02 たった二人の逃避行
「よう、哲樹。生きてて良かった」
あい変わらず、太刀巳は優しげな表情を見せた。
家はぼろい小屋のようではあるが、天井から壁にかけて、所せく工具なり端末の抜殻がびっしりと。
生きてて良かった――というのは何気ない一言ではない。日常と非日常が混然一体としているこの荒野では元気な人間が翌日死体になっていても何の悲しいことはないのだ。
それよりもう、太刀巳の視点は哲樹の斜め後ろを向く。
「ところで、そこにいるのはガール・フレンドかい?」「ち、違います」
絵子はびくっとして顔をこわばらせる。
「いえ……道で行き倒れていたので拾いました」
「ひ、拾った?」
「そうか。君もすっかり物好きな性格になったもんだな。思春期到来というわけか」
絵子は男たちが良からぬ会話をしそうな雰囲気になったのを察し、
「わ、私はあなたたちの宝物じゃない! そんな言葉を聞きたくなんてないわ」
叫びがなかなか真に迫っていたので、冷や汗をかく二人。哲樹はあらためて、女という生物の扱い方の難しさを思知る。
「それはすまなかった」と言って、太刀巳に目配せして場の空気を変えようと。
「で、山幸号の損傷は?」
「目だった傷はありません」
専門的な会話が続く。
「すでに機銃の弾薬を用意してある。レーダーは問題ないか?」
「誤差が生じた時は手動で直してます」
絵子にその会話はさながらギリシア語だった。また虚無主義者の元に売り飛ばそうとする魂胆じゃないだろうな。しかし、彼女にはもう帰る場所がないのだ。哲樹と太刀巳にしか、恃むものがない。
だから、今はこの会話の顛末を聴くほかはない。
「三菱に押収されそうになった時はさすがにまずかった。神研は科学技術に興味など示さないからな。ガソリンも値上がりする日々だ」
東京の街はそういう風になっているのか……絵子は数ヶ月間そういう情報をほとんど入れていなかったから、あらためて事態の緊張感に気おされてしまう。
「手紙を見せてくれ」
この哲樹という子は、悪い人間ではないようにように思えてきた。まだ逃げ出したい気持ちがないわけではないが、この真面目な表情や、遠い所から手紙を送り届ける律儀さといい、
まだ、暫定的な評価ではあるけれど。
手紙を読終えた太刀巳は、浮かない表情。
「富沢謙吉の奴め……三菱からしつこく仕事を迫られているらしい。神研と公安から危険視されているせいで、他に逃げ場がないとのことだ」
太刀巳の親友の名前が挙がった。異能戦争中、能力者に対する兵器開発を命じられたが、拒否した人物……ということだけ知っている。
「きちんとした所から仕事が来るのは、いいことなのでは?」
「奴らの所で働く気なんぞ起こらんよ。何しろ日本の政治を牛耳っている輩なんだからな!」
その意気だけは矍鑠としている。しかし悲しいかな、
「できることなら俺はあいつの所に行って助け出したいくらいだ。だが私はもう衰えた。肩も上に上がらないし腰痛も日にひどくなっている。もうこの命もお役御免かもしれんよ」
絵子は、この太刀巳も不思議な人間だと思った。特鋼や神研と、どこを探っても希望の見えないこの土地で逃げようともせずにまだ健気に生きている。
何しろ、この半分終わった国にあっては――という無念が、どこまでも残滓として漂う。
「絵子ちゃんと言ったな」
「はい」
目を細めて、
「若い人間も……この時代にあっては希少な資源だ」
何を言いたいのか分からなかったが、嫌味には聞こえなかった。
すぐには真面目な会話をしようとする気ではなかったようだ。
「腹をすかせたろう? 少し食べて来い」
太刀巳は味噌汁と白米を用意した。こんな時代とはいえ、やはり食は
「君をどう呼べばいいかな。どうも親しげに話すのを嫌がっているようだが」
彼女の鼻はその白い肌はどうもアジア系らしからぬ所があった。
絵子は男たちのいる空間に早くもむさ苦しさを覚えたのか、
「『ちゃん』とかいらない。呼び捨てで構わない」 またきつめの口調になる。
「そうか。じゃあ、絵子、で」
太刀巳に対してもやはり人見知りな雰囲気。
「私はずっと東京西部の山奥で暮らしてきた。ほとんどそういうことは知らない」
絵子はためらいがちに答える。少しだけ自分の経緯を話したが、それは哲樹にうちあけた内容を大きく補うものではない。
「そうか。いや、知る必要なんぞないかもしれんが」
哲樹はあまり食事が進まなかった。東京を出ろ、とはどういうことなのだ。
「僕に……東京を出ろって」
東京から北まで往来することはいくらでもある。だが、太刀巳はそれを指して門出を勧めたわけではないらしい。
「ああ、それだ。お前は、今すぐここから旅立った方が良い」
「北に逃れろ、ということですか」
「北とか、方向の話をしてるんじゃない。逃がしてやることしかできないんだ。無責任なことに聞こえるかもしれんがな。だがお前たちには未来がある」
「その未来のために、私は苦しまなきゃならないのに」 ぼやく絵子。
「知ってるか? 特鋼が日本の統一をかかげて軍事力を展開しているらしい。今や日本政府の支配は北部のごくせまい地域に限られている。特鋼は自分が明確に日本の支配者であることを明確にするつもりだ。そうなると神研は腫瘍のようなものだ……特鋼のやることを何かにつけて妨害する。ならば神研のお膝元であるここを襲撃するだろう……特鋼がこの東京に押寄せるのも時間の問題なんだ」
汁が覚めそうになるのを恐れて、急いで食べだす絵子。哲樹は、政治事情よりも、まず太刀巳の安否の方が心配だった。
「多分、そうなったら俺も生きていないだろう。だが哲樹、お前には死んでほしくないんだよ」
その瞳には一瞬死相が見えた気が。
「太刀巳さんは逃げようと思わないのですか?」
「逃げる? 今更こんな年で無駄に長生きしようと思うか?」
絵子には、太刀巳がずるい人間のように思えてならない。
「俺たちの世代ががんばらなかったことのつけだ。死んで逃げるのも卑怯だからな」
「神研は、特鋼の方に人間が逃げないように厳重な警備体制を敷いているではありませんか」
「そうだ、能力者が向こうに渡らないためにな。だが虚無主義者が特鋼の領域に侵入しつつある。すでにあいつらのせいで死人すら出てるんだ。一体何を考えているのか……あれに比べれば神研の方がはるかに物わかりが良い」
「あいつらのせいで……私の生活も壊された」
「なるほど、そんな感じはしたよ。どんな言葉でもあいつらの異常さは表現できない」
絵子はそれから何かを言いかけたが、すぐにやめた。哲樹にはそれが、魚の口みたいに見えた。
太刀巳は確かに絵子に困惑している様子だったが、無論そこには、突然現れた知らない人を厄介払いしたいという欲望がないわけではかろう。だが、この状況を考えれば、太刀巳の判断はむしろ正しい物だ。絵子が豹変して危害を加えてくる可能性がないわけではない。
「お前、もしかしなくても能力者だな?」
「そうよ」 どんな能力かなど、言いたくもないような声。
「神研は東京の能力者を管理したがっている。認知していない能力者がいたら即座に抹殺する魂胆だ。なおさらここを逃げなくちゃいけない、だろう?」
ああ、この能力すらなければ、平成のような暮らしを謳歌できたかもしれない。あの事件すらなければ、こんな世界に生まれなくても済んだ話なのに。
太刀巳は二人の冷たくなっていく顔色に背を向けると、ごちゃごちゃとケーブルや端末を載せる、棚の中から一枚の青い紙を取りだして、
「見ろ、特鋼の兵士の死体から勝手に盗出してきた奴だ。虚無主義者のアジトが書かれてる」
絵子は目を見開いた。
「そんな物、どこで見つけたの?」
太刀巳はこの時ばかり、単に人のいい男ではないかった。伊達に、この修羅の国でしぶとく生抜いてきた男ではない。
「脱走者から何しろ機械ばかりいじるわけではないからな。で、このメモによれば今月の20日に虚無主義者曰く、この神研の能力者たちの詰所を襲撃するそうだ。それに乗じて、お前らは逃げろ。そして生き抜け……」
こんな、あっけない別れが他にあるだろうか。
「もうこの日本に安住の地はないんだ」 こんな寒々しい局面で、気の利いた言葉など出るはずもなく。
太刀巳の言葉は、気遣いと言う物からほど遠いかもしれない。しかし、哲樹ならきっと生き延びれるはずだ、という確信がどこかにある。
「だからその日にお前はそこの……絵子を連れて、脱出しろ。もう俺には構うな」
哲樹は寒気がした。まるで、自分がもう長くない存在だと確信しているような言葉ではないか。
「なぜ、私をそんな風に旅の道具みたいに扱うのよ。あなたたちに馴れ馴れしくされる筋合はない」
汁椀の中の具を荒々しくかきまぜる。
「お前に優しくしようと思って言ってるわけじゃねえよ。ただ、急に知らない人間が困っていたらそれを邪険に扱いたいと思わないはずだ」
絵子はまだ、理解しそうにない表情だった。
「いくら気遣わざるをえないだろ。まあ、虚栄心だ。俺の先がもう見えてるってのもあるが」
「それほどの財力があるの?」
「一ヶ月くらい大丈夫なくらいの旅費もある。幾分かそぎ落としたところで俺の生活が全く成り立たなくなるってもんでもない。最悪、この時代遅れの機器を売るって手段もあるからな。弾薬と手榴弾は足りているか?」
再び太刀巳の口元に、生き生きとした生気。絵子は、そういうことでしか生きがいを持てないこの廃墟に心底息苦しさを感じた。
◇
太刀巳はこのまま絵子のことをよく知らずに終わるのだろう……と若干もどかしく感じられた。客ですらないのだから当然かもしれないが。
丹念なメンテナンスを終えた頃には、もう空はすっかり黒一色となっていた。無駄な明かりもなく、星々が綺麗に輝いている。もはや夜を人間が支配していた時代からはほど遠い。哲樹は、すでに操縦席に乗りこみ、側に絵子を載せていた。
山幸号の輪郭は、後ろ側に向かって盛り上がっている。そのため二人は低い位置にいるが、後ろの風景はカメラを通して見る。だがこの時ばかり、哲樹はそれを頑なに観ようとしなかった。
操縦桿に手をかけると山幸号は、息を吹き返して再び動き出した。哲樹は、もう二度と振り返ることはなかった。もし振返れば、不吉なことが起こりそうだったから。
「私は、あんたを信じたわけじゃない」
絵子は、不信の目を向けた。
「あなたと行くことは問題じゃないけど、私はむやみに体に触らないでよね」
絵子はきっと、自分とは育った境遇が違うのだろう、と哲樹は思った。きっと、よっぽど恵まれた環境に育ったから僕みたいなどこの馬とも知れない奴を受け付ようとしないのだ。なら、その間隙を無理に埋めようとは思わない。ただ、なぜかかつての童心に返ったような気がする。
「私はあんたにすがりたいわけでも、命乞してるわけでもない。ただ、あいつの分まで生きていかなくちゃいけないから……」
哲樹はその『あいつ』が何者なのか、知るのはずっと後のことになりそうだと思った。
「でも、何で僕についていこうとするんだ。俺のことをまだ信じていないだろうに」
それは、と言いかけてから、
「私には、どうも秘密がありそうなのよね」
「秘密?」
「その秘密を解き明かさなきゃいけないような気がする。それを明かすためには……京都よ。三菱特殊鉄鋼の本社に、直々に行かなきゃならない」
本社に行くというのか。間違いなく、冗談だと。
「嘘つけ……俺がそんな所に行ったら間違いなく殺される!」
「行きたいからじゃないのよ。そこに行かないと……私は自分の人生に向き合えないから」
絵子がこの時ばかり、単なる嫌悪感ではない哀愁を秘めた顔になっていた。
「私には秘密がある。京都に行けば、自分の秘密を知ることができるかもしれない」
哲樹は困惑して、絵子の本心を確かようとした。だがいつまで見ても、絵子は冗談を言っている様子には見えなかった。
「いや。こんなどうでもいいことを言った私が馬鹿だった」
こんなことを言ってしまっても、相手が聞くわけがない――という後悔。
哲樹は一瞬、絵子の言葉を荒く拒絶してしまったことを後悔した。
彼女は、向こうからやってきたのだ。当然向こう側の事態をよく知っている。しかし自分は彼らのことなど全く知りはしない。
哲樹はその時、自分の住んでいる世界が狭いことを理解した。そして、そこでの常識を彼女に当てはめてはいけないということも。
まだ彼女に寄添う方法を知らなかったが、哲樹は
「分かった。そこに行けばいいんだろ」
「え、いいの?」 初めて、絵子の顔にとげとげしさがなくなったかに見えた。
何か穏やかに見えて……けれどやはり、積極的にこちらに理解を示そうとはしない。
だが、初めて心を開きかけた様子が垣間見えた。
「俺はずっと東京都を往復するような生活を続けてたんだ。西なんて行ったことがない。それなら僕も面白そうだからな」
「……ずっとここに住んでたんでしょ? 帰る当てもないのに」
「それでいいんだ。別に好きでここに留まってたわけじゃない」
そうでないと、ここでまた背を向けることになってしまう。
◇
山幸号に乗り遠くへ去っていくのを見送る太刀巳。またもや、痛みが走りだす。
医者には腫瘍が拡大していると聞いた。だが、それを治すだけの金も、気力ももはや残ってはいない、あの少女はただの人間とは見えなかった。何かそれ以上の謎を抱えているようだった――だがもはや、それを知るだけの時間は、もうどこにもない。
本当に、死ぬ時が近づいているのかもしれない。それはそれで構わない。無駄な心配をかけたくはないのだ。
畳の上に仰向になって、耿々と照り付ける星空を眺めて、謙吉の安否を気遣う。
「やれやれ、お前と群馬の山奥で一緒に遊んだ日々に帰りたいよ……」