第26話 想い出のアイロニー①
「ーーーーっ、た、匠さん!」
「あぁー、悪い……痛かった?」
首を横に振り、安堵したように口にする。
「ーーーーありがとうございました……」
「いや……彼は……」
ビクリと肩が動き、強張る表情に気づく。
慣れた手つきで背中に触れられた場所から、じんわりと熱を帯びていくようだ。
「…………彼は、小学校が同じでした……」
「そうか……」
曇った瞳はどこか遠くを見つめたまま、名前を口にする事すら体が拒否しているかのようだ。
「…………雪乃って、呼んでたな……」
「ーーーーっ……そう、ですね……」
無理に聞き出したい訳でなくとも気にはなる。愛しい婚約者の事なら尚更だ。
無言のままエンジン音がかかり、横顔を見つめる。いつの間にか車内に戻ったのだと気づく。
空調が効く中、ごくりと喉を鳴らす音がやけに大きく聞こえた。
「…………匠さん……」
「無理には聞かない……ただ、君の事を知りたいとは思ってるよ」
「……私の、こと?」
「あぁー、俺が一番の理解者でありたいんだ」
まっすぐな瞳に心が揺れる。吐き出した所で過去が変わる訳ではない。告げた所で何かが変わるとも思えず、肝心な心は閉ざしたままだっただろう。彼でなければ。
「ーーーーお話……聞いて、もらえますか?」
「勿論、どんな事でもいいよ」
「…………はい」
久しぶりのデートは早々と切り上げられたが、予定通りといえばその通りだ。匠の家で勉強の予定が含まれていたからだ。
「ーーーー紅茶、用意するから」
「あっ、お手伝いします」
「いいから、今日くらい甘やかされなさい。さっきから顔色が悪い……」
頬に触れる指先に急激に加速する心音。一瞬で血色の戻った頬に柔らかな笑みが向けられ、頭を撫でた匠はキッチンに立った。
慣れた手つきで注がれたのは、雪乃の好きなダージリンティーだ。
「召し上がれ」
「ありがとうございます…………」
口に運べば熟した果実のような香気と、コクのある円熟した風味が広がる。
「……美味しい………」
「よかった」
セカンドフラッシュの特徴である雪乃愛用の茶葉だ。飲み慣れた味に落ち着きを取り戻していく。
「…………彼は……花山院家の、三男です」
「あの花山院家か……」
「ご存知ですか?」
「あぁー、あまり良い噂は聞かないからな」
「ですね……」
子供心に無邪気な言葉もあったと思うけど、愛理曰く『表情筋が死んだ』のは、あの日だった。
『ーーーー雪乃ちゃん家って、すごいんでしょ?!』
『春翔さん、かっこいい!』
『今度、うちのパーティーに来て!!』
子供にとって、家と学校が世界の中心のような所がある。雪乃にとっても自分の常識が、世界の常識だと思っていた。
周囲にいるのは同じような富裕層ばかりで、口を開けば藤宮家のことばかりだった。
家柄でうんざりする場面はあっても、彼女自身は家族が大切だった為、家の名に恥じないよう微笑んで返す場面が多々あった。幼いながらも、すでに兼ね備えていたのだ。
すべての発端は、花山院司が彼女を手に入れようとした事だろう。
「ーーーー悪いけど……俺、他に好きな奴いるから」
「そんな……でも、その子とは付き合ってないんでしょ?」
「まぁーー、でも、俺が言ったら、了承してくれるはずだろ?」
尊大な態度も告白した少女にとっては許容範囲である。少女自身も、彼が断られるとは思っていない。
親の力を自身の力と勘違いする不届き者は、多かれ少なかれいた。彼らもその類に入るだろう。
「ーーっ、だ、誰なの?!」
「藤宮雪乃。あいつ、すっげーー、美人じゃん!」
「わ、私だって、司くんが好きなのに!!」
食い下がっても鼻で笑われるだけだ。多数の好意をぞんざいに扱ってきた黒い噂を彼女は知らないのだろう。
「お前さーー、タイプじゃないんだよね」
バッサリと言い切る司に言葉を失う。今まで好意を寄せられる事があっても、自身からの告白は初めてだ。それにも関わらず眼中にないような態度に、諦め切れるはずがない。
「ーーっ、わ、私の方が、メリットがあると思うけど?!」
「ふぅーーん、じゃあ証明してみろよ?」
「証明したら、付き合ってくれるの?!」
「ああ、二番目ならな」
馬鹿な会話をする愚か者たちだが、容姿も家柄も上澄みに入る。といっても澄み切ってはいない為、良く言えば中の上だろう。
勘違い野郎の増殖は、自身の間違いを認められない事だ。彼らも自分が一番正しいのだと、そう信じて疑う事を知らないのだ。
「ちょっと! 雪乃ちゃん、酷い!」
「えっ……なに??」
唐突な難癖に、驚いたのは雪乃だけではない。側にいた幼馴染も含め、クラスメイトが一気に非常識な彼女に視線を集める。
「私が司くんの事、好きなの知ってたでしょ?!」
「ーーーーこの子、何言ってるの?」
「愛理ちゃんは黙ってて!! なんで雪乃ちゃんが一番で! 私が二番目なのよ?!」
身に覚えのない雪乃にも、幼馴染にも、ただの言いがかりにしか聞こえない。少なくとも雪乃と仲のいい友人には、彼女の支離滅裂な言い分を聞き入れるような者はいない。
そもそも付き合っていないのは二人を見れば明らかだが、恋は盲目なのだろう。司が振られるとは思えず、激しい思い込みが現実として独り歩きした結果だ。彼女にとって花山院司は、ヒーローのような存在だった。
「少し可愛いからって、調子に乗らないで!! 私の方がすごいんだから!! パパは会社を経営してるし、外車だってあるし!!」
ここで言い返せば、また違ったかもしれないが、雪乃が口を挟む事はない。まるで聞く耳を持たない彼女に、説明する事を諦めたようだ。
「お家だって広いんだから!! 毎年、海外旅行にだって行ってるし!! 雪乃ちゃん家はどうなの?!」
告白の件から自慢話になり、意味不明な言い分は更に続く。彼女は自身と付き合うメリットを披露しているつもりだが、幼馴染から見てもメリットに感じられる要素は一つもない。桁違いの財力を持つ藤宮家に噛み付く方がどうかしているのだ。
「ーーっ、雪乃ちゃんがいなければ、司くんは私のものなのに!!」
尊大な態度は司といい勝負だ。
藤宮家を知らないだけで無知を晒しているようなものだ。教室には、雪乃と同じく生粋のお嬢様やお坊ちゃんも少数派だがいる。西園寺や財前、蓬莱家の名を知らない時点で、彼女は同じ土俵に上がる事すら許されていないのだ。
「ーーーー何? 俺の話??」
勘違い野郎二号の登場に、愛理だけでなく風磨や清隆でさえも嫌な顔が丸出しである。
司に好意を抱く女子もいるのは、彼の端正な顔立ちからだろう。勉強はともかくスポーツは得意な為、モテる要素ではあるが、風磨や清隆に比べれば数段劣る。ただ二人には常に雪乃と愛理がいる為、告白数でいえば彼の方が多いのかもしれない。
自分の思い通りにいかない。これは司と彼女にとって、初めての挫折だろう。短い人生の中で思いのままだった事が、このクラスになり簡単に崩れた。
分かりやすい実力主義で、成績は常に三十位以内が張り出される。たいてい首位は雪乃で、二位から四位までを幼馴染の独占が続く。付け入る隙が無いうえ、四人はとても仲が良い。
愛理と風磨の言い合いはこの頃から健在だが、一日もかからず仲直り出来てしまうカップルだ。
「司くん! 雪乃ちゃんと付き合ってるんでしょ?!」
「ああ」
満面の笑みで肯定されても困る。雪乃自身に告白をされた覚えも、した覚えもない。花山院家に関してはグレーな部分が多い為、付き合いを控えたい相手という認識だ。
どうしても家柄で見てしまう部分があった。雪乃自身がそうされてしまうように。
「ほら! やっぱり付き合ってるんじゃない!!」
「付き合ってないよ」
ようやく口にした言葉に納得がいかないのは司だ。
「は? 雪乃、付き合ってくれるだろ?!」
「……お断りさせていただきます」
「は?! 何でだよ!!」
本気で交際できると思っていたのだろう。詰め寄る司の手を払い除けたのは清隆だ。
「ーーーーっ、何するんだよ?! 財前!!」
「五月蝿いな」
「なっ!!」
「雪乃に想い人がいたとしても、それはお前じゃない」
「は?!」
「お前なんかを許す訳がないだろ?」
花山院家と他会社の取り引きを辞めさせる権限はなくとも、告げ口は出来る。今日の事を藤宮家が知れば、明日には倒産に追いやられる企業も出るだろう。同じように親が小さな会社を経営する令嬢や令息の中には、その意味を理解出来る者が少なからずいた。
それ程までに絶対的な存在なのだが、自身が一番という思い込みが災いして司は認める事が出来ない。振られるとは微塵も思っていなかったのだ。
「ーーーーっ、どういう意味だよ?!」
「そのままの意味よ……」
司にとっても意外だったのだろう。雪乃からの反論にたじろぐ。
「……そもそも、司くんとお付き合いした覚えもないのに、適当なこと言わないで」
「雪乃、行くぞ?」
「うん……」
清隆に手を引かれ、教室を後にした。
「ーーーー雪乃、大丈夫か? 変なのに絡まれたな」
「うん……あの人……あそこまで、ひどくなかったのに……」
「ああ、誰かに唆されんだろ?」
「うん……」
風磨と愛理のように雪乃は清隆とセットで見られる事が多かった。四人でいる場面を目撃すれば、美男美女のダブルカップルと誰もが思うだろう。
今も手を引かれたまま、清隆が見せつけるように歩いていく。
「…………キヨ、ありがとう」
「雪乃は察し良すぎ……少しは俺たちを頼れよ?」
「うん……」
頷きながらも、これ以上は迷惑をかけられないと考えを巡らせる。路頭に迷う者が出ることは雪乃にとっても不本意だ。
幼心に報告できないと悟り、それが波紋を呼ぶ。司を想う彼女よりも、花山院家と関わりのある家は少数派でも確かにいたのだ。