第32話 同棲のはじまり②
たった数秒が雪乃には長く感じた。静かな室内では、自身か彼か分からない心音が早鐘のように鳴っている。
唇が触れ合い離れていくと、潤んだ瞳を逸らしたのは匠だ。抑えが効かなくなりそうだと自覚しているのだろう。頭を撫でるだけに止めた。
「ーーーー行こうか」
「……うん…………」
真っ赤に染まった頬が愛らしい婚約者の手を取る匠は、欲望を吐き捨てる事なく微笑んでみせる。
些細な違いに気づいても、心情を読み解く事は容易ではない。作った顔だと知りながらも、握り返すだけで精一杯な雪乃は言葉を探していた。
「ーーーー匠さん……」
「どうした?」
立ち止まる雪乃に優しい声が振り返る。
「…………いえ……」
素に戻ったと分かるが続く言葉は見つけられず、視線を逸らしそうになりながらも見つめ返す。
「……雪乃ちゃん…………勘違いするよ……」
「えっ?」
「……まだ、したかった?」
頬に触れる手で一歩遅れて意味に気づき、真っ赤に染まったまま首を横に振ると、楽しそうな顔が離れていった。
「ーーーー残念」
そう言いながらも、まだ笑いを堪える匠をジト目で睨んで見せても効果はない。
「……いじわる、ですね……」
「君にだけだよ」
「ーーーーっ?!」
耳元に触れた唇だけで染まる雪乃に、これ以上はハードルが高い。そして、これ以上に染まった顔を春翔に見せる事は出来ない。
質問攻めを回避すべく玄関を出れば、涼しい風が肌をなぞり体温を下げていく。
「……春翔が待ちくたびれるな」
「うん……」
手を繋ぎ直して進めば、同フロアにある扉の前だ。最上階には匠と春翔の自宅しかなく、一人暮らしには有り余るサイズ感だろう。現に住民の殆どはファミリー層だ。
慣れた手つきでチャイムを押せば、聞き慣れた声が応える。慌ただしく出迎えたのは春翔と杏奈だ。
「二人とも、いらっしゃい!」
「杏奈さん、ご無沙汰してます」 「久しぶり」
挨拶もそこそこに、雪乃の手を引いてリビングに進む杏奈に、匠と春翔は顔を見合わせ笑い合う。
ガラス張りの扉の先には、四人掛けのダイニングテーブルに料理が綺麗に並べられていた。
「ーーーーすごい……」
「ふふふ、出来合いばかりだけど、盛り付けは頑張ったよ?」
「……お義姉さん、ありがとうございます」
素直な反応に、ぎゅっと抱きついた杏奈は兄によって離されていった。
反論しながらも宥められ、席に揃うと、トクトクと音を立てながらスパークリングワインが注がれていく。
『乾杯!!』
「引越し、お疲れさま♡」
「ありがとうございます」
グラスを傾け、雪乃の歓迎会が始まった。
一気に飲み干す杏奈の酒豪っぷりは健在であるが、樽の味がするとはいえノンアルコールだ。この日の為に春翔が用意したもので、アルコールに近いクオリティの高さに、舌の肥えた彼らも納得である。
「……懐かしい……六本木のお店の味がする……」
「さすが雪乃! デリバリーしたんだよ」
「えっ……やってないんじゃ……」
「そこは藤宮だからなーー」
「春翔らしいよな」
「うん、うん」
利用出来るモノは利用する。兄なりに上手く藤宮を使っていた。普段は一見さんお断りの店やデリバリーをやっていないような高級店であっても、鶴の一声で可能になる事は多い。
今回のイタリアンレストランもそうだ。藤宮家が懇意にしている店であっても、態々届けてくれたのは春翔の人柄が成せる技だろう。
「次は冷やしてた白を開けるか」
「賛成♡」
「雪乃は他にも、ジンジャーエールとオレンジジュースがあるからな?」
「うん、ありがとう」
社会人組はワインを四本開けても顔色に遜色はなく、杏奈が笑い上戸になっているくらいだ。
美味しい料理にお酒も話も進み、気づけば三時間以上経っていた。テーブルに並んだ料理の数々はすっかりと無くなり、シャーベットが入っていた空のグラスとティーセットだけが残っている。
「雪乃ちゃん、今度デートしようね♡」
「はい」
何度目になるか分からない誘いにも関わらず、嬉しそうに応える雪乃に杏奈は満足気だ。
「ーーーーそれにしても、あの匠くんが同棲ねーー……意外だわ」
「……そう?」
相変わらずなポーカーフェイスに、杏奈が悪い顔をすると、嫌な予感が過ったのは匠だけでなく春翔もだろう。
「うん……だって、意外と潔癖なんでしょ? 誰も家に上げたこと、ないらしいしーー……」
口を挟もうとしたが間に合わず、春翔から溜め息が漏れる。
「ったく、飲み過ぎだろ?」
「いいの! 明日はお休みだしーー、今日は泊まっていくんだからーー」
「はい、はい」
寝そうになる杏奈の背中を撫で、困ったような反応をしながらも優しくソファーに寝かせる兄は婚約者に甘い。宅飲みだからこそ悪酔いしなければ止める事はないのだ。
「お義姉さん、寝ちゃった?」
「あぁー、二人とも付き合ってくれて、ありがとな」
「ううん、楽しかったよ」
「あぁー」
頬を緩ませる二人に杞憂だったと悟る。祖父母も交えた顔合わせを知っていたからこその反応だ。
春翔が妹の事で知らないことは、その想いくらいだろう。花山院家の事だけでなく、些細なアクシデントに巻き込まれる事は少なくない為、幼馴染からだけでなく報告が入るようになっていたが、その役目もあと少しだ。非の打ち所がない妹の婚約者が、親友の匠と知った時と同じような感覚である。
「雪乃、片付けはいいから……引越しお疲れ、ゆっくり休めよ?」
「うん、春兄も来てくれてありがとう」
「あぁー」
抵抗する事なく頭を撫でられる雪乃に、兄妹の絆を感じずにはいられないだろう。愛らしい反応はなくとも、信頼しているからこその雰囲気だ。
「匠も、またな」
「あぁー」
兄から匠の隣りに並ぶと、お似合いの二人に春翔の頬は緩んでいた。
「ーーーーおじゃまし」
「雪乃ちゃん、今日からは君の家でもあるよ?」
「……そう、でした…………ただいま……」
「ん、おかえり……手伝えなくて、悪かったな」
「いえ、島崎さんによくして頂きました」
「あぁー……」
電話で報告を受けていた匠は、厳しいはずの島崎の反応に苦笑いした。人を見る目は確かな秘書が絶賛する程の対応力を、数十分の間に披露したからだ。
それは心がけても中々出来る事ではないし、身につけようにも難しい話だ。日頃から対面する機会がなければ、咄嗟の判断力は備わらないだろう。
雪乃自身が進んでパーティーに参加する事はないが、幼馴染の誘いを断る事はない。表立って挨拶する事も難なくこなす彼女の笑顔に、射止められるのは老若男女問わずといえる。匠や春翔に限った事ではなく、雪乃に自覚がなくとも人たらしだろう。
「……匠さん?」
「いや、あの島崎が君を絶賛していたからな……」
「絶賛、ですか?」
身に覚えがない雪乃に、柔らかく微笑む。向けられた視線に頬が染まり、言葉に詰まる。
「……お風呂、すぐ沸かすから。それまでテレビでも見る?」
「うん……」
最新式のキッチンや水回りは雪乃の自宅と変わりはない。驚いた事があるとすれば、自身と同じくらい匠も物が少なく、週一程度でクリーニングが入ってるとはいえ、綺麗な状態を保っている事だ。
ソファーに並んで座り、大画面のテレビに視線を移すが、内容は殆ど入って来ない。集中しているようで全く出来ていない雪乃が、ちらりと右隣を見上げれば視線が交わる。
「……雪乃ちゃんはあの店のイタリアンが好きなんだな」
「うん……お味はどうでしたか?」
「あぁー、美味しかったよ。さすがに届けて貰ったのには、驚いたけどな」
「ですよね……」
春翔らしさに笑い合う。
よく知る共通の人物で真っ先に浮かぶのは、兄であり匠の親友でもある春翔くらいだ。沈黙になる訳ではないが、何を話していいか分からなくなると兄の話題になる。一泊二日でお泊まりをした事があるとはいえ、【仮】でなくなってからは、はじめてだ。
未だに慣れない空間に沸いたと知らせる音が鳴り、リビングを後にした。
「ふぅーーーー……」
浴槽に浸り思わず息を吐き出す。歓迎会で消えていたはずの緊張感が、また顔を覗かせる。
…………寝室は……一緒、なんだよね……
旅行の時はツインベッドだったが、広い自室があるとはいえベッドはなく、寝室にキングサイズのベッドが一つあるだけだ。
考え込んでも後戻りが出来るはずない。ベッドが一つだと前々から分かっていただけ、旅行の時よりはマシだと言い聞かせた。
身なりを整えてリビングに戻れば、グラスを片手に寛いだ様子の婚約者がいた。
「…………お先しました」
「あぁー、ゆっくり入れた?」
「うん……ありがとうございます…………匠さんが飲んでるのはウイスキー?」
「そうだよ。さっきはワインばっかりだったからシメかな」
「お酒に強いですね」
何気なく隣りに腰掛けた雪乃の髪から甘いシャンプーの香りが漂う。浮かれて進んだ酒と相まって、匠の理性をゴリゴリと削っていくようだ。
「そうだな……春翔くらいには強いかもな……俺も入ってくるから、冷蔵庫の中に炭酸水があるから飲んでね」
「うん……」
素直に冷蔵庫を開ければ、緑色のペットボトルが目に入る。これは雪乃が好きな炭酸水の一つだ。
「……用意して、くれたのかな…………」
何度かデートを重ねてきた中で、彼が炭酸水を飲んでる所は一度も見た事がなく、そう察してしまう雪乃もまた変化に敏感である。
グラスを拝借して開けたての炭酸水を注ぐ。
愛理と作って飲んだ炭酸水を想い浮かべながら、誰とも違う事に気づいていた。