますます後ろ髪を引かれながらも出社する匠に対し、熱を持て余す。朝の甘いやり取りは健在であり、その度に染まる反応見たさに触れているのもあるだろう。雪乃自身もスキンシップの多さに嘆く事はなく、微笑んでいた。
「…………花山院か……」
一人きりになり思わず漏らす。思い返してみて、その片鱗があったとしても、あそこまで酷くはなかった。少なくとも話が通じないという事はなかった筈だ。
暗くなる気分を払拭するように首を振り、ノートパソコンを鞄に詰め込んで家を出た。細心の注意は払っている為、この間のように視線を感じる事はなく、学校まで辿り着いた。というのも、送迎されているからだ。いつもなら徒歩で向かう距離を今日は兄が付き添っている。
「ーーーー春兄、ありがとう」
「いや、無理するなよ? 匠を頼れよ?」
「うん……」
曖昧に微笑む雪乃が煩わせたくないと、思っている事は一目瞭然である。聞かれれば応えるが、自ら話したりはしないだろう。昨夜のように匠が聞かなければ黙っているつもりだ。
藤宮の影響力は絶大であると、雪乃自身も解っているからこその沈黙であると至りながらも、春翔は気がきでない。予測不能な事態はあるが、仕事とは違い溺愛する妹の事だ。多少過剰になっても仕方がないと、少なくとも幼馴染はそう思っていた。
「おはようございます♡」
「おはよう、みんな気をつけてな」
『はい』
揃って真剣な声色で応える姿に頼もしいと感じながら、手を振る雪乃を見届ける。
「ーーーーーーーーあの車か……」
マンション前から連なってきた一台のワンボックスカーに気づき、メールを出した。悪そうな横顔は妹に見せられないと感じながら車を走らせると、追ってくる気配はない。
「……当たりだな」
雪乃を尾行していたと結論づけ、社に着くと同時に電話をかける。
「ーーーーお疲れ、ナンバーは…………」
雪乃の知らない所で、炙り出しはすでに始まっていたのであった。
「今朝もかっこよかったなぁーー♡」
相変わらずな愛理に、珍しく突っ込みがない。風磨は清隆とクリスマスパーティーについて談義中である。
「雪乃も参加するだろ?」
「うん、愛理の家が主催だから行くよ」
「やったぁーー♡」
「今年はホテルであるんだよね?」
「うん!」
幼馴染はある意味では家がライバル同士でもあるが、繋がりは良好であり、藤宮を中心に業績は伸び続けている。三大名家に一つ飛び抜けているのが藤宮といえるだろう。
交流を深めるべく、毎年のようにパーティーは開かれていたが、適当な理由をつけて欠席する事もある為、愛理の喜びようは自然な事だ。適当といっても根が真面目な雪乃がサボる事はなく、出版関係の仕事と重なった時だけ欠席していたが、【月野ゆき】がベストセラー作家の仲間入りをしてからというもの、その頻度が増えたのは仕方のない事である。
四家だけでなく、茉莉奈のような社長令嬢や令息も一定数参加し、名家に名を売りたい輩もいるが、そういう輩を振るいにかける場でもあった。
「今年は双子コーデにしようね♡」
「うん」
仲良くスマホを見る距離感の近い二人を咎める様子はなく、気になるのは周囲の視線だ。仲睦まじい姿が目撃される度、流出を防いでいるのは側にいる風磨と清隆である。
「ーーーーこの時期は厄介だな」
「ああ……」
思わず呟く清隆に激しく同意の風磨だが、当の本人たちは楽しそうだ。バレンタインデー程ではないが、イベント前の浮き足立った雰囲気も相まって、無断で写真を撮るマナー違反な生徒はいなくとも、他校生から隠し撮りされた事がある。それも一度や二度ではないのだ。
『はあーーーー……』
思わず溜め息を吐く二人に対し、雪乃と愛理は顔を見合わせた。
「ちょっと止めてよ。幸せが逃げるでしょ?」
「愛理……」
「おい、さすがに傷つくぞ?」
明からさまに嫌がる愛理に風磨の主張は最もだが、仲の良い二人に心配はない。
「雪乃は卒業後に発表?」
「そうなるのかな……」
「具体的な話は出てないのか?」
「うん……」
その証拠に清隆が話題を移し、雪乃も通常運転のカップルに止めるのを諦める。
「おい!」
思わず突っ込む清隆に、三人が顔を見合わせる。味方がいないと気づき大袈裟に肩を落とすと、真っ先に雪乃が宥め、悪ノリを続ける愛理が頭に、清隆が肩に触れる。まるで『ドンマイ』とでも言っているかのようだ。
「ったく、お前ら……俺で遊びすぎだろ?」
「仕方ないでしょ。ストレスフルなの!」
「おい! 当たり強すぎだろ?!」
「そうか?」 「そんなことないでしょ?」
「……風磨は優しいからね」
綺麗に纏めているようで全く纏められていないが、雪乃の天然気味な発言に笑みが溢れる。
「もう、仕方ないなぁーー」
「ああ、雪乃が言うんじゃなー」
「お前らなーー」
結局のところ、同じような境遇で生まれ育った彼らの仲は良い。周囲から感じる視線を忘れ、招待客について考える雪乃はそっと溜め息を零していた。