第10話 はじめてのデート
雪乃はシルクシフォン素材の花柄のワンピースに、白いスニーカーを履いていた。ワンピースは匠がプレゼントしたもので、簡単に髪を巻いて、うっすらと化粧もしている。
マンションのロビーで待っていると、一台の高級外車が止まった。スマホのメッセージでエントランスを出れば、匠が窓から手を振っている。
「匠さん、おはようございます」
「おはよう、映画が終わってからランチで大丈夫?」
「はい」
昨夜、映画の後にランチという話はしていた為、お腹が空いてないかという確認のようだ。
「ーーーーこの間も思ったけど、運転が珍しい?」
左ハンドルに視線を感じ、そう告げる匠の助手席に雪乃は座っていた。
「はい……」
「あ、今日は敬語、頑張ってみて」
「そうでした…………うん……いつから、乗ってるの?」
「あーーーー、高校卒業してからかな。大学入学前には免許取ったからね」
「そうなんだ……」
「興味ある?」
「うん……でも、運転はしなくていいって言われてて……」
雪乃の境遇なら、そうなるだろう。本家には専属の運転手がいるし、移動手段ならタクシーでも事足りる。わざわざ運転する必要性はない。
「どこか行きたい所があるなら、俺が連れて行くよ」
「……ありがとうございます」
社交辞令と分かっていても、微かに染まり言葉に詰まる。
穏やかな栗色の瞳を向けられて、ときめかない人はいないだろう。そう他人事のように考えていた。視野が広すぎるあまり、客観的に物事を捉えてしまうようだ。
「ダージリンもあるよ?」
「うん……」
メニューを見ながら告げる匠との距離は近い。車を降りてから手を繋いだままだが、それだけが理由ではない。プライベートルーム型のバルコニー席だからだ。
高級感漂うソファーに並んで座る距離に、緊張感が高まる。雪乃にとってプラチナルームが初めての経験ではないはずだが、心音が忙しないのだ。
緊張感を少しでも和らげるように喉を潤し、スクリーンを見つめる。最初は集中できていなかった雪乃だが、見たかった映画という事で徐々に吸い込まれていった。
感情が押し寄せ、瞳が潤む。鞄を取ろうとした所で、真新しいハンカチが差し出された。視線を上げれば、『使って?』と目で合図をする匠がいる。
多少の声を出しても周囲に人がいないから構わないのだが、彼なりの気遣いだろう。小さく頷き、目元を拭うと、匠の視線はスクリーンに向けられていた。
稀に見る感動作品に雪乃の涙腺は崩壊気味だ。渡されたハンカチで目元を拭いながら、最後まで楽しんでいた。
ーーーー【君青】も、こんな風に……感動して、見てくれる人がいるのかな………
頭を過るのは自分の作品についてだ。映画自体にノータッチとはいえ、原作者として観客の反応は気になるのだろう。今も上映され、興行収入一位に迫る勢いが全てを物語っているが、自身にはそれだけの自信がないのだ。
「面白かった?」
「はい、とっても!」
応えてすぐ気づいたのだろう。敬語に戻り、改める。
「匠さん、ハンカチは洗ってから返してもいい?」
「そのままでもいいよ?」
「うん……だいぶ、濡らしちゃったから……」
「なら、お願いしようかな。いつでもいいから」
「うん」
雪乃がお手洗いから戻ると、先に出て来た匠を遠巻きに見ている人たちに気づく。
ーーーーやっぱり、目立つ人だよね…………
「雪乃ちゃん」
にこやかに微笑まれ、駆け寄ってくる姿に重なるのは遠い日の記憶だ。
「行こうか」
腰を引き寄せられ、ぎゅっと縮まった距離に萎縮しながらも離れる事はない。嫌がられない事を理由に、ランチの店までそのままだったが、そんな彼の想いに雪乃が気づく事もない。
落ち着いた雰囲気の純和室の店内は、雪乃に本家を思い出させる。今でこそフローリングがメインだが、祖父母の部屋は変わらずに畳で、お茶を楽しむ庭園まで完備されているのだ。
「ーーーー美味しい……」
「よかった……ここは初めて?」
「うん、匠さんはよく来るんですか?」
「時間に余裕があればね。お昼時はどこも混んでるから」
新鮮なこだわり野菜や、厳選魚、良質なお肉を使っている事は雪乃にも分かる。季節の移り変わりを楽しめる和食は、食器にもこだわりが感じられた。
「映画、面白かった?」
「うん……感動した…………けど……」
「けど?」
「私の作品も、心に残るものになっていたら……なんて、少し思って……」
「あぁー、【君青】か…………今日よりも感動したよ。大人になって、久々に泣いたかもな」
「えっ……見てくれたの?」
「勿論、映画鑑賞が趣味と言っただろ?」
電話で話半分に聞いていても、覚えてはいた。映画鑑賞が趣味とはいえ、自身が原作の作品をスクリーンで見てもらえた事に言葉が出てこない。
「ーーーー雪乃ちゃん、雪乃?」
「は、はい!」
「やっと、こっち見た」
慣れない視線に戸惑いながら、曖昧に微笑む。
「どうした?」
「い、いえ……あの、ありがとうございます。見てくださって嬉しいです」
考えを巡らせても、映画館に足を運んでくれただけで胸がいっぱいになり、何とも言えない気持ちになる。
「ーーーー【桜が降る夜】で受賞しただろ?」
「はい……」
「社会人一年目の頃は、それなりに葛藤もあってね……きっかけは春翔だったけど、あの本に救われた…………それが雪乃ちゃんだと知ったのは、つい最近だけど……新刊が出る度、読んでたんだよ」
【桜が降る夜】は【月野ゆき】が世に出る事となったデビュー作であり、数々の賞を受賞した作品の一つだ。その為、今も鮮烈なデビュー作と比較される事は少なくない。
「……ありがとうございます…………」
目元に指が触れ、涙を拭った。
「今日は……君を、泣かせてばかりだな……」
困ったように微笑む彼に、花が綻ぶようだ。思わず匠が息を呑むほど、アイスブルーの瞳が宝石のように輝く。
拭っていた指先が頬に触れ、瞬きで涙も飛んだ。
「…………雪乃ちゃん…………この後、ドライブしながらスカイツリーに行こうか?」
「は、はい……」
唇の形がはっきりと分かる距離まできて離れていく。真っ赤に染まった頬に両手で触れ、熱さを再認識していた。
スカイツリーに一度も登ったことがないと、旅行先で話した覚えがあった。
パラグライダーの合間の……些細なことなのに…………
「シートベルトしてね」
「うん」
車で四十分もあれば着く距離だ。車内では世界的なバンドの曲が流れている。
「このバンド、好きです」
「いいよな、俺は学生の頃を思い出すよ」
「春兄も同じようなこと、言ってた……」
「そうか」
八歳も離れていれば、音楽の趣味が違う事の方が多いだろう。そうならなかったのは雪乃の兄による影響だ。
八年前に春翔が家を出るまで、アイスブルーの瞳が曇る事はなく、よく笑う少女だった。
「行こうか」
「うん……」
手を繋いで同じ景色を見る…………そんな、当たり前のことが出来なかった……
「何か飲む?」
「うん」
物語が過るのは、休日を執筆に充てる事が日常的になっているからか、懐かしい作品が話題に上がったからか、おそらくその両方だろう。
オレンジジュースを受け取り、並んで眺める景色に、当時の想いが蘇るようだ。
「匠さんは、普段はコーヒー派なの?」
アイスコーヒーを飲む姿に素朴な疑問だ。
「そうだな……紅茶の方が好きなんだけど、コーヒーはボタン一つで出来るからさ。普段はコーヒーの方がよく飲むかもな……雪乃ちゃんは?」
「私は紅茶が多いですね。つい飲みすぎちゃうので、普段持ち歩いているのはルイボスティーですけど……」
ここまで言ってようやく気づいたようだ。
「また戻ってる」
「うっ……」
「少しずつな?」
「うん……」
頭に触れられ、心音を誤魔化すように喉を潤した。
「雪乃ちゃん、行こうか」
「うん」
差し伸べられる手を握り返し、歩いていく。目立つ二人が並んでいれば、それなりに視線を感じるが、彼が反応するのは隣の視線だけだ。本人的にはこっそりと盗み見ているつもりだろうが、桜色の頬と間近に感じる視線で丸わかりである。
「散策していく?」
「うん、匠さんは時間、大丈夫?」
休日とはいえ急ぎの連絡がないとは限らない。匠自身もそれは分かっており、会社用のスマホも持参していたが、杞憂に終わった。
「大丈夫、雪乃ちゃんがよければ、何か食べて行こうか?」
「うん!」
微笑ましい反応に、匠の方が染まりそうだ。油断をしていたら本当に染まっていただろう。
先ほどまでいたライトアップされたスカイツリーを眺めながら、イタリアンで締めくくられた。
はじめてのデートが思いのほか緊張せずに済んだのは、彼のおかげであると雪乃にも分かっていた。
「匠さん……今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう。また出かけようね」
「うん……」
名残惜しさがある中、匠に差し出す。
「これ……」
「えっと……ささやかですが、今日のお礼……」
腕を引き寄せられたかと思えば、匠の腕の中にいた。どちらの心音か分からないほど鳴っている。
「………ありがとう、またね」
頭にそっと触れられ、車を降りたあとも胸の高鳴りは治りそうにない。
機能しない頭でルーティンを済ませる雪乃に対し、匠は大きく息を吐き出していた。
「はぁーーーー……勘弁してくれ……」
衝動的に抱きしめた事に後悔はないが、いつまで耐えられるか試されているような気分だ。柔らかな感触と染まった頬に手を出さなかったのは、彼が理性的だったからだろう。
スマホに届いたメッセージに顔がにやける。
『おやすみなさい』
言い忘れたと思って、送ってくる辺りが律儀だ。
『おやすみ』
そう返したが眠れそうにない匠は、コーヒーを片手に可愛らしいパッケージのクッキーに、手を伸ばすのだった。