第35話 朝食と祝福を
隣で眠る婚約者の少し幼さが残る表情に頬が緩む。自身に自覚がなくとも熱視線だったのだろう。そっとベッドから抜け出そうとすれば、腕を引き寄せられる。
「ーーーーっ?!」
大きく傾き、また腕の中に逆戻りだ。
「…………た、匠さん……」
「おはよう」
「……おはようございます…………」
忘れていたはずの熱がぶり返す。同棲をはじめたばかりの翌朝も、同じようなやり取りがあった。
「んーーーー、雪乃ちゃんは早起きだな……」
「もう少し寝ていて大丈夫ですよ? 私のは習慣なので」
「いや、食べに行くだろ?」
「うん……」
匠にとっては朝から眼福だろう。淡いピンク色のワンピースタイプのパジャマの裾が少し捲れ、柔らかな太ももが露わになるが、雪乃に気にする素振りはなく、嬉しそうに微笑むだけだ。
「……捲れてる」
「えっ?」
裾を戻されただけで染まる頬に、匠はやられっぱなしだ。この間まで生徒会副会長を務め、しっかり者の印象が強い雪乃だが、幼馴染にみせる天然さが垣間見える。
「ーーーー行こうか」
「うん」
花が綻ぶように微笑まれ、惹かれない奴はいないだろうと、考えてしまうほど美しさと愛らしさが同居している。
自室で着替えたばかりの雪乃はボアパーカーにロングスカートと、匠も同じようにラフな恰好であるが、足元はお揃いのスニーカーだ。
「朝は寒いですね」
「あぁー、もう十一月になるからな」
「うん…………匠さんのお勧めは、なに?」
「んーー、シンプルにクロワッサンとか。サラダのセットを頼む事が多いかな」
「同じものにする……帰りにも、買っていい?」
「勿論」
敬語を脱却すべく奮闘する雪乃は実に愛らしい存在だろう。まっすぐに向けられる瞳が高鳴らせるが、それを悟られる事はない。匠もポーカーフェイスは得意だ。
「んっ、美味しい……」
「よかった」
「うん……連れてきてくれて、ありがとう……」
反射的に戻りそうになり言葉を改める姿に甘い視線が向けられ、さらに染まる。周囲から見ればお似合いのカップルであり、敏感な人ならば『婚約中であるかも』と、察する事も出来るだろう。左手の薬指で光る指輪に落胆する者も多くいたが、本人が気づく事はなく、匠が安堵するだけだ。
「明日のパン?」
「うん、あとバゲットも買いたい」
「何か作るのか?」
「うん、フレンチトーストとオニオングラタンスープは?」
「美味しそうだな」
「美味しいパンだから、絶品なのができそうでしょ?」
「あぁー」
商品を褒められた店員は頬が染まり、近くでトングを持っていた客は落としそうだ。人を惹きつける引力は春翔といい勝負だが、今まではポーカーフェイスがそれを軽減していた。婚約者の前では無防備な雪乃に、惹かれない方が少ないだろう。
その日は窓際で食べた事もあり、飛ぶようにパンが売れ、嬉しい悲鳴が上がったようだが、それはまた別の話だ。
「どうした?」
「ううん……」
ごく自然に手を握られ、購入したばかりのパンを持って歩く婚約者のスマートさに感心させられてばかりだ。彼が車道側を率先して歩くのも、柔らかく手を繋ぐ事も、以前から知っていたが、その頃は引かれて歩くだけの子供だった。そのくらいの自覚は雪乃にもあり、八歳の差は今よりももっと大きかった。自身の初恋と呼べるくらいの淡い恋心でありながら、叶う事はないと分かっていた。兄ほど歳の離れた彼が、自身に恋心を抱くなどあり得ないと。
ーーーーあの頃の私に教えてあげたい……けして実ることがないと、分かっていた想いが報われたこと。
まだ……はじまったばかりで、戸惑うことの方が多いけど…………
「雪乃ちゃん、昼食にオニオングラタンスープ作る?」
「うん!」
彼が雪乃の言葉を聞き逃すはずがない。
「デザートにケーキ、買って帰ろうか」
「うん」
導かれるまま歩いた先には、彼女のお気に入りの一つである洋菓子店があった。
「……匠さんは、チョコレートケーキ?」
「あぁー、よく分かったな」
言い当てられた匠は驚きながらも、可愛らしく微笑む婚約者にあてられっぱなしだ。自身の独占欲の強さを再認識させられるが、彼女が気づく事はない。
「ーーーー雪乃は、季節限定に弱いよな」
「うっ……よく分かったね」
同じようなセリフに微笑み合いながら、人数の倍のケーキを購入した。
仲睦まじい姿に、ショーウィンドー越しの店員が染まっていた。耳元に寄せられる唇に染まる横顔と、愛おしそうに見つめる視線に。
『ただいま』
揃って告げ、顔を見合わせて微笑み合う。朝から何度も繰り返しているが、その度に雪乃の頬は熱くなり、衝動に駆られそうになる匠がいるが、互いに気づいていない。雪乃だけでなく、匠も相当浮かれているのだ。
平日が多少忙しくなろうとも、彼女との時間の確保が最優先である。離れる準備は整っていないが、それだけの覚悟はすでに備わっている。同棲を言い出した時から分かっていた事だと。
並んでキッチンに立つ二人は、色違いのエプロンを着けている。この一週間で色違いやお揃いのものが増えた事も、大きな変化の一つだろう。
絶品に仕上がったオニオングラタンスープで昼食を済ませると、隣に座っているがそれぞれパソコンと向き合う。
執筆ペースが極端に減少する事がないのは、休日の受験勉強の合間に書き進めているからだ。【月野ゆき】担当の田中は、受験生を考慮しているため無理な締め切りはなく、ハイペースな彼女にとっては時間が有り余るほど余裕がある。
隣で同じようにノートパソコンでメールをチェックする彼に視線を向ければ、当たり前のように交わる。
「…………もう少ししたら、ケーキ食べるか?」
「うん……」
素直に頷いて気づく。一日中そばにいる事が殆どはじめてである事に。
些細な変化も見逃さない匠が、意識した横顔に気づかないはずがない。
「ーーーーーーーー参ったな……」
思わず漏れた本音に雪乃が気づく事はない。すでに物語の世界の中で、集中力が高まっている。
スムーズなタイピングで書き進めていく彼女は表情豊かだ。悲しいシーンは寂しげで、嬉しいシーンは頬が緩む。主人公と同じように喜怒哀楽を表現する横顔から目が離せない。
隣から感じるはずの視線に気づく事はなく、指を動かす。滑らかに動いては、微かに止まるを繰り返す。長考はない為、タイピングの速さも、誤字脱字のチェックも速読だ。
「はい、雪乃ちゃん」
「…………ありがとう……」
「どうした?」
テーブルに置かれたティーセットにも驚いたが、それが理由で反応が遅くなった訳ではない。
「……いえ…………」
下りた視線は頬に触れた手で交わる。
「聞きたい」
「………………あ、あの……名前……」
「名前?」
心当たりに気づき、思わず抱き寄せる。
「た、匠さ」
「雪乃」
「ーーーーっ!!」
言い当てられただけでなく、耳元に触れる唇に急激に染まり、声にならない。
「……雪乃…………」
さらに追い討ちをかけるように唇が触れ合う。
「んっ…………匠さん……」
見上げる潤んだ瞳が宝石のような輝きをみせる。匠でなくとも一瞬で虜になるだろう。
「…………雪乃は?」
染まった頬に触れながら尋ねても返答はない。敬語を脱却すべく奮闘する雪乃に、呼び捨てはハードルが高い。
それでも婚約者からの懇願に、唇をきゅっと結んだ。
「……………………匠……さん……」
「ふっ……らしいな……」
穏やかな笑みから頭に手が伸びる。兄に撫でられた事は何度もあるが、ここまで緊張した事はない。心音は速まるばかりで落ち着かない様子が、手に取るように分かる。
思わず漏らした笑いに、抗議の目を向けても効果はなく、さらに表情を緩めさせるだけだ。
「…………雪乃、受賞おめでとう」
「……………………ありがとう……」
差し出されたケーキには【おめでとう】と書かれた小さなプレートが乗っていた。
「……いつの間に……」
「驚いた?」
「うん……嬉しい…………匠……ありがとう…………」
上気した頬と相まって、破壊力は抜群である。染まった表情を逸らしそうになりながらも、目が離せない。
「…………匠さん?」
「いや……休憩にしようか」
「うん」
目の前に置かれたケーキをスマホに収める。購入時には気づかなかったが、この為に立ち寄ったのだと気づき、頬が緩む。
花が綻ぶ表情に、匠も嬉しそうに微笑んだ。
『いただきます』
シェアしながら口に運べば、幸せな味が口の中いっぱいに広がる。
「美味しい……」
「あぁー……こっちも食べたら?」
「うん」
口元に差し出されたフォークを躊躇う事なく運んでから気づくが、時はすでに遅い。ビターチョコレートのほろ苦さとバニラの甘い香りが広がるが、一瞬で味が分からなくなっていく。出先だったなら、もっと染まっていた事だろう。
「ーーーーっ、匠さん」
「戻ってる」
「うっ……」
「そのうちな」
構う事なくフォークを使う匠は確信犯だろう。そのくらいの勘の良さは雪乃にもあるが、内心はそれ所ではない。幼馴染に差し出されるのとは訳が違うのだ。
紅茶で喉を潤し、これ以上を回避する姿すら愛おしいのだろう。匠の甘い視線は表情が乱される事の少ない雪乃に効果的だが、やられっぱなしではない。
「…………はい、匠さん」
にこやかに差し出されたフォークには、同じようにケーキが乗っている。
「……ありがとう」
驚いたのは一瞬で、涼しい顔で口にする。思いがけない行動に嬉しそうな匠に対し、やり返そうとした雪乃が返り討ちにあった。
思わず声を出して笑う匠を、ジト目で睨んでみせても効果がないと分かっているのだろう。黙々と食べはじめた雪乃に、また笑みが溢れる。
「ーーーーーーーー雪乃、おめでとう」
「…………ありがとう……」
改めて告げられ、作品が認められた現実に微笑む。紡いだ物語が受賞する事は純粋に嬉しく、言葉にならない。それを婚約者が祝ってくれるとは思ってもみなかったのだ。
ひと言返すだけ精一杯な雪乃の頭に触れる温かな手に綻び、笑い合う。心音の速度は、いつの間にか穏やかに変わっていた。