第30話 藤宮家の意向
着物に身を包んだ雪乃は、匠と向かい合って座っていた。純和室な店内は生花で装飾され、二人にとっては半年ほど前にも同じような佇まいで再会した場所だ。
ーーーー匠さんと会えること自体は楽しみだけど……
「ご無沙汰しております」
「匠くんの活躍は予々……急な日程に合わせてくれて、ありがとう」
「いえいえ、こちらこそお会いできて光栄です」
深々と頭を下げる父に、匠は溜め息を呑み込んだ。
一條家とは昔から懇意にしているが、引退した冬時が公の場に顔を出す機会は滅多にない。少なくとも経営に関してはノータッチだ。それでも知る人ぞ知る敏腕経営者であり、今もなお膨大な影響力を持つ。だからこそ社長である匠の父が深々と頭を下げたのだ。
和装の似合う凛とした佇まいで、威嚇している訳ではなくとも緊張感が走る。現役を退いて尚、有り余るオーラを持て余すような印象を受けるが、あくまで一條家当主に対してだ。幼い頃から知る匠にとっては、厳しいながらも優しさのある祖父のような存在であり、自身の父でもある秋人に関しては緊張するまでもない。
「冬時さん、この度はありがとうございました」
「君は……相変わらずの人たらしだな」
「それは冬時さんですよね?」
切り返しの上手さに冬時は嬉しそうに頬を緩ませた。歳の差がありながらも、祖父もまた人たらしだ。そうでなければ藤宮家がここまで繁栄する事はなかっただろう。藤宮と関わりのない企業を探す方が都内では難しい程だ。
目の前で繰り広げられる会話を、どこか他人事のように雪乃は眺めていた。視線が交われば微笑み返すし、求められれば相槌もする完璧な令嬢だ。一見すると元に戻ったかのようだが、所作が美しいのは長年の癖であるし、作り笑いではなく微笑んでいる事くらいは匠にも分かった。
【仮】ではなくなったとはいえ、現状は何一つ変わらずにいたが、話がスムーズに進んでいく。ある意味では花山院司のおかげであったが、雪乃が内情を知る由もない。
「ーーーー私たちは、庭園を見てから帰ります」
「構わんよ、雪乃またな」
「はい」
自然と手を繋ぐ姿に、孫娘を取られた感は否めないが、瞳が微かに揺れる。想い出すのは若かりし頃の事だろう。後ろ姿を静かに眺める冬時は隣で佇むアイスブルーの瞳に微笑んだ。
「……もう冬時さん、不要ですよ」
「分かってる…………」
お節介も程々にと祖母に宥められているようだ。
藤宮冬時はあれだけの富を築きながら愛妻家としても知られていた。雪乃のアイスブルーの瞳は、彼にとって妻や息子と重なって映る部分もあるのかもしれない。
和やかな雰囲気で顔合わせを終えると、揃って息を吐き出したのは現当主である二人の両親であった。立場が違えど似たような境遇の為、昔から懇意にしていた。
「ーーーーお疲れさま、今日はありがとう」
「いや、秋人もお疲れ……」
顔を見合わせ、すでに歓談する妻に微笑む。砕けた口調が学生の頃を想い起こさせる。
「……よく、許したな」
「あぁー、仕方ないだろ?」
秋人の視線は未来ある二人に向けられていた。側から見てもお似合いなのは一目瞭然だ。振り返る人がいる程の美男美女カップルが、さらりと着物を着こなしていれば尚更である。
「ーーーーそうだな」
歳の差が気にならない程、ごく自然に笑い合う姿に賛成こそすれ反対する者はいないだろう。想い合っている事は表情を見れば明らかだ。
祖父母たちが退出し、両親が追加のお茶を注文し歓談する頃、雪乃は手を引かれたまま庭園を散策していた。
ーーーー半年ほど前の出来事なのに……もっと、ずっと前のことみたい…………
冬時が縁談を持って来なければ、匠が【仮】の婚約を持ちかけなければ、初恋に蓋をして懐かしい兄のような存在との再会で終わっていただろう。そんな想いが駆け巡る。今となっては彼の隣にいるのは、自身であって欲しいという独占欲くらい雪乃にもあるが、上手く伝える術を知らない。好意を寄せられる事が多い雪乃が、自身から言葉にした事は少ないのだ。
「ーーーー雪乃ちゃん、雪乃ちゃん……雪乃?」
何度目かの呼びかけにようやく顔を上げたのは、呼び捨てにされたからだろう。一気に染まる頬に匠が微笑む。彼女の表情を引き出しているという自覚はあった。
「……匠さん、今日はありがとうございました…………」
「いや、こちらこそ……冬時さんが帰国してくれて助かったよ」
「うん……」
先ほどまでの敬語が崩れ、そんなところにも距離が近づいた感覚を得る。半年とはいえ、直接会った回数は数える程だが、二人の距離は確実に近づいていた。
「あと半年か……俺としては早く公言したいな」
「みんな乗り気でしたね」
「あぁー、式の場所まで話に出た時はさすがに止めたけどな」
「うん……」
歳の差は今だけの事だろう。社会人になれば八歳差以上のカップルはザラにいるのだ。一條家としても嬉しい報告のようで、彼の両親も大いに喜んでいた。
婚約発表自体は進学先が決まってからとなった。高校生と社会人では外聞が悪いが、彼女を優先すべきと冬時を筆頭に藤宮家が判断した結果である。
同年代であれば内外を固める為の正式発表に不自然はない。現に愛理と風磨、清隆と茉莉奈は発表時期は異なれど、お披露目パーティーはすでに開かれていた。学内でそれを知る者は少ないが、愛理と風磨に限っては公認の美男美女のカップルである。
雪乃も高校卒業と同時期に大々的なパーティーをするという事で話は纏まった。
彼女とお近づきになりたい輩は後を絶たないのだが、牽制を含めた意味合いがあるとは微塵も思っていない様子に溜め息が漏れそうだ。
「合格祈願も兼ねて、初詣に行けるか?」
「うん、ありがとう…………匠さん、無理しないでくださいね?」
「あぁー、君のことで無理をした事はないよ」
言い切る匠に微笑んでみせるが、社長である彼が多忙でないはずがないのだ。
「…………うん……」
歯切れの悪い頷きに、頭に手が伸びる。
「雪乃ちゃんは相変わらずだな……」
浮かぶ疑問に匠が応える事はなく、手に熱がこもる。
「…………匠さん?」
「着物、似合ってるよ」
「ありがとう…………話、逸らしましたね?」
「バレたか……」
些細な変化に敏感な雪乃が逃すはずがない。それが婚約者のことなら尚更だ。
「…………雪乃ちゃんさえよければ、俺のところに来ない?」
「えっ……?」
「一緒に暮らしたい…………藤宮家の許可は取ってる」
すでに根回し済みの婚約者の計算高さは兎も角、一緒に過ごす時間が増える事は純粋に嬉しい。
花が綻んだように微笑み、小さく頷く肩はぎゅっと抱き寄せられていた。
「……会える時間が増えるのは、嬉しいな」
「……うん……」
ストレートな言葉に頬を染める。そんな彼女の表情が見たいからこそ、敢えて言葉を選ぶ中々の策略ぶりではあるが、あまりに自然なため雪乃が気づく事はない。
「ーーーー来週なら手伝えそうだけど、どう?」
「えっ?!」
腕の中の彼女が珍しく声を上げる。
些細な表情の変化はどれも愛おしいのだろう。向けられる視線の甘さに戸惑いながらも頷いていた。
「えーーーーっ?!」
翌日の屋上に声が響いた。言わずもがな愛理の声だ。
行動力のある人という認識ではあったが、それが強固なものになった印象だ。若手のやり手社長と言われるだけあり、その行動力も決断力も確かなものである。
「あのマンションはどうするんだ?」
「所有には変わらないよ。売りに出したりはしないから……」
「まぁーー、今後は雪乃のアトリエ的な執筆活動場所にすればいいんじゃないか?」
「うん」
スムーズに受け入れる幼馴染に、愛理が思いっきり声を上げる。
「なんで風磨もキヨも、そんなに簡単に受け入れてるのよ?!」
「だって、なあ?」
「ああ……あの匠さんだぞ?」
熱が一気に引いていく。同年代で並ぶ者は春翔くらいだろう。二人は頭脳も容姿も飛び抜けていた。
「ーーーー確かに……分かってるけどーー……」
いつかは誰かのモノになる。そんな当たり前の事は分かっていた。それでも急激な変化は花山院司のせいだと、幼馴染にはすぐに分かった。過去に報じられた違法の数々からも油断は許されないのだ。
「…………愛理?」
「分かってる。雪乃が幸せなら、それでいいの。匠さんは、すごい人だしね」
「うん、ありがとう……」
婚約者を褒められ、微笑んで返す仕草にまた嫉妬心が湧く。雪乃にとって愛理が親友に変わりないが、匠を羨ましくも思う。かつてのヒーローは、ようやく自分の居場所を見つけたのだと。
「パーティーは、絶対呼んでね!」
「うん……みんな、来てね」
「うん!」 「ああ」 「楽しみにしてる」
三者三様の反応に微笑む雪乃に懐かしさを感じる。幼馴染にも分かる程に表情が豊かになっていた。
「あーーーー、やっぱり悔しいなぁーー、私の雪乃がーー」
「ったく、愛理には俺がいるだろ?」
「風磨と一緒にしないでーー!」
目の前で繰り広げられる夫婦漫才に、清隆と顔を見合わせ笑い合う。
「引越ししたら、お宅訪問するから!!」
「うん、匠さんに聞いておくね」
「やったぁーー♡」
思い切り抱きつく愛理の背中を撫でる。長身な雪乃にとって小柄な愛理は、それだけで愛らしい存在だ。
「……愛理、ありがとう」
心配をかけている事に謝罪ではなく、感謝を述べる。その雪乃らしさに愛理も微笑んだ。
藤宮家の意向は雪乃や愛理にとって急展開であったが、風磨と清隆にとっては当然の配慮のうちだろう。あの場にいなくとも、そう結論づける事は可能だが、匠にとっては図らずも望んだ結果になったといえる。
「思い切ったな……」
「……そうかな?」
「ああ、雪乃が納得してるならいいけどな」
「うん……」
彼の事に関しては直感的な行動が否めない。自身で気づきながら意向がなくとも、そうなるように仕向ける事は可能だっただろうと、今さらのように気づく。
「……あと、少しだから…………」
「そうか……」
そう口にした言葉には、寂しさが含まれていた。