表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/72

第32話 同棲のはじまり②

 たった数秒が雪乃には長く感じた。静かな室内では、自身か彼か分からない心音が早鐘のように鳴っている。


 唇が触れ合い離れていくと、潤んだ瞳を逸らしたのは匠だ。抑えが効かなくなりそうだと自覚しているのだろう。頭を撫でるだけにとどめた。


 「ーーーー行こうか」

 「……うん…………」


 真っ赤に染まった頬が愛らしい婚約者の手を取る匠は、欲望を吐き捨てる事なく微笑んでみせる。

 些細な違いに気づいても、心情を読み解く事は容易ではない。作った顔だと知りながらも、握り返すだけで精一杯な雪乃は言葉を探していた。


 「ーーーー匠さん……」

 「どうした?」


 立ち止まる雪乃に優しい声が振り返る。


 「…………いえ……」


 素に戻ったと分かるが続く言葉は見つけられず、視線を逸らしそうになりながらも見つめ返す。


 「……雪乃ちゃん…………勘違いするよ……」

 「えっ?」

 「……まだ、したかった?」


 頬に触れる手で一歩遅れて意味に気づき、真っ赤に染まったまま首を横に振ると、楽しそうな顔が離れていった。


 「ーーーー残念」


 そう言いながらも、まだ笑いを堪える匠をジト目で睨んで見せても効果はない。

 

 「……いじわる、ですね……」

 「君にだけだよ」

 「ーーーーっ?!」


 耳元に触れた唇だけで染まる雪乃に、これ以上はハードルが高い。そして、これ以上に染まった顔を春翔に見せる事は出来ない。

 質問攻めを回避すべく玄関を出れば、涼しい風が肌をなぞり体温を下げていく。


 「……春翔が待ちくたびれるな」

 「うん……」


 手を繋ぎ直して進めば、同フロアにある扉の前だ。最上階には匠と春翔の自宅しかなく、一人暮らしには有り余るサイズ感だろう。現に住民の殆どはファミリー層だ。


 慣れた手つきでチャイムを押せば、聞き慣れた声が応える。慌ただしく出迎えたのは春翔と杏奈だ。

 

 「二人とも、いらっしゃい!」

 「杏奈さん、ご無沙汰してます」 「久しぶり」


 挨拶もそこそこに、雪乃の手を引いてリビングに進む杏奈に、匠と春翔は顔を見合わせ笑い合う。 

 

 ガラス張りの扉の先には、四人掛けのダイニングテーブルに料理が綺麗に並べられていた。


 「ーーーーすごい……」

 「ふふふ、出来合いばかりだけど、盛り付けは頑張ったよ?」

 「……お義姉さん、ありがとうございます」 


 素直な反応に、ぎゅっと抱きついた杏奈は兄によって離されていった。

 反論しながらも宥められ、席に揃うと、トクトクと音を立てながらスパークリングワインが注がれていく。


 『乾杯!!』

 「引越し、お疲れさま♡」

 「ありがとうございます」


 グラスを傾け、雪乃の歓迎会が始まった。

 一気に飲み干す杏奈の酒豪っぷりは健在であるが、樽の味がするとはいえノンアルコールだ。この日の為に春翔が用意したもので、アルコールに近いクオリティの高さに、舌の肥えた彼らも納得である。


 「……懐かしい……六本木のお店の味がする……」

 「さすが雪乃! デリバリーしたんだよ」

 「えっ……やってないんじゃ……」

 「そこは藤宮だからなーー」

 「春翔らしいよな」

 「うん、うん」


 利用出来るモノは利用する。兄なりに上手く藤宮を使っていた。普段は一見さんお断りの店やデリバリーをやっていないような高級店であっても、鶴の一声で可能になる事は多い。

 今回のイタリアンレストランもそうだ。藤宮家が懇意にしている店であっても、態々届けてくれたのは春翔の人柄が成せる技だろう。


 「次は冷やしてた白を開けるか」

 「賛成♡」

 「雪乃は他にも、ジンジャーエールとオレンジジュースがあるからな?」

 「うん、ありがとう」


 社会人組はワインを四本開けても顔色に遜色はなく、杏奈が笑い上戸になっているくらいだ。


 美味しい料理にお酒も話も進み、気づけば三時間以上経っていた。テーブルに並んだ料理の数々はすっかりと無くなり、シャーベットが入っていた空のグラスとティーセットだけが残っている。


 「雪乃ちゃん、今度デートしようね♡」

 「はい」


 何度目になるか分からない誘いにも関わらず、嬉しそうに応える雪乃に杏奈は満足気だ。


 「ーーーーそれにしても、あの匠くんが同棲ねーー……意外だわ」

 「……そう?」


 相変わらずなポーカーフェイスに、杏奈が悪い顔をすると、嫌な予感が過ったのは匠だけでなく春翔もだろう。


 「うん……だって、意外と潔癖なんでしょ? 誰も家に上げたこと、ないらしいしーー……」


 口を挟もうとしたが間に合わず、春翔から溜め息が漏れる。


 「ったく、飲み過ぎだろ?」

 「いいの! 明日はお休みだしーー、今日は泊まっていくんだからーー」

 「はい、はい」


 寝そうになる杏奈の背中を撫で、困ったような反応をしながらも優しくソファーに寝かせる兄は婚約者に甘い。宅飲みだからこそ悪酔いしなければ止める事はないのだ。


 「お義姉さん、寝ちゃった?」

 「あぁー、二人とも付き合ってくれて、ありがとな」

 「ううん、楽しかったよ」

 「あぁー」


 頬を緩ませる二人に杞憂だったと悟る。祖父母も交えた顔合わせを知っていたからこその反応だ。

 春翔が妹の事で知らないことは、その想いくらいだろう。花山院家の事だけでなく、些細なアクシデントに巻き込まれる事は少なくない為、幼馴染からだけでなく報告が入るようになっていたが、その役目もあと少しだ。非の打ち所がない妹の婚約者が、親友の匠と知った時と同じような感覚である。


 「雪乃、片付けはいいから……引越しお疲れ、ゆっくり休めよ?」

 「うん、春兄も来てくれてありがとう」

 「あぁー」


 抵抗する事なく頭を撫でられる雪乃に、兄妹の絆を感じずにはいられないだろう。愛らしい反応はなくとも、信頼しているからこその雰囲気だ。


 「匠も、またな」

 「あぁー」


 兄から匠の隣りに並ぶと、お似合いの二人に春翔の頬は緩んでいた。


 「ーーーーおじゃまし」

 「雪乃ちゃん、今日からは君の家でもあるよ?」

 「……そう、でした…………ただいま……」

 「ん、おかえり……手伝えなくて、悪かったな」

 「いえ、島崎さんによくして頂きました」

 「あぁー……」


 電話で報告を受けていた匠は、厳しいはずの島崎の反応に苦笑いした。人を見る目は確かな秘書が絶賛する程の対応力を、数十分の間に披露したからだ。

 それは心がけても中々出来る事ではないし、身につけようにも難しい話だ。日頃から対面する機会がなければ、咄嗟の判断力は備わらないだろう。

 雪乃自身が進んでパーティーに参加する事はないが、幼馴染の誘いを断る事はない。表立って挨拶する事も難なくこなす彼女の笑顔に、射止められるのは老若男女問わずといえる。匠や春翔に限った事ではなく、雪乃に自覚がなくとも人たらしだろう。


 「……匠さん?」

 「いや、あの島崎が君を絶賛していたからな……」

 「絶賛、ですか?」


 身に覚えがない雪乃に、柔らかく微笑む。向けられた視線に頬が染まり、言葉に詰まる。


 「……お風呂、すぐ沸かすから。それまでテレビでも見る?」

 「うん……」


 最新式のキッチンや水回りは雪乃の自宅と変わりはない。驚いた事があるとすれば、自身と同じくらい匠も物が少なく、週一程度でクリーニングが入ってるとはいえ、綺麗な状態を保っている事だ。


 ソファーに並んで座り、大画面のテレビに視線を移すが、内容は殆ど入って来ない。集中しているようで全く出来ていない雪乃が、ちらりと右隣を見上げれば視線が交わる。


 「……雪乃ちゃんはあの店のイタリアンが好きなんだな」

 「うん……お味はどうでしたか?」

 「あぁー、美味しかったよ。さすがに届けて貰ったのには、驚いたけどな」 

 「ですよね……」


 春翔らしさに笑い合う。

 よく知る共通の人物で真っ先に浮かぶのは、兄であり匠の親友でもある春翔くらいだ。沈黙になる訳ではないが、何を話していいか分からなくなると兄の話題になる。一泊二日でお泊まりをした事があるとはいえ、【仮】でなくなってからは、はじめてだ。


 未だに慣れない空間に沸いたと知らせる音が鳴り、リビングを後にした。


 「ふぅーーーー……」


 浴槽に浸り思わず息を吐き出す。歓迎会で消えていたはずの緊張感が、また顔を覗かせる。


 …………寝室は……一緒、なんだよね……


 旅行の時はツインベッドだったが、広い自室があるとはいえベッドはなく、寝室にキングサイズのベッドが一つあるだけだ。

 考え込んでも後戻りが出来るはずない。ベッドが一つだと前々から分かっていただけ、旅行の時よりはマシだと言い聞かせた。


 身なりを整えてリビングに戻れば、グラスを片手に寛いだ様子の婚約者がいた。


 「…………お先しました」

 「あぁー、ゆっくり入れた?」

 「うん……ありがとうございます…………匠さんが飲んでるのはウイスキー?」

 「そうだよ。さっきはワインばっかりだったからシメかな」

 「お酒に強いですね」


 何気なく隣りに腰掛けた雪乃の髪から甘いシャンプーの香りが漂う。浮かれて進んだ酒と相まって、匠の理性をゴリゴリと削っていくようだ。


 「そうだな……春翔くらいには強いかもな……俺も入ってくるから、冷蔵庫の中に炭酸水があるから飲んでね」

 「うん……」


 素直に冷蔵庫を開ければ、緑色のペットボトルが目に入る。これは雪乃が好きな炭酸水の一つだ。


 「……用意して、くれたのかな…………」


 何度かデートを重ねてきた中で、彼が炭酸水を飲んでる所は一度も見た事がなく、そう察してしまう雪乃もまた変化に敏感である。

 グラスを拝借して開けたての炭酸水を注ぐ。

 愛理と作って飲んだ炭酸水を想い浮かべながら、誰とも違う事に気づいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ