第22話 君の理由①
握られた手が痛いくらいに熱く感じて、どうしたらいいか分からなくなった。
初恋は実らないというけれど、私の初恋は……間違いなく匠さんだった。
大きな手が頭に触れる度、いつからか春兄に想う感情とは違うことに気づいた。
もっと、早く生まれたかった…………そんなことを言っても仕方のないことだって分かってはいるけど、それでも願っていたの…………
「雪乃ーー、一緒に歌おうよーー」
「うん!」
愛理とデンモクから曲を入れる。匠の車でも流れていた曲だ。三年A組は総合優勝した為、そのお祝いも兼ねてカラオケ店に打ち上げに来ていた。といっても、すでに二次会である。
最初は知人のカフェを貸し切って打ち上げが行われていたが、お酒がなくてもここまで盛り上がれるのは十代の特権だろう。優勝の金一封もあり、贅沢な打ち上げだ。
「雪乃、彼氏が来てたんでしょ?」
「うん……」
何度目になるか分からない程の質問だが、変わらずに頷いて応える。学園祭で見せたように微かに頬が染まる事はなくとも、雪乃の初めてのロマンスに友人は嬉しそうだ。
「雪乃はあげないんだからーー」
「もう、愛理ちゃんたら! 愛理ちゃんには蓬莱くんがいるじゃない!」
「そうそう、蓬莱くんのスーツ姿、かっこよかったよね!」
「まぁー、風磨にしてはね♡」
「うわっ、嬉しそうにしちゃってーー」
話題を逸らしてくれた愛理に感謝しながら、微笑んでみせる。盛り上がる中、緊張感が消えないでいたのは彼と約束をしたからだ。この後に会うことになっている為、昼から続いた打ち上げをそろそろ抜け出したい所である。
二次会は自由参加の為、すでに帰宅している者もいるが大多数はカラオケを楽しんでいた。この流れで三次会まで開かれそうな勢いだ。
「ーーーーそろそろ帰るね」
「えーーっ、雪乃、帰っちゃうのーー?」
「もっと歌っていこうよーー」
マイクを使ったまま引き止められ、申し訳ない気持ちになりながらも頷く。
「うん……」
「雪乃、気をつけてねーー」
「ありがとう、愛理」
愛理にしては珍しく素直に見送った。目の保養がいなくなり、肩を落とすクラスメイトもいるが、構う事なく後にした雪乃は前を向いていた。
タイミングを見計らったかのようにスマホが鳴り、ディスプレイに頬を緩ませると甘い声が響く。
「ーーーーいた」
振り返ればスマホを持った匠が少し息を切らしている。
「……匠さん……お疲れさまです……」
「あぁー、ありがとう……抜け出して、大丈夫だった?」
「うん……」
伝えると決めていた想いが巡り、本人を前にすると何も言えなくなる。口数の減った雪乃に手が差し出され、そっと握り返すと、向けられる視線に心音が速まっていく。
「夕飯の前に寄ってもいい?」
「うん……」
以前訪れた店ではないが、ハイブランドに入っていく匠の少し後ろを歩く。今日はクラスの打ち上げという事もあり、雪乃はスカートだが足元はスニーカーと、比較的にラフな装いだ。それに対し匠は、まだ暑さが残る九月だというのにジャケットをきっちりと着こなしていた。
「ーーーー匠さん……」
「どうしようかな……今のもいいな……」
試着室から出てくる度、雪乃の服装チェックが行われていた。デジャブ感が否めない雪乃に対し、匠は至って真剣な様子だ。完全なる個室に二人きりという事はすっかりと抜け落ち、兄並みに着飾りたがる彼の意外な一面を見た気がした。
以前は春翔もいた事もあり、彼なりに自重していたのだろう。試着を終える度に写真を撮る為、一人ファッションショーである。
「これを着ていくので」
「かしこまりました」
店員に頼み、着ていた私服は購入した服と共に郵送となった。雪乃は彼とも色の合うフレアなワンピース姿である。
「あ、あの……」
「どうした?」
さりげなく右手を取られ、それ以上の言葉は出ない。
「行こうか」
「……うん…………」
促されるままついて行く雪乃は、ほとんど会話が頭に入っていない。ただ相槌を打つだけで精一杯で、匠にはまだ幼さの残る彼女を思い出させたが、当の本人はそれどころではない。人生ではじめての告白を前に、不安が押し寄せていた。
あれだけアプローチを受けながらも過るのは、中等部になったばかりの頃の彼の言葉だ。苦い記憶は消えず、言葉を失っていった。
「ーーーーー綺麗……」
眼下には夜景が広がり、思わず出た呟きに微笑まれ、胸が鳴る。
「……適当に頼んでいい?」
「うん……」
夜景の綺麗なレストランの個室に二人きりだ。
雪乃が高級店の利用に慣れているとはいえ、まだ高校生だ。八年分の経験の差があるのだろう。スムーズなオーダーはいつもの事だが、店選びのセンスが光る。広い窓から夜景を眺め、隣り合った椅子に腰掛ける最高のロケーションだ。
「総合優勝おめでとう」
「ありがとうございます……」
ソフトドリンクとノンアルコールで乾杯をし、祝杯をあげる。先ほどまでいたカラオケ店とは違い、落ち着いた雰囲気が漂う。
何度となく口を開こうとしては上手く言葉に出来ない雪乃は、食事を楽しむように促され小さく頷く。匠のチョイスした料理は素材の良さだけでなく、見た目にも料理長のこだわりが感じられる一品ばかりだ。
「ーーーー美味しい……」
「それはよかった」
「匠さんの連れて行ってくれたお店は、どれも素敵ですよ」
「君の好みだった?」
「……うん」
コーヒーで締め括られたディナーはどれも絶品であった。匠の話術のおかげもあり無言になる事はなく、いつの間にか食事を楽しんでいた。
最初は緊張した面持ちで口数が極端に減った雪乃も、今ではスムーズに言葉を紡いでいる。
「ーーーー匠さん……今日は、お時間を作って下さって、ありがとうございます……」
「あぁー、これくらいなんて事ないよ」
「……あの、私…………」
「雪乃ちゃん、俺から先にいいかな?」
視線を上げれば、真剣な瞳の匠と交わる。小さく頷くと、目の前に小さな箱が差し出された。
「ーーーー藤宮雪乃さん……俺と、結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」
口元を手で覆った雪乃から涙が溢れる。考えもしなかった言葉が、心の奥に染み込んでいくようだ。
緊張していたのは彼女だけではない。彼もまたプロポーズに緊張していたが、顔に出ていなかったのは経験値の差だろう。返事を待つ表情に変化はないように見える。
「ーーーーはい…………私は、匠さんが……すきです…………」
自然と出た言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
「……一條匠さん…………これからも、よろしくお願い致します」
「あぁー、こちらこそ……」
左手を取られ、大粒のダイヤモンドが輝く指輪が薬指にぴったりと収まると、先に息を吐き出したのは匠であった。
「はぁーーーーー…………よかった……」
「…………匠さん?」
「これでも緊張してたんだ……」
彼女の驚いた様子に苦笑いを浮かべる。
「…………雪乃ちゃんとの歳の差は埋められないし、仮でも強引に婚約者になった自覚があったからな」
「そんなこと……」
「あるよ。俺は、どうしても君がよかったんだ……」
匠ほどの相手なら結婚相手に苦労はしないだろう。わざわざまだ学生の雪乃を選ぶとは考えにくい。デメリットの方が真っ先に浮かぶくらいには、自身の存在を認識していた。
「…………何故かって?」
見透かされた言葉に頷く。想いを自覚しても、払拭されない現実がある。
藤宮家の娘としての利用価値は自身も十分に理解していたが、これから起業を試みる訳でも、新たな市場に手を出す訳でもない。だからこそ疑問が残り、伝える言葉がすんなりと出てこなかったのだ。
「君に……救われた事があるからだよ」
「ーーーー私に?」
「あぁー……」
真剣な眼差しに吸い込まれそうになりながら、言葉を待つ。春翔の友人という事で、物心ついた頃は兄のような存在だった。いつしか恋心へと変化したが、伝えるつもりはなかった。雪乃自身が妹のように思われていると知っていたからだ。
今、目の前の彼が知らない人のように映る。自身が救われた事はあっても、誰かを救った事があるとは思えない。
少し驚いた表情に気づき、匠が手を伸ばすと、触れられた頬から熱を帯びていくように染まっていく。
「少し、付き合ってくれるか?」
「うん…………」
匠から語られる言葉に、自身の想いも駆け巡る。
『月が綺麗ですねーー』
『あぁー…………雪乃ちゃんと見てるから、かもね』
『ふふふ、満月は吸い込まれそうですよね』
じんわりと夜空に滲み、曖昧な輪郭のまま輝く姿に心が揺れた。それは幼いながらに初恋と自覚した瞬間であり、彼が起業すると心に決めた日でもあった。