第33話 同棲のはじまり③
見慣れない天井に目を覚ますと、ベッドに引き戻される。
大きく傾けば、温かな視線と交わった。
「ーーーーおはよう」
「……おはようございます…………」
「よく眠れた?」
「うん……匠さんが、ベッドまで?」
「あぁー」
事もなげに告げられ、ますます染まっていく雪乃の髪に触れる。
「…………綺麗な髪だな」
「……長い髪がお好みですか?」
「そうだな……好みでいうなら、君かな」
寝転んだまま抱きしめられていた手が背中を撫でる。
優しい手つきに、早鐘のような心音も優しい音を奏でる。触れ合った唇が離れていき、息を吐き出したのも束の間、首筋に唇が触れ、思わず声が漏れる。
「…………んっ……た、匠さん……」
「どうした?」
「……ずるい……です……」
余裕のある婚約者に対し、真っ赤に染まったままだ。雪乃の反応に楽しそうである。
「これくらいは許してよ」
「うっ……うん……」
有無を言わせぬ瞳にたじろぎながらも頷く。昨夜はソファーで待っていたが、雪乃にしては珍しく寝落ちしてしまったのだ。
ベッドまで運ばれた事実より、今の状況の方が耐え難い。
同棲をはじめたばかりのカップルならば、甘い夜を過ごす者が大半だろう。匠の主張は最もではあるが、色恋に疎かった雪乃には急激に変わっていく関係に心情が追いつかず、分かりやすく染まる。
彼自身はそれを分かっていながら、拒否されない事をいいことに触れ合っているといえるだろう。
「…………可愛い……」
首元まで染まった雪乃を見られるのは婚約者の特権だろう。ストレートな言葉の数々に素直な反応を示す為、匠自身が引く気配はない。
「ーーーーっ、もう、起きますよ!」
耐えられなくなり起き上がる雪乃に笑みが向けられ、言葉にならない。
同棲してはじめての朝は甘い空気が流れていた。
強引に引き寄せる事なく雪乃と並んでキッチンに立ち、遅めの朝食を作る。サラダにスクランブルエッグと、匠特製のミネストローネに、雪乃の好きなバゲットだ。
「…………美味しい……」
「よかった……君には負けるけどな」
「…………もう……面白がってます?」
「いや、浮かれてるんだよ……」
「えっ?」
顔を上げれば、甘い視線が交わる。
「……だって、すきな子と一緒に暮らし始めたんだよ?」
「…………私も……嬉しいです……」
語尾が消え入りそうになりながらも告げた本音に、匠は極上の笑みを見せる。
「ーーーーずるいな……」
自身の心音の速さに追いつかない雪乃は、匠の呟きに気づかない。本音を口にする事が少ない彼女の言葉に、大きく揺れ動いたのはきっと匠の方だ。向かい合って座った距離さえも飛び越えて触れそうになるのを堪えた。
「俺と春翔からのプレゼント、着てきて?」
「う、うん……」
洗い物をする間に身支度を整えるように言われ、自室にあてがわれたウォークインクローゼットの前に積まれた箱の数々に戸惑う。プレゼントの量が雪乃にとっては問題であるが、収納スペース的には全く問題ない。
ハイブランドのパッケージが並び、ロングスカートにニットやブーツ、これからの季節に必要なダウンジャケットまで入っている。ここまで来れば量よりも、コーディネートやジャストサイズに感心するばかりだ。
「…………雪乃ちゃん、用意できたら近くを案内するよ?」
「は、はい!」
扉越しとはいえ、着替え真っ只中の雪乃は思わず履こうとしたスカートを胸元に押し当てた。
「リビングにいるから」
「うん……」
ノックと同時に入室するような事はなく、胸をなで下ろす。いつも紳士的な彼が強引な行動をするとは微塵も思っていなかったが、今朝の熱がぶり返すようだ。
ソファーには普段通りの婚約者がいた。ニュースを見ながら、英字新聞を読む絵になるような光景だ。
「…………お待たせしました」
「あぁー、やっぱり似合うな」
「あの……たくさん、ありがとうございます……」
「いや、春翔と調子に乗って選びすぎた」
罰の悪そうな顔に、今度は雪乃が可愛らしい笑みを見せる。言い合いながらも好みのモノを選んでくれたと、一目瞭然であった。
「ーーーー行こうか」
「うん」
差し伸べられた手を取って散策に出た。兄の住まいがあるとはいえ、雪乃が訪れた事があるのは数える程度だ。すぐ近くにあるスーパーやコンビニと、ある程度の地理が頭に入ってるとはいえ、小さな店は知らないものが多い。
「ここのパンも美味しいよ」
「来週、買いに行きますか?」
「あぁー、でも無理せずにな」
「うん……匠さんこそ、無理しないで下さいね」
優しさに触れ、甘いマスクが微笑む度、雪乃の心音が加速する。
「夕飯は何が食べたい?」
「そうですね……和食な気分です」
「確かに。昨日はイタリアンだったからな」
「うん」
スーパーに立ち寄り、カートを押しながら夕飯を考える。
些細な事が新鮮であるのは、雪乃だけでなく匠にとっても新婚気分だ。いつもは一人で立ち寄る場所に彼女がいるだけで華やぐ。
今も美男美女のカップが視線を集めていた。
「匠さん、アサリのお味噌汁してもいいですか?」
「あぁー、美味しいよな」
「うん、飲み物買ってもいいですか?」
「勿論、雪乃ちゃんは何がすき? コーラとか飲んでるイメージはないけど」
「そうですか? 炭酸系はすきですよ。コーラよりジンジャーエールを飲むことが多いかもですけど……」
「昨日も春翔が用意してたな」
「うん」
ベッドで硬直していた彼女とは違い、花が綻んだような笑顔を見せる。その度に婚約者としては他に見せたくない想いと、いつまでも愛でていたい欲求が鬩ぎ合う。
「明日からお仕事ですね」
「あぁー、君も学校だろ? あっちの方はどう?」
「順調ですよ……今期のベストセラーにも選ばれるみたいです」
「すごいな」
「……ありがとうございます……」
感心した様子の匠に曖昧に微笑む。違和感に気づくのは彼くらいだろう。
「ーーーー嬉しくないのか?」
「ううん、嬉しいです……ただ…………」
「実感が湧かない?」
「うん……」
見透かされた心に、驚きながらも頷く。
【星の在処】も、数多く出版される中で選ばれた……それは、とても光栄なことだし、とても嬉しい…………だけど……
「いつまでも続くとは限らない、か……」
「…………よく、分かりますね」
「君のことなら……と、言いたい所だけど、経験談もあるかもな」
「経験談……」
「あぁー」
考え込んだ仕草も可愛らしいが、エコバッグを持ったまま立ち止まられては、ますます注目の的だ。
「帰るよ」
「う、うん!」
重たい荷物を持っているはずの匠の足取りは軽い。構わずに手を繋ぐくらいの余裕がある。
引かれる手を見つめ、頬が緩む雪乃に釣られる。隣で愛しい婚約者が綻ばせていれば尚更だ。
『あっちの方はどう?』という濁した言葉でも伝わった事は、二人だけに通じるモノだろう。それも勘のいい雪乃と、【月野ゆき】がイコールにならないように匠が配慮した結果だ。
冷蔵庫に食材を入れ、並んで夕飯の用意をしながら調理器具の場所や使い方のレクチャーを受ける。見慣れない匠のエプロン姿に今朝は驚いた様子の雪乃も、並んで作るにつれて慣れていった。
『いただきます』
遅めの朝食と同じように手を合わせ口に運ぶと、はじめて使う色違いの茶碗に頬が緩む。匠が雪乃用に準備したものだ。
「ーーーー美味しいな」
「うん、二人で食べてるからかもですね」
「あぁー」
一人の食事に慣れた雪乃は、昨夜から匠と過ごしている。彼がそばにいる為、一人きりになる事はない。投稿が順調に済んでいる事もあり、パソコンと毎日向き合わなくても構わないが、それでは物足りないのだ。受験勉強がメインになりながらも、執筆活動は継続していた。
食後にカフェインレスの紅茶を飲みながら、ソファーに並んで座る中ノートを広げたのは匠だ。
「綺麗に纏められてるな」
「ありがとう、ございます……」
幼馴染以外にノートを見せる機会は殆どない事と褒められた言葉が相まって、『ありがとう』すらも敬語に戻る。
「…………匠さん」
笑いを堪える仕草に、態とらしく睨んで見せても効果はない。
匠は愛しい婚約者の可愛らしい反応に手を伸ばしていた。
「ーーーーっ!!」
「……君は素直だな……」
大人に囲まれて育ったにも関わらず、本来の雪乃はその名のように真っ白な純真さがある。
「…………匠さ、んっ……」
柔らかな感触が触れ、紡ぐはずの言葉は飲み込まれていく。一夜明け、改めてスキンシップの多さに気づいても手遅れだ。
雪乃の想像以上に、甘い同棲がはじまったのであった。