10 かつて遠き真実
二人は関ケ原にいた。ここを越えれば滋賀県だ。京都にはほど近い。
もはや名古屋や相模原みたいな都会とはほど遠かった。哲樹も絵子も、これほどひなびた――ビルもアパートもなく、田園の中に小さな――場所を見たことがない。瓦礫やアスファルトに満ちた廃墟や、伊豆のような自然の広がる荒れ野とはまた違った風情があった。
だが、それではただの田舎町というだけに終わる。
鉄柵の中に灰色の立方体が点在している。内部の様子はまるで見えないが、その表面に寄添うようにしてミサイルの発射台やらパラボラが立っており、えらくものものしい。
。東京での光景を急に思出して、哲樹は心穏やかにいられなかった。しばしば、神研の支配領域の端に行くたびに同じような施設が向こう側に見えていたから。
書くまでもなく特鋼の軍事基地だ。表向きは警備員と称しているが、実情はほぼ軍隊と言っても過言ではない。確保するために自衛隊の駐屯地すら接収したというのだから、彼らの力に対する渇望は目にあまるものがある。
忌まわしい基地を横目にしながら、高台の道路を歩いていると、突然、左側からあいさつが聞こえた。
「ズドラーストヴィチェ! スラマットサラン?」
絵子は当惑して両手を伸ばし、
「ごめん、その言葉は分からない」
「そうか、見ない顔だからさ」
新聞を抱え、帽子をかぶった少年がいた。穏やかで優しい感じの顔で、この風景と空気に何となく溶け込んでいる感じがある。
「この街は昔からこんな様子だったのか?」 訊ねる哲樹。
気づくと、道路に装甲車が数台走っている。
「初めて見た人にとっては見慣れないだろうけど、ここの住民にとってはおなじみの光景なんだ」
「異能戦争の時にはさぞかしせわしなかったろうな」
「いや、異能戦争ではさして活用されていないんだ。あの時は東海地方が主な戦場になったから……ああ、見えるよ。この地面の上を数人の兵隊が歩いてる」
目をつむりながら、額に指を推しつけながら、
「ええっと……すごい情報だ。特殊鉄鋼が東京に攻め寄せるらしいってさ」
「本当か?」
「今までは極力いよいよ神研の本拠地を叩くことになったんだって。でもひょっとしたら、もっと別の目的があるんじゃないかな」
哲樹はふと考えこんだ。これまで特鋼が神研を叩こうとすればいつでも叩けたはずだ。
しかしそれをしてこなかった。東京を獲得して利益になるものがないからか。
神研自体が近い将来自滅すると考えられている以上、無闇に戦力を繰出す必要もないがないはずなのに。
ひょっとしたら、徳富愛夢を捕縛するつもりか。
決定的な理由が分からないが、哲樹に振りかかった不穏な感情は凄まじかった。絶対に前触のような気がする。
「誰から知ったんだ、そんなこと?」 哲樹は少年に顔を近づけ、ごく低い声。
一瞬を顔を背けて、ひねりだしたかのように、
「酒保で聴いたんだ。話し半分だけど、軍の機密事項さ」
絵子も腰をおろして少年に向かう。
「少し前ならネット上に拡散されていただろうけど、今はほとんど機能してないからね」
哲樹は、今すぐにでもこの話の元を確かめたいと思った。だが、噂話に過ぎないものを鵜呑にするわけにもいかない。少年は哲樹が信じ込みそうな顔をしているのを見ると慌てて、
「ああ! 間違っても上には密告しないでくれよ。何されるか分かんないからな」
少年には怯えが見える。情報が限られている世界では、真偽のわからない風説がまことしやかにささやかれる。それを否定するために、特鋼がまたもや嘘と本当をないまぜにした情報を流すことになる。
「言わんよ。俺だって奴らに命を狙われてるんだからな」
哲樹は一瞬おどしつけるような申し訳なく思った。
市川魯奈に池仁吾郎。みな、どれも一癖二癖もあって、どう付き合えばいいのか分からない人間ばかりだった。
いまだに哲樹には人間との付き合い方がよく分からなかった。それも子供というのは、哲樹に不思議な親近感を覚えずにはいられなかった。年齢が近いからか。もしこれが太刀巳ほどの人間だったら哲樹がこれほどの罪深さを感じることもないはずだった。
「命を狙われてる? 何で……」
不思議がる少年。
哲樹は、今度は彼を心配させないように、
「ちょっとあってな。まあさして大事なことでもないよ」
「あのね、哲樹……」
絵子が哲樹の急な発言におののく。
「俺が死んだところで世の中にさして影響なんてしないからな。信じるかどうかはお前次第だよ」
「……二人とも色々あるんだね」
哲樹にしてみれば、人に興味を持つような努力をしているのかもしれない。
だが、絵子も、哲樹も、この逃避行であまりに壮絶な経験をしすぎた。明るく振舞おうにも、そうはできない重荷を負過ぎている。
目の前の少年は、無論彼らの事情など勘案する由もなかった。
「どこから来たの、二人は?」
「東京だよ。神研から決死の覚悟で逃げてきた」
「ああ。だからそんな驚きようなんだな」
絵子は、自分よりも幼い子供がこのような仕事に従事しているのを不憫に思った。
「じゃあ能力者なんだ」
「そうなるわね」
少年は少しためらってから、こう打ちあける。
「実は……その、僕も能力者なんだ」
「もしかして、風景の記憶を再生できるとか」
絵子は大したことでもなさそうに言った。哲樹ははっとして、やはり女とは勘の鋭い生物だと見た。
「わ、分かってたんだ。でも、もちろん隠してるよ。捕まったらどうなるか分からないから」
最後の声はほとんど耳打ちだった。
哲樹は、どんな声をかければいいか迷ってから、静かにささやくように答える。
「じゃ、胸張って生きろよ。同じ能力者同士、何が起きるか分かんないんだから」
一期一会ばかりが真理のこの世界では、それがせいぜい巧みな別れの言葉だった。
遠くでは黒ずんだヘリが敷地の中に着地しようとしている。
◇
コンビニで唐揚弁当を買ってから、太田猪治は自分の持ち場に赴いた。超能力者三人との接触から月日が経ち、ほとんど街での能力者の騒動の話題も聴かなくなっていた時に例の話が聞こえてきた。
「東京侵攻だと?」
基地の中で少年たちは騒ぎあっていた。
「今さら日本の首都を元に戻そうってのか。当てもないのに」
「上が決めたことだ。俺たちが関わることじゃない」
「おい、何を話してるんだ?」 風間を見つけると、すぐに問いかけた。
「言葉の通りだ」 風間は作業をしていた。
整備兵たちがせわしなく動き回っている。ミサイルや戦車など、一つの都市を相手にするには過剰とすら思える。だが彼らにとってはそれでも
事実、異能戦争の時には銃弾やRPGの弾丸を跳返す能力者が確認されていた。現代兵器ですら奴らに太刀打ちできるとは限らない。
命をかけて戦うことに恐怖はある。しかし強く感じるのはそれとは別の、不安。
猪治はあの三人の能力者を目の前にしてからというもの、一層神智学研究会を目の敵にしていた。神研こそが、能力者の首魁なのだから。彼らをさっさと倒さなければならない。
だが、実の所それを急に進めようとする上層部にも不安を感じる。ひょっとしたらその動機は、政治的な利益などではないのかもしれない。ひょっとしたら、人間の存在のあり方を覆すことなのではないか。
「ただ単に領土を取り返し以上の遠大な目的があると思う。俺たちが預かり知らない何かが」
「知らない何か?」
風間は、その言葉の続きを聞きたがった。
「いや、俺たちには関わりのないことだな……」
太田はもうそれ以上考えようとはしなかった。いや、考えられなかったのだ。俗世や善悪を超越した思考など彼の人生とは無縁なものだった。
彼に取ってこの世の真理とはこうだ。権威ある者の命令に従う他はないということ。
◇
かつて、明宝大学に保管されていた緑色の結晶のことを蝦夷は思い出していた。
数万年前の隕石の中から見つけ出され、二十年ほど前に割れて人類に超能力を発現させた呪物。様々な紆余曲折を経た結果、それは特鋼地下の金庫に厳重に保管されていた。
だが、超能力その物は単なる前段階に過ぎない。蝦夷は確信を得ていた。
人間が能力を獲得した先に何かがある。
蝦夷ですら、その先の姿を知っているわけではない。
恐らく、神研の首領である愛夢しか知っていないことだ。愛夢が例の力を持ち主だとしても何もおかしくない。
蝦夷が初めて特鋼のオフィスの扉をくぐった時、超能力などこの世界には影ほども存在しなかった。蝦夷はただ国家の振興のために働く一人の実業家でしかなかった。
富だけが、この世界でもっとも確かな物だと考えていた時期が蝦夷にもあった。あらゆる生命と資源の価値が金によって値札をつけられていくこの世界では、金を手に入れることしか人生の原点にはなりえない。
国を富ます源になることでしか、蝦夷は自分の生きる意味を認められないと堅く信じた。
それ自体は間違っていない。今ですら蝦夷は愛国心を失っているわけではない。だが今の蝦夷には、国家同士の駆引以上に大事な物が存在しているのだ。
『手に入れる日曜日』で、人間は超能力を得た。ある者は氷を創り出し、ある物は誰かの記憶をたぐりよせる力を。
この出来事で蝦夷は人生が変わった。初めて蝦夷は、人間の理屈では理解できない、得体の知れない物に出会った。
『これ』のためなら、たとえどれほどの犠牲を払う物だったとしても命を捧げざるを得ない。
だからこそ、東京の侵攻に蝦夷は一縷の期待をかける。神研に資料があるかもしれない。例の結晶の真の姿を蘇らせる何かが。
だが、それを理解しない馬鹿はあまりにも多い。蝦夷にはあまりにも敵が多い。そして、残された時間は少ない。
部屋に突然一人の男が車椅子に乗せられて入ってきた。二人の、ごく無表情なサングラスがその背後に従っている。
男は銀髪で、顔には幾重にもしわが刻まれ、弾力がまるで感じられない。しかし、生気までは失われていなかった。むしろ、その両目は反比例して若々しく、ぎらぎらとした光を瞳から放っている。
「平助か」
蝦夷は最初から腹を立てた声だった。仕事を邪魔された以上に、その存在に嫉妬を感じていた。
「私はお前の半世紀以上も年上なんだぞ。もう少し礼儀を尽くすべきではないのか」
声もなく笑う。それがまた何か悟ったような風貌を見せて、なおさら不気味だった。
「貴様は東北の超能力者を殲滅する作戦でも立案していればいいだろう。なぜこんな場所に用があるんだ」
平助は怒りもしなかった。ただ、蝦夷を自分の子のように穏やかな眼で見ていた。
蝦夷はまたもや昔を思い出し、不愉快になった。特殊鉄鋼が成立した時点で蝦夷はようやく男盛りになろうとしていた。若者から大人への仲間入りを果たそうとしていた。
「そういうお前こそもう一度昇進したいと思わないか?」
「昇進? 何を言うか。私はもう後進を育てなきゃならない時期に来ているんだぞ。貴様もそうだぞ、平助」
しかし表情は覇気に満ちていた。ほとんど髑髏に肉がついただけの風貌になりかけていても、平助は生への欲望にみなぎっていた。
虚飾ではなくむしろこちらからその強さを認めたくなるものであるからこそ、内心ますます蝦夷は憎悪を深めた。
蝦夷が物心つく前から、この男はすでに老年にさしかかっていたのだ。
蜷川平助。
蝦夷よりも年上の男だ。年上どころか、還暦を二回迎え、半世紀以上の歳の開きがある。
科学が高度に発達した世界では、もはや珍しくもない長寿だ。
平助は、平成どころか太平洋戦争が始まる以前に生まれた人間であり、すでに白髪が額にまで伸び、顎にもひげを蓄え、まるで仙人のような風貌があった。だが、髭は哲学者を作らない。とてつもない俗物であることは、その人生からありありと分かる。
いつになったら死んでくれるのか、蝦夷には見当がつかなかった。
「自分の妄想を信じ切って、まだそんな研究に没頭しているのか?」
平助の言葉に一瞬むっとする蝦夷。だが、もはや腹を立てる必要はない。
もうすぐ世界がひっくり返るのだ。人間の世俗の立場など軽蔑すべき物でしかなくなる。
蝦夷は、そんな世界では自分は一番評価されると信じて疑わない。
「『片割』を探しあてるためだ。地球外からやって来た古代生命体を復活させるためにな」
「古い論文の、信憑性もない情報にすがるのだな」
「あれは出鱈目ではない。真実だ。神に至るための確かな手段なのだ」
蝦夷は力説した。
目の前にいる人間は海千山千だ。そんな人間を言いくるめるにはひたすら人智を越えた何かを力説する他にない。
「『片割』が徐々に京都に近づきつつある。三体の内の一体が我々の手の中に入ろうというのだ」
『片割』という言葉に少し眉をひそめる平助。
「ノヴィコフ博士の娘のことか」
この男、そんな話を全く信じていないはずだ。なぜ真実味があるように今さらそんなことをほざく――その名をはっきり言われると蝦夷もあまりいい気分がしなかった。
アレクセイ・ノヴィコフ――彼こそが三菱特殊鉄鋼に超能力の研究に資した人物であり、例の結晶の意味をもっとも知悉していた人物。
いや、元は彼こそが『片割』だったのだ。もしこの会社の中で健在だったら、蝦夷がこんな地道な努力に手を貸す必要もなかったのだ。だが彼は泥臭い政争の中で突如消された。
もはやその生死すら定かではない。
「古代生命体。いずれ貴様にも分かる」
平助は顔を上げて少し考えていた様子だったが、また蝦夷の目をじっくり見て「やってみるがいい」と言って、付添人と共に音もなく部屋を退出していった。
蝦夷はあの後、平助はまた中国からの物資の輸入について論議を重ねるのだろうと勝手に推測した。『片割』というそんなよもやま話に固執する蝦夷を、いまだに古い体質から脱却しきれていないのだと嘲笑しているのだろう。
だが平助たちに思い知らせるべきだ。もうすぐ時代が変わろうとしている。新しい時代がやってくる。
ノヴィコフの娘に関して蝦夷はほとんど何も知らない。知る必要もさして感じなかった。彼の娘を見つけ出し、結晶を復活させる。そのための道具なら、何でも手に入れる。それが人の命だとしても。




