第12話 雨上がり
シズを見送ると一人で夕飯をとり、毎晩のルーティンである執筆を行う。
新たな作品を生み出す時は時間がかかるものの、一度決めてしまえば迷う事なく書き進めていける。書籍化作業は順調で、投稿分は夏季休暇を前に終わりそうな勢いだ。
『ーーーー雪乃ちゃん、今日、大丈夫だった?』
電話の相手は匠だ。メッセージのように毎日ではなくなったが、週に三、四回は電話のやり取りをしている。その彼からの第一声は、夕方の隠し撮りについて言っているのだろう。
あのあと話を聞き、愛理との写真を無断で撮られていたと知った雪乃だが、彼の情報網はどこにあるのだろう。そう考えながらも、清隆か風磨が報告をしたと悟った。実際には二人とも報告していたのだ。
「うん……風磨が削除してくれたから大丈夫だったよ?」
『そうか……』
問題はないと分かっていても、本人の口から聞くまでは安心できなかったような声色だ。
「匠さん……お仕事、お疲れさまです」
『ありがとう。雪乃ちゃんもお疲れさま』
「うん……」
『模試の結果、どうだった?』
「あっ、匠さんのおかげで一位でしたよ」
『一位? すごいな……お祝いしなくちゃな』
「ありがとうございます。今日は、キヨにアイスを奢ってもらいました」
『みんな、成績優秀だね。志望校は決まった?』
「まだ……迷っていて……」
『そうか……よく考えるといい。何が自分にとって最善か』
「最善……?」
『あぁー、そうすれば、やっぱり違う方を選んでいればと思っても、後悔は少ないだろ?』
「そうですね……」
すでに社会に出て会社経営をする匠にも悩みはある。どうせ後悔をするなら少ない方がいいと、選択に迫られた際に念頭に置いているのは彼の経験談だ。
『ーーーー今週は会えそう?』
「そうですね……」
マウスをクリックし予定表を開く。今週の土日は空白の為、会う事は可能だ。
「私は大丈夫だけど……匠さんは忙しいんじゃ……」
『来週は厳しいけど、ちょうど今週は空いてるんだ。どこか行きたい所ある?』
「そうですね……個展はどうかな?」
『個展?』
「フォトグラファーの菅原さんは知ってるよね?」
『あぁー、あの世界的に有名な?』
「うん……ちょうど、今週末からはじまるの」
『それは見てみたいな。六本木だっけ?』
「うん、知ってたの?」
『あぁー、見に行きたいとは思ってたんだ』
以前よりも会話は弾み、三十分ほど通話をしている。気づけば、それくらいの時間が経っているのだ。
『おやすみ』
「おやすみなさい……」
無意識に名残惜しさが滲んだような声色になっていた。
はじめてのデートから一週間。
両サイドを編み込みにし、レース柄のトップスにロングスカート、足元はバレーシューズだ。前回とは違う服装だが、トップスはプレゼントして貰ったものだ。
「雪乃ちゃん、それ……」
「うん、匠さんにもらったから……」
「可愛い」
「ありがとうございます……」
頬を染め応える姿に、さらに可愛らしいと思った事だろう。匠も照れくささを隠すように車を走らせた。
「今日の昼はパスタでいい?」
「うん、生パスタのお店だよね?」
「あぁー、雪乃ちゃんも行った事あるって言ってたよな」
「うん」
雪乃の自宅から車で十五分ほどの距離はあっという間だ。
ヨーロッパ調の落ち着いた雰囲気の店内で、個室になった赤いソファーに並んで腰掛けた。
車内よりも近い距離感で落ち着かない様子の雪乃に対し、匠は優しい眼差しを向ける。甘い雰囲気が漂う中、前菜が運ばれてきた。
「美味しい……」
「あぁー、雪乃ちゃんは、休日は自炊してるんでしょ?」
「うん、でも最近は……作っても簡単なものだよ」
「いつか……君の料理を食べてみたいな」
「うっ……頑張ります……」
拒否されなかった事に微笑む匠に対し、雪乃自身は無自覚なのだろう。特に意識する様子はなく、生パスタを口に運び幸せそうだ。
「菅原さんは知り合いなんだっけ?」
「うん、祖父の…………今回は久しぶりに日本で行うから、楽しみで……」
「そうか……俺も、それは楽しみだな」
肩が触れ合うほどの距離ではないが、雪乃にとっては落ち着かない距離感だ。
それでも彼と話しているうちに薄れていき、昼食を終える頃には笑い合っていた。微笑まれる度、彼が胸を高鳴らせている事には気づかなかったが。
「行こうか」
「うん」
並んで手を繋いで歩いていく姿に振り返る人は多い。美男美女のカップルに、思わず振り返ってしまうのだろう。今日の服装からも彼女が高校生とは思えず、お似合いである。
「雨、降りそうだな」
「うん、折りたたみ傘、持ってきてるよ?」
「さすが、降ったら入れてね」
「うん」
梅雨時の空は鈍色だが、二人の距離感は初めてのデートよりも近い。個展の行われているビルに入ってからも距離が離れる事はない。
隣で展示品を見つめる雪乃から感動している様子が見てとれる。子供の後ろ姿に微笑み、ピンク色のオーロラに驚く。それは些細な変化で、きっと匠だからこそ分かった感情だ。
「ーーーー雪乃ちゃん?」
振り返ると、ロマンスグレーの長髪を一つに結んだ長身の男性がいた。
「菅原さん、お久しぶりです」
「あら、彼氏さんと来てくれたの?」
「はい……」
初対面とはいえ、彼について匠が知らない訳がない。この個展を開いた張本人だ。
「はじめまして、一條匠と申します」
「はじめまして、匠くんね。君もいい被写体になりそうね」
ずいっと、距離を縮めてくる彼に動じる事なく応えると、爽やかに微笑まれる。どうやらどの程度の男か品定めされていたようだと、そこまでは匠にも分かった。
「またお写真撮らしてね」
「はい」
頭に触れ去っていく姿に、嫉妬心が湧く。匠の余裕のない表情に、彼はにんまり顔の横顔で去っていった。
「ーーーー匠さん?」
「いや、本人に会えると思ってなかったから……」
「気さくな方でしょ?」
「あぁー」
彼が一瞬でも微妙な表情をしていた事には気づいても、何故していたのかまでは見当がつかない。頭の回転がいい雪乃であっても、彼が嫉妬するとは考えもしないのだ。二回り以上歳が離れている相手に、ヤキモチを妬くはずがないと。
「ーーーー匠さん?」
半分以上こちらに傾ける傘に微笑む。天気予報通り、ビルを出る頃には雨模様になっていた。
「ありがとう、俺が持つよ」
「……うん……ありがとう……」
傘を持った匠が肩を引き寄せる。
「濡れるよ」
「うん……」
ぴったりと寄り添うほど近くなり、心音が聞こえそうだ。傘で隠れていて良かったと思うのはお互い様だろう。頬を染める雪乃に釣られ、匠まで照れた様子だ。
駐車場のあるビルまでの短い距離でも、熱を帯びる姿が傘で隠れていた。
「夕飯、一緒に食べれる?」
「うん……匠さんは?」
「駄目だったら、誘ったりしないよ」
「そっか……」
「雪乃ちゃんは何系が食べたい?」
「パスタ以外なら、匠さんは?」
時折、見上げる姿は外から隠せても意味がない。桜色の頬に、アイスブルーの瞳がまっすぐな視線を向けてくると、思わず抱き寄せてしまいたくなる。そんな衝動に駆られている事に雪乃が気づくはずはなく、柔らかな笑みを浮かべた。
「ーーーー君の……ご飯、食べたい」
「私の?」
「あぁー」
「いいですけど…………」
黙ってしまったため撤回しようとしたが、匠より先に応えが返ってきた。
「…………お肉とお魚、どっちがいい?」
「いいの?」
「駄目だったら、聞かないよ?」
「…………魚で」
「買い物してから帰ってもいい?」
「あぁー……」
まだ戸惑った様子の匠に呟く。
「いつか……食べてみたいって言ってくれたから…………」
ハンドル操作を誤らなかったのは、評価して欲しい所だろう。染まる頬と、昼間の何気ない会話を気に留めていた事に、込み上げてくる想いがあった。
急遽、スーパーの立ち寄り、雪乃の自宅に向かう。前回とは違い春翔がいる訳ではない。正真正銘、二人きりの空間だ。
「シズさんが作ってくれたポテトサラダも出していいですか?」
「あぁー」
ソファーに座るように促され、テレビを見て待つ事になった匠だが、ニュースの内容は頭に入ってこない。横目でキッチンに立つ雪乃をそっと眺める。真剣なエプロン姿が、どこか微笑ましい。
「匠さん、お待たせしました」
「美味しそう……」
テーブルには焼き魚にポテトサラダ、玄米入りのご飯に、味噌汁、金平牛蒡に茄子の煮浸しと、和食がメインの料理が綺麗に並べられていた。
『いただきます』
揃って手を合わせ、食べ始める。少し緊張した面持ちの雪乃とは違い、匠は感心した様子だ。
「美味しい……雪乃ちゃんは、料理上手だね」
「ありがとう……少し、緊張してたからよかった……」
「緊張?」
「うん……はじめてだから、ここで誰かに食事を振る舞うのは」
「…………春翔は?」
「春兄? 実家にいた頃は、食べたこともあるけど……ここでは、お菓子がほとんどですね」
「そうなんだ……」
頬が染まりそうになるのを誤魔化すように味噌汁をすする。きちんと出汁の取った味がして、お世辞ではなくどれも絶品だった。
「ごちそうさま……食器くらいは洗わせて?」
「うん……」
匠に押し負け、並んで食器を片付けていく。
勢いよく降っていた雨は、いつの間にか止んでいた。
「匠さん、今日もありがとう。気をつけて帰ってね」
「あぁー……」
玄関先で見送ると、不意に引き寄せられた。
「ーーーーっ!!」
驚いて声が出ない雪乃とは違い、衝動的とはいえ匠は冷静さを保っていた。
「ーーーーありがとう…………またね」
「う、うん…………おやすみなさい……」
「おやすみ……」
耳元に唇が触れた気がして、その場にしゃがみ込んだ頬は真っ赤に色づく。
扉の閉まる音は遠くに聞こえ、返し忘れたハンカチが手元に残っていた。