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09 血みどろの賭け

 名古屋には地下闘技場がある。2032年に竣工されたビルは異能戦争以後、管理人が失踪した結果無頼の徒が勝手に住むような地帯と化し、ビル自体が一種の都市となっていた。行政もそれを管理することを放棄し、すでに時久しい。

 だが無論、生きていくには金が必要だ。金を得るための手段として、彼らは賭けにはまった。命の賭けに。

「平和な時代が長くなるとだな、人間は残酷な物に飢えるらしい」

 仁吾郎は相変わらず楽しげな口調に激しい手ぶり、少年少女に気炎を吐く。

「超能力者同士で殺し合うのを賭けて楽しんでいる。今や娯楽といっていい」

 哲樹は黙った。人の死に慣切ってしまい、無感覚にさえなっているが、だからといって人の命を物のように扱い切れるほど非情になっているわけではない。

「お前らが賭けに負ければ、私は上にお前らの存在を暴露する。お前らが勝てば京都の本社に行っていい。どうだ、悪くないだろ?」

 しかも、賭けだ。人の死を金に換えているのだ。哲樹はそんな提案に到底載ることができなかった。

 絵子はうつむいて、ほとんど吐きそうに。

「どうした? お前ら、俺に付き合ってくれただろ? それくらい聞いてくれないのかよ」

 仁吾郎は急に真顔。その瞳があまりにも底の見えない、永遠の暗闇のように見えて哲樹はほとんど衝動的に、

「……分かったよ。その賭け、のろう」

 絵子は今にも逃げ出そうとしていた。

「哲樹、いいの? この人は私たちを騙そうと……」

 お前の父親だって特鋼の研究員だろう。命を軽視するような所業をしてきたんだろう。無論、そんなことを特鋼の間諜まわしものの前で言えるわけもなく。

「ここでお前らをお縄にしてもいいんだぜ?」

 腕を組みながら、仁吾郎は二人の顔を見下ろしている。

 人の人生を振り回して、何て奴らだと哲樹は毒づきたくなった。だが、なぜ今更自分はこの程度の不正に憤っているのだろうとふと自問した。

 神研も虚無主義者の何かの正義にすがっている。そうしなければ非道な行為を貫き通せないからだ。だがこの褐色の男は、ひたすら自分だけを生かし、他人を捨てる生き方以外何も考えていないかのようだ――多分、元からそういう人物なのだろう。



 哲樹と絵子は自動車に乗せられ――軍事的な運用だけを目指している山幸号に比べるとかなりいい乗り心地だった――どこかに連れていかれた。着くとすでに薄暗い駐車場だった。

 場所に関しては、決して口外しないようきつく言われた。これは黙認されているが、広く知られてはいけない場所なのだ。どうやらどこか公共の施設の地下駐車場らしい。もうコンクリートの上に降り立った時から、そこがすでに情け容赦の通用しない、大人の世界だということがひしひし伝わってきた。

 絵子はもうまるで処刑場にしょっぴかれた表情。

「特鋼はこんなことを是認しているのか?」 低い声で哲樹。

「強い能力者を育てるためには必要なことだ。神研とさほど違うわけじゃない」

 哲樹はそれ以上仁吾郎は言わないだけで、すでにどれほど哲樹たちの情報を盗んでいるかしれないのだ。そんなことより、仁吾郎は己の欲得のためにそれを漏らすことはないと確信できる状況の方がより末恐ろしいのだが。

 仁吾郎でさえ若干ほろ苦い口調になっている。ある意味、この秘密を知っていることが彼の立場を危ない物にしているのだろう。もしこの危険な賭けが世間に知れたら、

 灰色の、炎すら遮りそうな重い扉の向こうに喧噪。東京とはまた違う種類の地獄が幕を開けようとしている。

 能力者の力が外に及んだらどうなる、と哲樹が質問すると、「その心配はない。特鋼の開発した新素材で、能力は外に及ばないようになっている」と答えた。

 哲樹はひたすらに、外の世界での技術の進歩ぶりに驚くばかりだった。太刀巳にぜひ言いきかせてみたいものだ。もう超能力者を進化した人類などと言いふらす人間はいない。理解できない物、人類の手に負えない物を屈服させるのはいつだって科学なのだと。

 ほとんどが男だった。哲樹は彼らが東京で男たちとよく似ている気がした。絵子はもはやそこに足を踏み入れるのも嫌そうに縮こまっている。

 哲樹は絵子の服の襟をつかんで、他の男たちに声をかけられないようあたりをにらみ返した。

 どこかで若い女が黄色い声を上げた。哲樹はそれに思わず耳を塞いだ。

 ここでは、あらゆる死が話の種として消費される。そして、金と命の選別によって、誰かが人生を狂わせる。

 二人の超能力者が向かい合った。

 松山まつやま焔羅えんらだ。

 対するのは、色の黒いモハメドという男だ。哲樹は熟考の末、焔羅に賭けることにした。彼の動きがその場の喧噪に対して落ち着き払っているように見えたからだ。そしてそれは貫禄などではなく能力によるものだろうと哲樹は察した。

 仁吾郎は多分、どちらが勝つのかも知っているのだろう。そして少年が苦悩する姿を見て笑っている。絵子はそんな気がした。

 群衆の思惑をよそにゴングが鳴響き、二人は殴り合った。

 絵子はおびえた顔を浮かべていた。きっと血を見ることに慣れていないのだ。絵子や安吉の時のように、また人の死に立ち会わなければならないということに恐怖を感じている。

 哲樹は絵子を安心させようとは思わなかった。人の死が日常と化していた彼にとっては、その程度のことで絵子が青菜に塩いなってしまう理由がよく分からなかったのだ。

 ひたすら、焔羅が勝つことだけを期待していた。そうでなければ、また相模原の時に様に力ずくで逃げ出さなければならないことになる。

 二人は、覚めた目で群衆の中にいた。この喧噪に何ら浸ることなどできなかった。

 モハメドは右肩から指にかけて水を発生させ、焔羅の顔に吹付けた。

 血を噴き出しながら戦っていた。絵子はもはや目を背けていたが、哲樹は直視していた。

 驚くことに、焔羅はモハメドの素早い斬撃を回避していた。あらかじめ動きを教えられた上で動いているかのようだ。

 多分、これは超能力で五感を常人の数百倍以上に挙げているのだ。以前、東京でそういうの力の人間と出会ったことがある。数キロメートル先に誰がいるのか、何があるのか観測して、それを利用して道案内の仕事をしていた。最も神研に仕えていたが……今でも無事なのだろうか。

 血を吸収する地面が水で濡れる。いや、よく見ると深い溝が刻まれている。

 焔羅はその細かな地形を把握しているのか、動きに全く狂いがなかった。姿勢を崩した次の瞬間には、どうモハメドの一撃を躱せばいいか心得ている。

「やれ! やっちまえ!」

「違う! そこじゃない!」

 観戦客は自由に罵声を飛ばすが、それも二人には届かない。超能力を防ぐ壁には、同時に外界の音を阻む空気の流れが這っているからだ。

 モハメドが焔羅を圧倒し始めていた。動きを予測する力に、身体能力が追付かなくなってきている。両者とも肌を血で濡らしていたが、その間隔が小さくなっている気がした。

 このままではやられる。もし焔羅が殺されれば、仁吾郎は哲樹の存在を特鋼に伝える。そうなればもう絵子を京都まで万全な状態で送るという目的もかなわなくなる。

 群衆は死を楽しんでいた。哲樹はそれを心底不愉快に思った。目をそむけたいが、そむけられたいことにも。未だ、大勢の中に混じって喜怒哀楽を共有したことがない哲樹にとっては群集心理など宇宙の端と端ほど縁遠いものだった。

 だが、絵子はそうではないらしい。確かにそれを嫌で理不尽とは認識していても、それを楽しむことに本能的な拒絶を感じたり距離を置こうとはしていない。

 いよいよモハメドが焔羅をのして、胸に水を噴きつけようとしていた。顔のあたりが濡れ、乾いた。

 哲樹は彼を背後から眺めていたので表情は見えなかったが、きっと生き延びるのに躍起になっているに相違なかった。超能力者の中で暴力を揮うことに快楽を覚える人間などいるはずがない。二階堂萌ですら偶然手に入れてしまった力をそれ自身を目的に使ったことはなかった。

 それは善悪で判断できる問題ではなかった。世界がそうなのだ。人間が抵抗できる道理があろうか。

 焔羅を助けるしかないのか。

 哲樹は迷った。それは何か人道主義に目覚めたからではなく、まさしく目前の二人と同じ、帰ってこいと言っていたのか自分のパワーアップの為の上部だけの言葉だったのか哲樹は座席の下、足元に石が置かれているのを目にした。きっと観客の靴か外の廊下から運ばれた物だ。

 哲樹は力を込めて、その石をリーグに向けて投げつけていた。無論、間に合うように加速させて。

 モハメドの肩を弾き、その巨体を地面に倒していた。

「ルール違反だ!」

 周囲の観客がいきり立って哲樹をにらみ始めた。

 砂場の二人は、何が起きたのか分からず観客席をまじまじと眺めるばかり。

「まあ待て、諸君!」

 階段を踏み鳴らす音と共に、一人の男が降りてくる。

 その瞬間、この男に場の空気は支配されたかのようだった。誰一人、絵子と哲樹にもう敵意を向けてはいなかった。

 審判の目の前に寄ると、その手元に一万円札を数十枚にぎらせ、

「違反なんてなかった。試合は極めて適正なルールで行われた。いいな?」

 審判は一瞬だけ不服そうな顔を浮かべたが、すぐそれをポケットの中に収めた。

「この試合は時間切れによって引分だ」

 哲樹は焔羅の視線がこちらに来そうになるのが怖くて、思わず顔を背けた。幾度となく命の危険に晒されたとはいえ、こうして今迫っている緊張感はそれとはこの別種のものだ。

 焔羅もモハメドもその場を退出した。哲樹はその姿を見なかったが、絵子にはその二人は命拾いしたことに安心するより自分たちの名誉を傷つけられたかのように憤りをくすぶらせているように見えた。

 審判が、咳ばらいをしてから告げる。

「さあ、次の出場者は……」

 誰もが、まるで哲樹の狼藉などなかったかのようにリーグを眺めていた。

 哲樹はもうその時からこの人の海の中にいたくなかった。

 哲樹は、仁吾郎に狡猾さ以上のずるさを覚えた。こんな大柄で、しかも威勢がいいというのであれば、大半の人間を丸め込まれてしまう。

 二人は仁吾郎の後ろについていって、闘技場を去った。後味はこれ以上ないほど悪かった。

 賭けには勝った。しかし、観客たちの怒りを一瞬だけ、一身に受けた。しばらくうまい飯が食えそうにない。

 一体ここはどんな企業によって運営されている場所なのか。特鋼がさすがにこんな事業に手を貸すとは思えない以上、外資か、特鋼にうまいことつるんだ裏組織によるものであることは間違いなかった。

 ホールに来ると、三人はソファにこしかけた。

 改めてみると、灰色のリノリウムの床は綺麗にみがかれ、壁には何のポスターも貼っていなかった。こういう場所にはいかがわしい内容の貼り紙やら落書やらが散らばっているものとばかり考えていたが、恐ろしくさっぱりしていて、殺風景な空間。ある程度の美意識がなければ、この社会の裏側で成り上がっていくのは困難なのだろう。

 仁吾郎は笑った。

「このことは上には報告しない。君たちは京都に行ける。だがその後は知らんけどな」

 哲樹は、仁吾郎の瞳に生気がないのを見てぞっとした。

 多分この男は、社会でどんどん成り上がっていくのだろう。その才能につけこみ、無数の弱者を犠牲にして。いや、すでに彼のせいで犠牲になった人間がどれだけいるか知れない。

 ここから早く出たいとせがむ哲樹。

「で、京都に行ったらどうする? 物見遊山とでもか?」

「違う。私はそんな生半可な目的で京都に行きたいんじゃない」

「私はなぜ自分がこんな目に遭わなきゃいけなかったか」

「ああ~なるほど、つまり『その力』の出所を確かめるために、か……」

 仁吾郎はものうい口調、頬杖をつく。

 ごくくだらない風の一言ではあったが、衝撃で思わずあとずさる絵子。

「なぜ……そんなことを……!?」

 絵子の驚きようを見て、思わず詰寄る哲樹。

「どういうことなんだ? 教えろ!!」

 以前教えられた、安吉という少年とはどういう関係なのか。謎が、ますます深まっていく。今すぐ知らずにはいられないような謎ばかりが。

「おおっと、俺もそのことについてはっきり知らないんだ。何しろ俺自身でも、超能力の正体は見極められないからな。まるで超能力自体がそれを拒んでいるような……」

 仁吾郎は神に近い能力を持っている。誰かの未来や内面を簡単に知ることができるなら、普通の人間は精神的にやられてしまうだろう。にも関わらず平静を保てるのは、彼が冷酷な人間だからだ。

「お前に取って、三菱特鋼とは何だ?」

 哲樹は衝動的に尋ねた。

「道具だ。いや、玩具かな? どんな痛ぶっても構わないが、死んでもらっちゃ困る」

 仁吾郎はまるで、それを軽口のように告げた。

 汗で体中が濡れているのを、必死に哲樹は悟られまいとした。

 絵子の方を見やると、やはり背を硬直させて青ざめている。

 出口のエレベーターとの距離が無限に感じられた。そしてそこから数歩離れた位置で、仁吾郎は親しげに挨拶の言葉をかけた。

「また会おう! いつか君たちが大人になるその日まで」

 二度と会うか、と心の中で哲樹。


「まさかこの街の地下であんなことが行われてるなんて」

 絵子は自分が心底知りたくなかったことを知ってしまったかのように、青ざめていた。

「あの男、とても強欲で残忍な目つきをしていた」

 哲樹はそれを予感とは考えていなかった。出世を続けるだろう。

「自分の欲望のためなら手段を選ばない。いや、自分の命すら危険に晒す……本当に、何を考えているか分からないんだ!」

 哲樹はその男の餌食にならずに澄んだことを、心底安心した。神研の連中より怖ろしい、得体の知れない奴だ。

 いずれにしろ京都に行くしかない。この少女と共に、死出の旅を突き進むために。

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