13 虜囚の辱め
山幸号がスクラップになってしまった。哲樹は、父から受継いだ機体を無碍にしてしまった衝撃でしばし絵子のことを忘れてしまった。
二人は山幸号が道路のすぐ側、歩行者用道路とのフェンスに激突するすんでの所で脱出した。もし数秒遅れていたら爆風に巻きこまれていたろう。
哲樹は無理やり絵子の肩をつかんで、機体から飛降りたのだ。しかも鎖骨をがっしりとつかんでである。
絵子は彼からの扱いがますます雑になって行くことに、怒りを隠せなかった。
「こうなったら、あなたになんかついてこなかったら良かった!」
絵子は感情に任せて叫んだ。
「第一、あなたは東京のどこかも分からない場所に生まれたんでしょ? 特殊鉄鋼の技術者の娘として生まれた私とは違って」
哲樹は山幸号から立上る煙に釘付けになっていたが、すぐ正気を取戻し、
「ああ、俺も同じ気持だ。お前を拾わなきゃよかった」
「何よ。私に野垂死ねばいいでも?」
哲樹は一度絵子に対して折檻しようとした。身体の動きを加速すれば、絵子の体を地面に叩きつけることくらい造作もなかったはずだ。しかし絵子の地面から氷が張っている。
哲樹は絵子の言葉を聞きたくなかった。もはや何かする当てもないが、京都に行く選択しか彼の頭にはなかった。だがもはやそれ以後が、見当もつかない。
自動車の音が遠くで聞こえているのを除けば、辺りにはほとんど人影はない。
装甲車が一つ爆発した位で動じないくらい、戦争に慣れ切ってしまったのだろう。
「最初はお前を助けたかったのに、今ではお前に退屈してるんだよ」
「ええ、私も同じように思ってる」
絵子がますます早口で。
哲樹は初めて、女に対して手を挙げた。だが、振下ろすことはしなかった。
途端に激しい嫌悪感を覚えた。男相手には感じたことのない恥じらいだった。
「驚いたわね。哲樹がそんなに意気地なしだったなんて」
嫌味を言う絵子。それはほぼ哲樹を馬鹿にするつもりで言った言葉だった。
実の所、絵子ですら自分が京都に戻ることを本当に望んでいたわけではなかった。彼女が生まれて来てから本当の意味で安らぎを感じられたのは『あいつ』との暮らしだけだった。だが今では、『あいつ』ほどの優しさも気配りもないこの少年との刹那的な日々に閉じこめられなければならない。
哲樹にしてみても、絵子を常に気遣わなければならないこの日々は重荷だった。
これほど女との生活が辛く楽しくないものとは思いもしなかったのだ。
哲樹は訳もなく、前に歩出した。吐息とともに続く絵子。
「内村安吉ほどの魅力が俺にはないってのか」 赤の他人の名前をいかにも不愉快そうにつぶやく。
「ないわよ。何しろあんたは兵器をいじることだけ達者で、人を慰めるための技術がまるでない」
絵子は勝手気ままに鬱憤を晴らす。だが、決して哲樹から逃出すことはない。
哲樹はもはや絵子に応戦することが無意味だと悟り、黙殺することにした。
それから二人は道路から落ちるようにして続く階段を降り、コンクリートの壁一面を覆う緑を眼にしつつ、排水路と共に繋がっている地下のトンネルに入った。パトカーのサイレンが後ろで騒いでいるが、騒動の首謀者には気づいてもいない。
もはやどこに特殊鉄鋼の監視カメラが設置されてあるのか分からないのだから。憤怒に燃えてはいたが、どこかで二人は冷静だった。ここでお互いに喧嘩した所で発見されているのは目に見えているのだから。ただ、捕まりたくないという一心で二人は行動を共にしていた。
「ねえ、あなたが初めて私に会った時のことを覚えてる?」
「瓦礫の山の中だ。虚無主義者から命からがら逃げて行き倒れていた。奴らはお前のことを知ってて捕まえに来たんだろう。お前の父親も特鋼の内輪もめに関わっていた人間だからな。そして奴らは一番偉い人間の意向に従って父親を始末した」
「死んだとは思いたくない……」
未練がある。
過去だ。過去への向き合い方がまるで違う。
「いい加減そんな過去に執着するのはやめろ。俺たちは結局こんな世界が故郷なんだよ。今、この時代阿故郷なんだ。それ以外を理想と思うな!」
今回ばかりは、絵子はもう怒りもしなかった。それどころか、不気味な笑顔すら浮かべ始めた。
心なしか、絵子が魯奈みたいな顔だった。
「私たちは、結局欠けてるのよ。欠けた部分を求めあうことしかできない」
まるで、哲樹が自分の片割にでも見えているような表情だ。哲樹は、そんな期待に生理的嫌悪感を覚えた。
「俺には欠けた物なんてない。今さら何を失ったか調べる気もない」
「だから、あなたは何も手に入れられない。狼みたいにさまようことしかできない。まあ、私も同じなんだけどね」
こうなると、絵子が悶々とする様子を煽ろうとする哲樹。
「それで俺を求めるのか? 制せ。俺は求めるのも求められるのも嫌いだ」
ひたすら奪われ続けた半生だ。今さら何を求めるのだ。自分の父となら、もう少し長く生きたかったかもしれなかい。だがそれすら、今ではもうすでに空しい。
「もう私には求めることしかできない。今を切り開くことなんてできない。それは違う。私たちは希望になんてなりえないのよ」
女々しい醜態を晒す絵子に、もう一度哲樹は拳を叩きこみたくなった。
二人はそれ以上空しい口論を続けることはできなかった。
「止まれ!」
敵意に満ちた叫び。
辺りを見回すと、銃口が前から、上から、後から向けられていた。
全部聞かれていた。哲樹は悔やむよりもまず、恥ずかしがった。こんな所で、男としての弱弱しい一面を見せてしまうとは。
「お前ら――」 二人は、抵抗する隙すら与えられなかった。兵士が数人がかりで覆いかぶさり、哲樹は背中を思いきり蹴倒され、地面に叩きつけられた。羽交締にされた。哲樹も絵子も思いきり後頭部を殴られ、ほとんど同時に気を失った。
最後に哲樹が見たのは、濃緑の帯で目隠しされる絵子の顔。
小野寺蝦夷はその日、大いに満足していた。
橋口絵子がついに捕縛されたからである。彼女は特鋼にとっては最も逃がしておけない人間だ。現に裏切り者の娘なのだから。
しかし、ぬか喜びもしていられない。
あともう一つの片割が見つからなければ、例の結晶は復活しないからだ。厄介なことに、一体その誰が片割なのかについては、錯綜している。
何でも、絵子と共に捕えられたあともう一人の少年も能力者なのだという。だが、蝦夷は喜びを深めるどころかむしろ冷めた声で、
「そいつは別の場所に連れて行け。さして大した能力も持っていないだろうからな」
受話器の向こうに吐捨てる。能力者なら誰であれ探られ、狙われる東京で、ずっと鳴りをひそめて逃げ回っていたなら、その程度の人間だろうと。
「撃墜された旧式装甲車両で見つかった手帳によると、織田哲樹、2030年生まれとのことです」
「織田? 聞き覚えがあるな……」
「彼が持っていた端末も押収しましたが、異能戦争において神研に織田将家の倅ですよ。戦後も東京でくすぶっていたそうです」
彼が絵子に片割を授けたのか。だが、情報によると片割は彼その者ではないというではないか。
あまりに情報が錯綜としている。事実を整理しなくてはならない。
「松川、お前も精力的すぎる。今日はもう休め。でないと上の奴らに対する心労に耐えられんだろう?」
これから、片割捕獲計画の進捗状況について提出しなければならない。失われた権力を取戻すためには
もはや海外の政治家たちにも根気強く根回しをしなければならない。そうやって何重にも裏をかかなければあの倍以上の年月を生きている男に対して太刀打ちができないのだ。
萌は、ごく小さな部屋に案内された。それは牢獄と言うには豪華だし、どこか高級なマンションやホテルというには若干質素なものだった。テレビも冷房も備え付けられ、十人程度が集まってもさほど窮屈さを覚えない広さと生活のしやすさがある。
無論この空間の中では、能力は使えない。それを感知すると部屋のシステムが特殊な脳波を関知して作動し自動的に身体に電撃が走るようになっているからだ。その代償によって、この快適さが捕虜の警戒心を緩め、感化させる。
相模原であるのは間違いないが、そこが警備事務――という名の軍事基地――なのか、あるいはどこかの高級ホテルの部屋なのか見当がつかなかった。
「貴様、この程度で神研の元ナンバーツーを屈従させられると思うなよ」
萌は極めて高身長な禅造に眉をひそめながら、
「心配には及ばんッ! これでもかつては裏切者として不信の眼で見られていた者だッ!」
それから、耳元で、
「我らは同志のような者だッ! 利用できるものは何でも利用し、使い捨て、上を目指すッ! それがこの混乱の時代を生き抜く者の信条だからなッ!」
小声でささやく。
こいつ、気が狂っていると萌は思った。よく特鋼はこんな忠誠心の知れた人間を登用したものだ。案外、特鋼も人材が足りないのではないか。
そう訝る内にも、禅造は本棚から二冊ほどぶ厚い小説を出して萌に。
「貴志雄介の『新世界より』では超能力者が非能力者を支配し、滅ぼすようになる未来が描かれているッ! だがそれは違う。能力は科学で十分制御のできる物だッ! 人間はいつだって科学だッ! 我々は科学によって世界を支配してきた。そして科学の力によって神の領域に至るッ!」
萌は、禅造が意外にも文学に関する興味があることに関心してしまった。そしてほとんどそんな芸術に縁がなかった自分の環境の荒々しさに、少しだけ嫉妬を覚えた。
「そんな浮かない顔をするなッ! お前は国にその力を以て尽くすことができるッ!」
その声は、壁を通り越して外にまで聞こえるほど大きかった。ちょうど猪治はその部屋がある廊下を通りかかってホールに行く途中だった。
猪治は部屋を出た禅造に敬礼してから、志水にぼそりとつぶやく。
「何て威厳なんだ。ただ武勇があるだけではなく文学の素養もあるとは」
最初は威圧感を覚えたが、今は素直に感心する。
「あれは確かに、色んな修羅場をくぐり抜けてきた人間の顔だ」
禅造は十年前まではアメリカの海兵隊として活躍していたらしい。特殊鉄鋼に移った経緯はよく分からないが、とにかく実戦経験が豊富ということでさほど支障もなく採用されたそうだ。
猪治はさほどその過去を詮索する気にはならなかったが、その指揮能力がどれだけ優れているのか、ぜひ実戦で知りたいと思った。
二階堂萌は今自分がどこにいるのかも、どこに連れていかれるのかも知らされなかった。
恐らく特鋼本社に行くのだろう。
東北の能力者を実験材料にしていると聞く。
彼は、特鋼の犬になるつもりは毛頭なかった。もし彼らが萌を使い捨てるのであれば、萌も徹底的に反抗する所存だった。
萌はとにかく『片割』を手に入れたいのだ。『片割』すら手に入れれば誰でも最強の能力者になれる。それがない限りは、能力者といえただの弱者に過ぎない。それさえ手に入れれば最強の能力者に――
◇
絵子は、一人の少年のことについて思いを巡らせていた。
哲樹とは、また別の人間だ。いや哲樹にとっては、知る由もない人間だ。
この少年の方が、もっとやさしい顔だちをしていて、人との扱い方を心得ていた。
絵子は、周囲には山が広がり、目の前の切り立った崖の下に森が広がっている。
「ずっと……ここで暮らせればいいのに」
「そんなことを、まだ期待してるのか」
少年はそう言った。絵子は自分と同じ境遇のその少年に対して、あまり失望することができなかった。
いつか必ず追っ手がやってくる。虚無主義者であれ、特鋼であれ。
「君も僕も、特殊鉄鋼から逃げてきたんだ。いずれここも、必ず戦場になる」
「でも私は、あなたと一緒ならどこででも逃げて行ける」
「呑気だね。僕みたいな取るに足らない人間をまだ信じるなんて」
最初、少年は自らの命を呪っているかのように見えた。
あの日、絵子は車に乗せられ、この東京の片田舎に連れて行かれた。
父が突然、特殊鉄鋼の上層部に捕えられたからだ。理由は分からない。しかし父は、超能力が発生するきっかけとなった謎の物体に関する研究を行っていた。恐らくそれで、何か重大なもめごとを起こしたのかもしれない。
東京の西、鬱蒼とした森林に一つたたずむ古民家に彼女は送り届けられた。もはや
その少年がいた。
「綺麗な瞳だ」
哲樹なら言いそうもない褒め言葉。
ずっと、東京に住み続けていたそうだ。それこそ、異能戦争が起きるずっと前から。
「僕は人形が好きでさ……それとよく似ているんだ。顔立ちが。いや、別にからかってるわけじゃないよ?」
彼の周囲ではいつも風車やゆらゆらと揺れていた。物を生きているかのように動かす力が彼にはあるらしかった。
幸いにも戦いに役立つ能力ではなかったために神研からも見逃されていたらしい。
絵子は野菜を冷やしたりした。まさか自分の能力がこんな風に訳に立つとは思わなかった。
「異能戦争の時はひどい目に遭った」
その時のことについてあまり話したがらなかった。
絵子は元から人のことを詮索する性格ではなかったから、実際互いの過去についてさほど話すこともなかった――あまりに共通する話題がなかったからだが。
「もう戦争が終わりかけの時……あの日のことが今でも忘れられない。僕みたいな一般市民の避難を先導する警察官がいた。で、その中の一人が、能力で警察官がいた。その人は僕の胸に手を当てて何かをささやいたんだ……すると……」
「すると?」
「何か力が入りこんできたんだ。その正体は分からない。でもあれを受けた瞬間から僕の体は前とは違うようになってしまった気がする」
「前と、違う?」
「何かに狙われているような……探されているような」
「単なる違和感じゃない。間違いなく僕の命を狙う奴がやってくるんだ」
絵子は聴いて、辛かった。せっかく安穏の地を手に入れたというのに、またそれを失わなければいけないというのか。
「そんな、脅すようなことを言わないで」
「ここには神研がいる。そもそも東京に行くことになったのも君のお父さんの指図だ。危険なことに巻きこませようとして、わざとこんな危ない場所に送り込んだのかもしれない」
何かを言いたげにしていたが、なぜかはぐらかそうとする。
「お父様は私の命を無造作に扱ったりなんかしない!」
今思うと、本当にそうだったのだろうかと思う。
哲樹や魯奈、様々な人間に会ってきたことを振返ると、絵子は自分の父が本当に親切な人間だったのだろうかとふと疑ってしまう。特鋼支配下での生活は確かに不自由のないものだった。しかし、それは自由の意味を知らなかったからだ。どっちが安全なのかというと、それは無論特殊鉄鋼の方だった。だが、そこで本当に彼女は幸福になれたのかどうか、どうしても疑ってしまうのだ。
ある日、二人は虚無主義者に襲われ、トラックに詰込まれた。
人生に意味はない――という恐喝を大音量で鳴らされ、何度も頬をぶたれ、絶望で気が狂いそうになっていた。
その時、どうやって脱出したのか今では憶えていない。神研に襲われたことだけは分かる。しかしそんなことは絵子にとってはどうでもいい。
安吉は絵子を脱出させ、自らは命を落とした。ただ、絵子を守ろうとした安吉の今際の姿だけが、鮮明に思い出せた。
銃創で血まみれになり、口からも何かを吐瀉しながら、彼は絵子の肩に手を載せて、こう言った。
「絵子……お前は『片割』を受け継がなければならない」
虚無主義者に狙撃され、頭から血を流す安吉の姿。
「だから生き延びてくれ。そして、必ず本社にたどり着くんだ」




