しゃん。しゃしゃん。しゃりん。
「雨が降ってきたみたいだ」
本を読んでいたTがふと顔を上げた。その視線は私の肩の上を通り過ぎ、窓の外に向いている。
「そうねえ」
振り向く必要はない。なにも驚くことではなかった。古民家を改造したカフェの中、ミディアムテンポのジャズに隠れるように、私の耳は五分前から雨音をしっかりととらえていた。しゃん、しゃしゃんと。
「嫌だなあ。店を出たら濡れてしまうよ」
「そうねえ」
雨に濡れることの何が嫌なのだろうか。雨こそがこの世でもっともすばらしいものなのに。そんなことを思いつつおざなりに相槌を打つと、向かい合うTが不機嫌そうに本を閉じた。
「ねえ君」本の表紙を指先でこつこつと叩きながらTが言う。「前から言おうと思ってたんだけど」
「なにかしら」
「その適当な返事の仕方、やめてくれないか」
思いのほか真剣な表情に、私もつい正直に答えてしまった。
「だったらあなたもそろそろ私にちゃんと向き合うべきじゃないかしら」
「おや。いったいなんのことかな」
Tの体が年季の入った革張りのソファの上で少し強張った。本当に心当たりがないようで、私は大げさにため息をついてみせた。
「お願いしたわよね。雨音を閉じ込めたガラスペンを作ってほしいって。私のために。でも全然作ってくれないじゃない」
「なんだ。初めて会ったときに言っていた冗談か」
見るからに安堵したTに、私はこれまでにないほどの強い怒りを覚えた。
「冗談ですって? 私があなたと結婚することを決めたのは、あなたがそれを作れるって豪語したからじゃない」
Tはしがないガラスペン作家だ。そんなTの工房に偶然私が足を踏み入れ、その時に交わした会話がきっかけで二人は交際を始めたのである。
私がTに乞うたガラスペンとは、こうだ。手に取ると水温を感じ取れるほどひんやりとしていること。筐体の中で水滴が垂れる挙動を手の内で感じ取れること。揺らすと雨粒と雨粒がぶつかり合って、しゃん、と鳴ること。雨粒がぶつかり合うたびにかすかな光を放つこと――。
約束は果たすべきものである。結婚するに至った約束であればなおさらだ。だがTはこんな単純な話にもついていけないようだった。
「ちょっと待ってくれないか」
「待つ? いつまで? ねえ、いつになったら私のためのペンはできるの?」
「ああもう。そんなものできるわけがない」
Tが呆れたように大声を発した。そのせいでせっかくの雨音が一瞬かき消された。これに私の眉間は素直にきりりと寄った。しかも「誰にもそんなものは作れない。どんな天才にだって不可能だ」とTが断言するものだから、私はその場で宣言した。「だったらもうあなたの妻でいるのはやめます」と。
*
Tの妻を辞めた私はガラスペンの制作に日々を捧げるようになった。目的は当然、究極のガラスペンを作ること。そう、他人に作ってもらおうなんて考えが甘かったのだ。欲しいものは自らの手で掴むべきだったのだ。
そして今日も私はバーナーを握っている。Tの工房の片隅で、ペンにするためのガラス棒を専用のバーナーであぶり、溶かしている。
溶かしながら、私は強く願う。どうかすばらしい雨音がこのガラスに溶け込みますようにと。そして祈るような気持ちで柔らかなガラスに造形を与えていく。
イメージは大事だ。脳内に描くのは儚い水の流れ、そして細くたおやかな水が柔らかく流れていく様。だからこそ、ちょっとしたことで生まれる飛沫の粒は光のようにきらりと輝かねばならない。鳴る音はささやかながらもしっかりと響かねばならない。造形とガラスの品質だけで理想は具現化すると私は確信していた。着色どころか小細工も必要ない。
「ああ……」
完成品を想像するだけで甘いため息が漏れるのはいつものことだ。バーナーの炎で火照る体は汗ばみ、期待に満ちた胸は早鐘を打つ。今にも目の前にイメージ通りのガラスペンが生まれるのではないかと、焦る気持ちで時折指が震える。完成したガラスペンに使うインクもすでに決めてある。ラメ入りの淡いシルバーのインクだ。
ただ、期待が裏切られるのもいつものことだった。
「……また失敗だわ」
間抜けな方向に曲がってしまったガラスには、もう雨音が宿ることはない。わかるのだ。この形のペンからは雨音は決して聴こえないと。次の工程、高温となったガラスペンをゆっくりと冷やしていく作業に移ったことはこれまで一度もなかった。
「だいぶ上達しているよ。この曲線の捻り具合なんて僕よりも滑らかじゃないか」
Tのなぐさめは何の役にも立たない。Tには随分親身に作り方を教えてもらったし、工房や道具を使わせてもらっているが、私が望むものは今も昔も一つしかないのだ。
そんなTだが、彼は独身時代から引き続き、どうでもいいガラスペンばかりを作り続けていた。頭上を覆う木々から差し込む陽光のような、淡い黄金の光をまとうペン。夕暮れ時と夜が変わる刹那のような、橙色と紺色が入り混じる危いペン。他にも、いろいろ。草原、海、雲に風。扱うモチーフは数えきれない。
「君には他に作りたいモチーフはないの?」
「そんなものはないわ」
Tの問いを私は一刀両断した。私にとって、美とは雨音に他ならないからだ。
雨によってあらわされる音、そして雨に付随するものだけが私にとっての至上だった。私にとっての神だった。だから崇拝すべき存在がそこにあるのに、それ以外のものに目を向けるべきではないと信じていた。それゆえTの制作に対する姿勢には反発しかなかったのである。
「でも……」
「いいから。私のことはもう放っておいて」
とうとう私はTを拒絶した。そして美を具現化することだけを生きがいにガラスをバーナーであぶり続けた。
*
だが三年が過ぎたところでTにこう切り出された。「もうやめた方がいい」と。バーナーをおろし「どうして」と尋ねると「君には無理だ」と端的に返された。「いや、人間には無理なんだ。前にも言ったけどね」
この頃のTはガラスペン作家として一躍有名人になっていた。Tの生み出すペンは、高いものだと数十万円で取引きされ、この工房を訪ねてくる人間も指数的に増えていた。
「……そう。私がここにいると邪魔なのね。ごめんなさい。出ていきます」
厚手の手袋と制作中だったガラスペンを机に置き、立ち上がる。私がいてはTは新たな弟子をとることもできない。だがTは「違う」と怒ったように私を引き留めた。
「君のその雨音への執着は一体何なんだ。ほとんど休みもとらず、朝から晩まで」
「執着?」
思わず平手で机を叩いた。
「そんな俗人めいた言葉を私に使わないで」
二人きりの工房に嫌な音が響いた。古い机のきしむ音と、中途半端に溶かされたガラスが落ちて割れる音が。しかし、まなじりをあげた私に対し、Tは冷静だった。
「執着も度を過ぎると自らを傷つける行為にしかならない」
「だから……!」
「雨は今も外で降っている。耳をすまさなくても聴こえるほどに。なのにどうしてあの音をペンに閉じ込める必要があるんだ」
確かに今日は朝から雨が降っている。と、いうか。この地には一年の半分は雨が降る。雨は決して珍しいものではない。
だがそういうことではないのだ。
「……あなたにはわからないわ」
Tの瞳をじっと見つめる。
「この強い衝動がどこから来たのかなんて、そんなことには興味ないの。根源を探ることには意味がないのよ」
「僕には君のことがわからないよ」
「わかってもらう必要なんてない。私にだってわからないのだから」
この衝動は私が物心ついたときには宿っていた。
「だったら僕はどうしたらいいんだ」
「だからどうもしなくていいのよ」
親ですら私を狂人のように扱ってきたのだから。
「でも僕はそうやって心身をすり減らしていく君を見るのが辛いんだ」
「わかりました。やっぱりここを出ていきます」
「だから……! そういうことじゃないんだ……!」
Tが頭を乱暴にかきむしった。その手が頭頂部から顔へと降り、やがて指の隙間から濡れた瞳が現れた。見つめられた瞬間、はっとした。それは毎日鏡の中で見る私の瞳そのものだったからだ。
「僕では……僕の作るペンでは君は満たされないのか……?」
静かに、ふり絞るように発せられた声。その声にも私はTの真意を感じ取った。
「……どうしてもダメなのか?」
「ごめんなさい」
視線を振り切るように首を振る。
「妥協できるほどやさしい願望ではないの」
私が初めてTという人間の真相に触れ、共感したこの日。私はTに永遠の別れを告げた。
*
それはTの工房を出て十年ほどが過ぎた頃だった。一人で暮らす私の家にTからの小包が届いたのは。
どうして住所を知っているのだろうと訝りながら開封すると、中には一本のガラスペンが収まっていた。手紙の類も何もなく、一本のガラスペンだけが。ただ、見た瞬間、私の全身に鳥肌がたった。ぴんときたのだ。五感すら超えた何かが私に強く訴える。これは私が渇望していたガラスペンだと。
「とうとうできたのね……」
感慨深い気持ちでそっと手に取る。ペン全体を覆う趣き深いラインは雨粒が描く軌跡のようで、触り心地は水に手をひたしたかのようだった。内部には透明な水滴がいくつもおさめられていて、軽く揺らすとぶつかり合い、ちかっと光を放った。そして、しゃん、と鳴った。しゃしゃん、と鳴った。
インク瓶にペンの先端を差し込むと、ペンは腹をすかせた赤子のようにあっという間にインクを取り込んだ。
色づいたペン先をそっと紙の上に載せる。そしておもむろにきゅっと右に動かした。
真っ白な紙に色が走る。紙の上を水が流れるがごとくインクが走っていく。書き心地にも非の打ちどころは一切なかった。
だが。
「……もうこんなものいらないのに」
窓を開け、ガラスペンを庭に向かって放り投げる。からりと乾いた青空に、真っ赤なインクを吸ったガラスペンが弧を描いて飛んでいった。その向こうには海に沈んでゆこうとする赤い太陽が見えた。インクと同色の、何よりも赤く美しい太陽が。そしてTのことを愛しく、憎く思った。Tのようにいつまでも一つのものを追い求めていたかった人生だったから。
しゃりん、とガラスが砕ける音が聴こえた。
了