第16話 ジェラシーとトリプルデート
「ーーーー着いたよ」
「は、はい……」
ベッドに腰掛けたのは彼で、雪乃は膝の上に乗ったままだ。微かに震える肩は抱き寄せられ、身動きが取れそうにない。
「…………匠さん……あの、ありがとうございました……」
「いや……もっと、早く来れたらよかった……」
「……お仕事、お疲れさまです」
気丈に振る舞う雪乃に微笑んでみせるが、怒りは収まりそうにない。
「……ありがとう…………シャワー、浴びておいで? 送ってく」
「はい……」
すっかりと敬語に戻った雪乃を責めるつもりはないが、衝動的に触れてしまいそうになった手を見下ろした。
匠は浴室に促す事で回避したが、本当に恋人だったなら消毒と称して触れていただろう。
「ーーーー危なっかしいな……」
雪乃が幼馴染と離れていた時間は三分とないだろう。清隆が匠を呼んでそろそろ戻ると分かっていたからこそ、一人にしたのだ。昨年は何事もなかった為、今年も数分なら一人にしても大丈夫だとタカを括っていたが、酔っ払いに絡まれる羽目になった。
彼女に触れる男を見て、一目散に駆け出した匠は有無を言わせず抱き上げていた。
感情を持て余していると、ドライヤーの音が聞こえてきた為、扉をノックしてから声をかけた。
「…………雪乃ちゃん、着替えた?」
「は、はい!」
慌てた声色さえも可愛らしく、思わず笑みが溢れそうだが、すぐに消えていく。
「……こっちで乾かしたら?」
「はい……」
横開きの扉を開け、顔を出した雪乃の瞼は微かに赤い。お風呂上がりだからという理由だけではないだろうと、匠は結論づけた。
「乾かさしてね」
ドライヤーを取り、ソファーに座るように促す。
雪乃は誘導されるまま腰を下ろし、髪をすく手に安心感を覚えていた。
「ーーーー匠さん……」
「ん? もう少しだよ?」
「はい……」
はじめてでは無いとはいえ、あそこまで強引な絡まれ方は滅多にない。優しく触れられ、先程までの嫌悪感が薄れていくようだ。
「……終わったよ?」
「あ、ありがとうございます!」
耳元で囁かれ、冷めた熱が一気に上がる。
車に乗り込んだ後も落ち着かない様子だ。沈黙が流れるなか助手席に座る彼女は、窓の外を眺めていた。
今頃になって、思い出すなんて…………
「どうした?」
「いえ……」
心を占めるのは恐怖心ではなく、お姫様抱っこされたという事実だ。微かに染まる頬に自身も驚いていた。
「ーーーー雪乃ちゃん、またね」
「はい……おやすみなさい……」
「おやすみ」
玄関先まで見送った匠に手を振り、一人きりになると視界が滲んでいった。一度味わった恐怖心は、すぐに払拭されるものではない。雪乃が思い出さないように努力していただけだ。
涙を拭い、鍵をかけようとした所で扉が勢いよく開く。
「ーーーーっ、た、匠さん?!」
次の瞬間、強く抱き寄せられていた。
「…………一人で泣かないでくれ」
声にならず小さく頷き、涙が溢れる。
「…………肩の他に、触られた?」
「……腰……を……」
そっと腰に触れられ、嫌悪感を感じない事に戸惑う。思えば触れられるのが、はじめてでは無いことに気づく。
「眠るまで、そばにいても?」
「い、いえ……あの、大丈夫です……」
拒否されても強引に居座る事もできたが、泣き止んだ頬に触れると顔色が戻っていた。匠も些細な違いに気づいていたのだ。
「ーーーー分かった……」
もう一度、『おやすみ』と言って、彼に触れられた頭に手を伸ばす。残っていたはずの嫌悪感も恐怖心も、すっかりと消え去っていた。
ガーデンプールで絡まれるという事態になったが、幼馴染とプールを満喫した事は夏のいい思い出だ。
あの後、三人が心配して電話やメールをくれたが、雪乃にとって一番印象深いのは匠の腕の温もりだった。
「んーーーー……」
キーボードから手を離し、大きく伸びをした。
受験勉強の合間に執筆するというよりも、執筆の合間に勉強をしていた。無心になれるのも一つの要因だ。
「海外か…………」
シズが来ない日が多い事もあり、独り言は健在である。
大学の資料を読みながら、海外を視野に考えていた。今のままでは駄目だという思いと、兄や匠が出た大学に通ってみたいというのが一番の動機だ。
昼食を終え、手早く片付けを済ませると、またパソコンと向き合う。読み返して誤字脱字を確認し、メールに添付した。
書籍化はひと段落つき、新作も順調な滑り出しだ。スムーズに描いていく横顔は、どこか楽しげである。
スマホのバイブ音に気づき手を止めるが、ディスプレイに表示される人物に緊張した面持ちになった。
「ーーーーもしもし……」
『雪乃ちゃん、明日は大丈夫?』
「うん……匠さんは?」
『俺は平気だけど、言いにくいなら断っとくよ?』
「ううん……行きたいから……」
『そう……なら、いいけど……』
話すのは一週間ぶりだ。あの日以来、メッセージのやり取りしかしていなかった為、緊張しながらも言葉遣いは改められていく。
「明日、楽しみにしてるね」
『あぁー、俺も。一人だけおじさんだけど、許してね』
「そんなことないよ? 匠さんは、若いと思うけど……」
内心では喜ぶ匠だが、八歳の差が縮まる事はない。側から見れば、引率の先生という感じだろう。高校生の雪乃と二十六歳になる匠とでは、それだけの差があるのだ。
予定を確かめ合って通話を終えても、ドキドキと高鳴る心音に落ち着かない。一週間経ったというのに、声を聞いただけで蘇るのは抱き寄せられた記憶だった。
デートの時と同じように、車で迎えに来た匠の助手席に乗り込んだ。十五分ほどで目的地に到着の為、車内が無言になる事はないが、まっすぐに目を見て話せなくなっていた。
「六時まで貸し切りなんて、冬時さんに感謝だな」
「うん……」
嬉しそうな匠に対し、雪乃は複雑な面持ちだ。
ーーーー聞いてない…………というか、やり過ぎでしょ?!
これでも本家にいた頃よりは抑えられている。以前だったなら、たとえ当日に行き先が決まったとしても、一日中貸し切りを選択されていただろう。
「やり過ぎだと思う?」
「……うん」
素直に頷く雪乃は、察しの良さに驚いたようだ。
「プールの一件もあるから、冬時さんなりに心配しての事じゃないかな」
「うん……そうですね……」
祖父の気持ちが分からないほど、鈍感な訳ではない。報告を怠ると、更に過保護になる事は目に見えている為、プールの件は雪乃からも報告済みである。
テーマパークに着くと、だだっ広い駐車場には三台の高級外車しか止まっていない。
待ち構えていたキャラクターたちと写真を撮った一行は、さっそく別行動だ。
愛理と風磨はかなり乗り気で、駐車場からキャラクターの耳を装着済みだし、清隆と茉莉奈は仲良く手を繋ぎ、乗り物の全制覇を目論んでいる。
雪乃と匠はパンフレットを見ながら、のんびりと巡るようだ。
「じゃあ、また後でね!」
「ああ、夕飯くらいは一緒に食べるだろ?」
「うん」
「六時にブルーバイユーな!」
手を振り分かれていくが、繋がれた右手が熱い。
意識した事のなかった雪乃にとって、この状況はかなり気まずい。どうしても人前で泣いてしまった事実が脳裏を過るが、顔に似合わない心の叫びが伝わるはずはなく二人きりだ。
「雪乃ちゃん、どこから行く?」
「そうだね……マウンテン系とか?」
「あぁー、意外と絶叫系が好きだよね」
「うん、匠さんは?」
「俺も好きだけど、ここに来るのは久しぶりだな」
相変わらず会話のキャッチボールは秀逸だが、どこか緊張感が残る。
冬時が貸し切った為、広いパーク内ですれ違う事は少ないだろう。通常は混雑するショップに入っても、ゆったり買い物が出来るし、二時間以上待つアトラクションも、すぐに乗車可能だ。決まった時間に行われるパレードやショーも、六人だけの為に行う贅沢さである。
「ーーーーなんか新鮮だな」
「どうしたの?」
「いや、雪乃ちゃんがハンバーガー食べてるのが珍しくて」
「そうかな? そんなに珍しくないと思うけど……」
テラス席を貸し切ってパレードを眺めながらの昼食だ。残りのカップルも、同じように貸し切って眺めている事だろう。
「……あっ、手、振ってる」
振り返す雪乃の可愛らしい姿に釣られ、匠もキャラクターに手を振った。
開店と同時に入場したのにも関わらず、楽しい時間はすぐに過ぎ去っていく。乗り物の全制覇は勿論のこと、パレードやショーも最前列で満喫だ。
家族へのお土産も忘れずに購入し、二人きりの時間が終わる。最初は緊張気味だった雪乃も、レストランで夕飯をとる頃には通常運転に戻っていた。
静かな入り江に面した、美しさがあふれる十九世紀半ばのアメリカ南部が再現されたレストランは、薄暗い店内でありながらロマンティックな雰囲気が漂う。
別行動していた六人が揃った為、雪乃たちが着いたテーブルはそんな雰囲気とはかけ離れていた。
「んーーーー、美味しい♡」
「うん、美味しいね」
「ああ、昼はどこで食ったんだ?」
「俺たちはラーメンだな」
「キヨ、好きだよね。茉莉奈ちゃん、タピオカは飲めた?」
「飲めました! 美味しかったです!」
学生の会話を懐かしむように見つめる匠は、実際に引率の先生感がある。テーブルに揃うオマール海老やローストビーフ等のフレンチスタイルのコース料理との振り幅は大きいが、特に気にする素振りはない。匠から見てもマナーは完璧である。
外に出る頃にはすっかりと日が暮れ、残すイベントまで三十分ほどだ。
「またねー」
「うん、またね」
「あぁー、みんな気をつけてね」
「はい!」
宿泊予定の愛理たちは閉園時間まで楽しむのだろう。清隆は茉莉奈を連れて帰宅していった。
また二人きりになった雪乃は、手を引かれるがまま歩いていく。先程までとは違い、人が溢れるなか特等席に腰掛けた。
「わっ…………」
激しい音と共に打ち上がる花火の数々に瞳が輝く。
思わず声を上げた雪乃は、ライトアップされた城と花火を楽しんでいた。
「……綺麗…………」
「あぁー…………君がね……」
その囁きはあまりに小さく、伝わる事はない。
ただ五分ほどの僅かな時間も手が離れる事はなく、空を見上げているのだった。