リセット
『十二月二十四日休み。事由、有給消化のため』
人生は厳しく残酷で、運が良かった極限られた人間だけが幸福を手にするゲームだ。
人生はまさに宝くじであり、生まれ出でた時点で抽選を行なうギャンブル。少なくと俺は、ずっとそう考えている。
ゲームの様にリセットが可能なら、いくつものあの時、あの瞬間をやり直したいと思う事がある。人生が厳しく残酷だと思う一番の点は、間違えたらリセットができない、死ぬまで終わらない詰んだゲームと化す事だろう。
こんな偉そうな事を言っている自分の人生も、大した事はない詰まらないものだ。いや、詰まらないだけならまだいいが、人生とは生きていくだけでも大変な、高難易度育成シミュレーションである。
「生きるのが嫌なら死ねばいい」と言う奴もいる。いやいや、そう簡単に自らの命を絶てないのが人間というものだろう。厄介な事に人間には感情があって、これが壊れない限りは簡単には死ねないのである。
神様という奴は非常に残酷な設計で世界を創ったのだが、人間とは、死にたいと願う者ほど中々死なず、逆に生きたいと願う者を容易く殺していくのである。もし死後の世界があって神という奴に会えるなら、俺はそいつをぶん殴ってぼこぼこにして、両腕両脚の骨を複雑骨折してやりたいね。
まあそんな訳で、死ねないなら生きるしかなく、生きるためには働かなければならない。何故なら、働かなければ金を稼ぐ事ができないからだ。時代は変わっても、この世はどこまでいっても金である。
この世界、というかこの国は特に、「貧乏には死ね」と言ってくる。何が税金だ、何が年金だ、何が保険だ馬鹿野郎。貧乏人から金を毟り取ってくんじゃない。普通の生活ってやつが送れないだろうが。その癖ニュースでは、「今年の結婚率や出生率が過去最低を記録し―――――」とかなんとか言っている。
阿保かお前、こっちは独り身で今日を生きるのに必死なんだよ。金が無いのに結婚や子作りなんてできるか。結婚相談所がいくら掛かると思ってやがる。
まだ三十手前で将来は孤独死確定だと思う俺にできるのは、取り敢えず働いて金を稼いでおく事だけだ。兎に角金さえあれば、人生色々何とかなる。残業でも何でもしまくって、将来の為に金を稼いでおかなければならない。
そんな風に思っていた時期が俺にもあったわけだが、世は今や労基が厳しい勤務改革時代である。金を稼がなきゃ生きてけないと言ってるのに、労基や会社は勤務時間や休みに五月蠅くなってきた。そんな事より俺達の給料上げろって皆言ってんだろ。俺達に止めを刺すんじゃない。
そうは言っても、会社の決定事項に逆らう事はできないから、休めと言われたら休むしかない。特に予定のない十二月二十四日に有給休暇を取ったのも、長くなったがそれが理由だ。
未来を夢見る若者達よ、俺を見ろ。悲しいが、君達の未来は決して明るくない。
こうやって人生を悲観する毎日なわけだが、休日は特にそれを深く考えてしまうものだ。働いている方がそういう事を考えずに済んで楽な時もある。
金も無ければ、互いに寄り添い合う女もいない。生き甲斐も無い。二十四日に予定などあるわけのないこの俺に、聖夜を一体どう過ごせというのだ。こうなるともう、休日を過ごす方法はあれしかないだろう。
昼頃に目を覚まし、散らかった部屋の中、寒さに身震いしながら支度を済ませ、なけなしの貯金を下ろして行くところと言えば、勿論パチンコ屋である。
金が無いのにパチンコ屋なんかに行くなよという奴もいるだろうが、その発言は間違っている。金が無いからパチンコ屋に行くのだ。言ってしまえば、宝くじで夢を買うようなものである。パチンカスはギャンブルに夢を見たいのだ。
結果、今日は散々に負けた。いや、ただ負けただけならまだいいが、回転数はとんでもない数までハマり続け、稀に来る激熱演出は全て外し、一度も大当たりを引く事なく終わったのである。ここまでくると、遊技機の楽しさというものを全く感じない。怒りだけが猛烈に込み上げるだけだ。あまりの怒りに、店側の遠隔操作を疑った程だ。ストレス解消にもなりゃしない。
最悪だったのは、隣に座っていたマナーの悪い客の方が、初っ端から当たりを引いて大連荘していた事だ。禁止事項の止め打ちはしてるし、怒鳴るし、台は叩くしで最悪の客が、俺の隣で滅茶苦茶ラッキーな勝ち方をしている。俺の台が当たらなかった事より、隣の客に対しての方がよっぽど腹が立った。
苛々しながらパチンコ屋を出た後も、散々な目に遭った。
犬の糞を踏むは、突然雨に降られてびしょびしょになるは、何もしてないのにお巡りに職質受けるは、頭のおかしい酔っ払いに絡まれるは、もう最悪だった。
極めつけは、帰り道に横断歩道を渡っていたら、ちゃんと前を見てなかった車に引かれた事だ。物凄い勢いで突っ込んできて俺を撥ね、車は逃げる様に走り去っていった。その時運転していたのが、七十近くの爺さんだった事はちゃんと見た。まともに運転できないなら免許返納しやがれ。
撥ねられて体が吹っ飛んでいったが、何と俺は無傷だった。変な話だが、掠り傷一つ負ってなかった。痛みも全く感じない。痛いのは嫌いだから、何も苦痛を感じなくてラッキーだった。
最悪の休日となった二十四日の夜。
警察に通報するのもめんどくさくなり、家に帰って一人カップラーメンを啜り、面白くもないテレビ番組をぼーっと眺めるだけ。こんな事だったら、有給など取らずに働いている方がマシだった。無駄に金を失って、残ったのはどうにもできない怒りと後悔の念だ。
人生とは、より良い道を選ぶのではなく、より後悔しない道を選ぶものだ。自分にとって、如何に大きな後悔を生まない選択を取るかが、人生の選択というものである。今回の場合で言えば、俺はパチンコになど行くべきではなかったのだ。パチンコで失った金をもっと有意義に使えば良かったのである。
この国の教育は、未来ある子供達にもっとこういう事を教えるべきなのだ。人生、後悔してからではもう遅い。どう足掻いたところで、ゲームみたいにリセットなどできなのだから⋯⋯⋯⋯⋯。
「あー、ちくしょう。こんな今日で終わりだなんて、いっそやり直したい」
ベッドに入って、何の変哲もない自分の部屋の天井を眺めながら、一人哀れに愚痴を溢す。この愚痴が、「我らの愛する糞ったれ理不尽な神様に届きますように」ってね。
すると、どうだろう。まさかまさか、こんな奇跡を一体誰が予想できただろう。
二十五日はいつも通り出勤だから早く仕事に行かないと、と思ってベッドから起きると、何故か言葉にし難い違和感を感じた。その違和感の正体は、時間を確認しようとスマホの画面を見た時に分かった。画面の日付は、十二月二十四日のままだったのだ。
通りで、部屋の散らかりようが昨日の朝と同じだと思った。じゃなくて、そんな事よりも大変だ。まさかアニメさながらのさながらのタイムリープが、実際に起きてしまうなんて思っても見なかった。どうやら本当に神様という奴は存在しているらしく、俺の愚痴をちゃんと聞いていてくれたようだ。
いや、もしかしたらこれは聖夜の奇跡。白髭のサンタクロースが俺にくれた、十数年振りのクリスマスプレゼントなのかもしれない。
この際何でもいい。あの最悪だった二十四日をやり直せるチャンスだ。これを活かさないと折角の奇跡が無駄になる。
最悪だった方の二十四日の出来事を全て思い返した俺は、希望を胸に我が家を後にした。勿論、なけなしの貯金と傘を持ってである。向かった先は前回と同じくパチンコ屋だ。もし俺の予想が正しければ、今日という日は全て俺の思いのままなのである。
まず最初はパチンコ屋。座った台は、昨日散々負けた台の隣の台。たった一枚の千円札を入れただけで大当たりして、そこからは先は終わらない大連荘である。今までの人生で、こんな大勝ちができた例はない。お陰で感動のあまり少し泣いてしまった。
因みに、前回俺が座った台にはあの迷惑な客が座って、散々な負け方をしてブチ切れていた。俺の方を憎らしく睨んで、自分の台をぶん殴って壊した挙句、店員に警察を呼ばれて連行されていった姿は、笑いが止まらなかった。
その後はと言えば、前回と同じところにあった犬の糞を回避し、突然の雨には予め持ってきた傘をさした。職質と酔っ払いも回避してやろうと思ったが、それでは少し詰まらないなと思って、敢えてお巡りさんにこっちから会いに行き、酔っ払いが通行人を殴っていたと嘘を吐いて、俺じゃなく酔っ払いを職質させてやった。その様子を離れて見ていたが、逆上した酔っ払いがお巡りを殴って大騒ぎ。お巡りは怪我をして、酔っ払いは逮捕された。良い仕返しになった。
お巡りよ、職質する相手を間違えるな。お前達が職質するべきはそういう奴らだ。
酔っ払いよ、糞迷惑だから昼間から飲んだくれるな。そういうのは家でやれ。
そして残すところ、最悪の二十四日最後のイベントだ。
車に引かれると分かっていて、態々向かう馬鹿はいない。だが、このまま放っておいたら、自分以外の誰かの身が危ないかも知れない。俺はいいが、あんな糞爺のせいで、罪のない人が死ぬのはやり切れない。
これは交通事故を未然に防ぐ為にも、予め警察に通報しておくべきだろう。「今日この辺の道を、制限速度を無視して走る年寄り操縦のミサイルが通る」って。
最悪から一転し、最高と呼べる日曜日。勝った金で高い焼肉を腹いっぱい食って、超ご機嫌な無事の帰還を果たした。
こんなに気分が良い日は何年振りだろう。生きてるのって、こんなにも楽しいんだって事を忘れてた。それが思い出せたのは、サンタさんがくれたクリスマスプレゼントのお陰だ。
今日一日、とても満足できる休日だった。だが、明日になればまたいつもの日常だ。こんな幸福を味わった後じゃ、明日を迎えるのが嫌になる。一夜の奇跡がずっと続けばいいと、本気でそう思ってしまう。
人間とは欲深い生き物で、その欲は果てしない。神様に見限られても文句は言えない生き物だ。だから俺は、今夜もベッドに入って同じように願った。
「明日なんて来なくていい。また今日をリセットしてくれ」
結果を言ってしまえば、奇跡は継続していた。
俺は再び二十四日をやり直していたのである。こうなるともう、奇跡が終わってしまうまで遣りたい放題である。
俺に起こった奇跡は終わらなかった。俺は何度も何度も十二月二十四日を繰り返し、その時の気分で何でもやった。
四回目には映画に行った。仕事が忙しくて中々観に行けなかった、俺の大好きなシリーズの映画だ。俺が好きな展開が終始続いたお陰で、映画はこの上ないくらい大いに楽しめた。円盤出たら絶対に買うと決めた。
七回目あたりでは風俗に行った。これがまあ普通なら絶対できない事なのだが、とある高級店に貯金を全部突っ込んで、リストから選んだ嬢を一人抱き、リセットした次の時には別の嬢を抱く。それを繰り返す事で、その店の嬢を全てコンプリート出来るわけだ。店一つをコンプするくらい金で女を抱くなんて、普通ならこんな贅沢、よっぽどの金持ちじゃなければできないだろう。
時が繰り返せる。何度でもやり直せる。だから俺は、これを活かして二十四日を遊び尽くした。
一日中ゲームをやってみた。一日中カラオケで歌ってみた。朝早起きしてみて上手い朝食を作ってみた。欲しかった高い服を買ってみた。高級料理店で高級食材の入った料理を食べてみた。一日中何も考えずだらけてみた。
兎に角、したいと思った事は何でもやってみた。何をやってみても楽しくて仕方ない。今が一番、自分の人生を楽しいものだと感じている。どれくらい二十四日をやり直したか忘れたが、いっそこのままでもいいかも知れないとさえ思う。
しかし、この世界に永遠というものは存在しない。どんな事にも、必ずいつか終わりが訪れるものだ。
この奇跡がいつ終わってしまうのか、具体的なところは俺にも分からない。じゃあ仮に、次のやり直しが最後だったとしたら、自分は何をする。
人生は、より後悔しない選択を取るゲームだ。人生最後の瞬間に、沢山の後悔を残して死にたくはない。だから俺は、この奇跡がいつ終わってもいい様に、後悔を残さないために挑戦しようと思う。
俺の挑戦とはつまり、好きな人への告白である。
相手は会社の上司の女性。これがもう滅茶苦茶美人でしっかりしている人で、俺個人としてストライクゾーンど真ん中なわけである。だがしかし、今日に至るまで俺は彼女を遠くから眺めるだけの、臆病な片思い男子であった。
だって彼女、イブの日に有給を取って休んでいるのだ。有給消化の俺と違って、絶対別の男と付き合っているだろうから、聖夜を共にするために有給を取ったに違いない。嫉妬したくなるが、今まで想いを告げなかった自分が悪いのだから、こればっかりは仕方ないのだ。
とは言え、想いを告げるだけならいいだろうさ。別に寝取ろうってわけじゃないが、このまま想いを告げなかったら、多分一生後悔する。奇跡がいつ終わるかは分からないが、ここはひとつ勇気を出して告白して、予想される人生の後悔をちゃんと消して置こうじゃないか。
「リセット」
そして俺はいつも通りベッドに入り、決意を胸に魔法の言葉を口にした。
何度目か分からない二十四日の朝。
ベッドから起きて着替え、顔を洗って歯を磨き、髭を剃って綺麗に髪を整える。身形を清潔にして覚悟を決め、俺は女上司に電話を掛けた。電話は直ぐ繋がって、彼女は用件聞いてくる。俺は彼女を呼び出す事に成功し、時間を決めて待ち合わせをしたのである。
少し早めに待ち合わせ場所に着くと、程なくして彼女の方もやって来た。相変わらず綺麗な女性で、俺に向かって手を振ってくれている。正直、超可愛い。
「愛しています。俺と付き合って下さい」
心臓が飛び出しそうになるほど緊張したが、勇気を振り絞った俺は、彼女に愛の告白をする事ができた。
最後の方は声が裏返り、顔が真っ赤になるほど恥ずかしい思いをした。それでも彼女はこんな俺を笑わずにいてくれて、優しそうに微笑んでくれていた。
「ええ、喜んで」
付き合って欲しいと、ド直球でぶつけた告白の返事は、何とイエスだった。俺はもう信じられないくらい嬉しくて、嬉しさのあまりその場で号泣してしまった。そんな俺の涙を、優しい彼女が自分のハンカチで拭ってくれる。
そんなこんなで、ほぼ確実に駄目だと思って玉砕覚悟で挑んでみたら、返ってきたのはまさかの返事だった。しかも彼女、このまま俺をデートに誘ってくれたのだ。
当然ながら、イエスの返事を貰えると思っていなかったので、この先のデートプランなどあるはずがない。まして、彼女の方から誘ってくるなんて想定外もいいとこだ。
一体どうしたものかと、困り果てた俺の手を彼女が取って、色々な所へ連れてってくれた。一人じゃ絶対行かない大きな公園。カップル御用達のお洒落な喫茶店。買い物の為に入った人気のデパート。どこへ行っても、彼女がいるだけでとても楽しかった。
陽も落ちて暗くなり、夕食時になっても彼女と一緒だ。ディナーの予約などしていないから、買い物で入ったデパートのファミレスで彼女と食事を楽しんでいる。もう少し良い店で美味しい料理を食べさせてあげたかったが、こればっかりは仕方がない。
それでも、彼女と一緒に食事できるだけで、俺にとっては何処でも天国だ。彼女も俺と同じ思いなのか、ファミレスのディナーを美味しそうに口へ運び、俺に女神の様な微笑みを返してくれる。俺はと言えば、出てきた料理の味なんて分からなくなるくらい、愛する彼女に夢中になっていた。
俺達は、時間も忘れて会話に熱中した。面白いくらい話が合って、長年の友人と話しているような気分だ。俺の冗談に彼女が笑い、彼女の意外な話に俺が驚く。好きな映画が一緒だと分かった時なんて、それはもう夢中で語り合ったものだ。
「⋯⋯⋯⋯もうこんな時間か」
「ねぇ、これからどうしよっか」
「うーん、一緒にホテルとかどう?」
「ばか、そういうのはまだ早いでしょ。他にしたい事はないの?」
「他にしたい事⋯⋯⋯⋯?」
もう夜も遅い。時計の針は、あと少しで二十五日を告げる。そうなったら、この幸せな二十四日は終わってしまう。名残が惜しいが、幸せな時間は有限なのである。
でも、今の俺にやり残した事はない。彼女と過ごしたこのたった一日が、俺の全てを満たしてくれた。お陰で、やり残しなんて何も思い浮かばない。
これが現実であって欲しい。この幸せな時間が確かに存在していたと、明日に刻みつけて欲しい。
本当はもう分かってるんだ、これは夢だって。だって夢じゃなきゃ、こんな都合の良い事ばかりなんてあり得ない。世の中そんなに上手くできていないだろ、なあ神様?
「もう、思い残す事は無いのね」
「ああ⋯⋯⋯⋯。最高のクリスマスイブだったよ」
聖夜の奇跡。サンタクロースが俺にくれたプレゼントは、人生の選択のリセット。沢山やり直したから、未練はなくなった。何より、あんたがくれたプレゼントのお陰で、俺は勇気を出して人生最高の選択をした。
欲の塊みたいな性格の俺でも、流石に満足だ。これが最後でいいから、止まっていた時間を戻してくれ。そろそろ眠くなってきた。
「リセットは⋯⋯⋯⋯⋯、もう終わりにする」
最後の時間を過ごすのが、片思いしてた彼女で本当に良かった。リセットを終わりにしても後悔はない。
人生最後の瞬間を迎える時、より後悔しない選択ができたと思う。どんな形で在ろうと、人の人生はたった一度切りだ。幸福であろうと不幸であろうと、自分が死を迎えるその時、後悔しないで一生を終えなきゃ損だ。
俺はこの奇跡があったから、後悔なく明日を迎えられる。でも俺以外の人達には、こんな奇跡が訪れる保証はない。だから、人生最後の瞬間に、最高の人生だったと思えなくとも、なるべく良い選択をして、せめて悔いのない人生だったと感じて終わりを迎えて欲しい。勿論、俺の目の前で微笑む大好きな彼女にも⋯⋯⋯⋯⋯。
「こんな自分勝手で屑みたいな俺に、夢の様な時間をありがとう」
時計の針が十二時を差すまで、俺は彼女と幸せに満ちた時間を過ごした。
そして彼女に見守られながら、ゆっくりと薄れゆく意識に逆らわず、俺は誘われた深い眠りの底へと落ちていったのである。
十二月二十五日。
この日、とある病院で一人の男が亡くなった。
男は二十四日の昨日、老人が運転する車に撥ねられ、意識不明の重体で病院に運び込まれたが、手の施しようがなく、まもなく息を引き取ったのだ。
まだ若いというのに、悲しく残酷な話だと誰もが思った。誰もが彼を、クリスマスの日に残りの人生を一瞬で奪われた、不幸で可哀想な男だと思ったのである。
だが、病院のベッドの上で息を引き取った男は、最後に微笑みを浮べて旅立っていた。
彼の微笑みは、人生に不幸や後悔など微塵も感じていない、満ち足りて嬉しそうな微笑みであったという。