446. 旧サイティオ郡の治水に関する説明
図書室での下調べは終わりました。
ビリア司書が選んだ書物のうち、『クシピナ市の20年』と『イルドナの昔と今』は写本を購入することにした。
件の『新時代の治水に関する構想』は、本文10ページ程度で内容は「机上の空論以下」と思われたため、写しも取らなかった。
クロド支部長は支部に残り、メリキナ女史とともに市庁に戻ると、秘書課から4日の視察の日程が示された。
由真たちは、8時52分にアトリア西駅から発車するコノギナ線の快速列車に乗り、アトリア南駅でベニリア本線の特別快速に乗り換えて現地に向かう。
最寄りに当たるベニリア本線トリミア駅に、ベニリア魔法油トリミア製油所の担当者が9時40分に迎えに来る。
クロド支部長はトリミア駅に先に入って、由真たちとは現地で合流し、製油所の担当者とともに製油所に向かう。
10時から製油所で説明、その後、製油所とこれに隣接するゴムノ工場を続けて視察してから安全祈祷を行い、11時40分頃に午前の視察を終える。
トリミア駅付近で昼食をとり、ユイナ、香織、沖田はここで別れる。
午後は、ヨトヴィラ市役所でフォルド副知事と現地集合して、1時半から市長と面会する。
意見交換終了後、フォルド副知事に市長も伴って、ヨトヴィラ港管制所に移動して現地を視察する。
それからヨトヴィラ駅に入り、ヨトヴィラ・メトロの駅と水害対策施設を視察してから、知事用のバソでアトリア市庁に戻る。
その日程を確認して、その日の仕事は終わった。
明けて、初秋の月3日。
9時半に、フォルド副知事、ヴィルニオ副知事にシヴィルノ基盤局長が入室してきた。
「旧サイティオ郡は、一昨日御説明いたしました通り、コーシア川とサイティア川が合流する低湿地帯となります。
ただ、アトリア市の北に隣接しますヒルティア県から先、トビリア地方との間を連絡するには、この地域を通るより他にございません。
そのため、第二次ノーディア王朝成立直後に、南のタミリア台地と北のサイティ山地の間の沿岸地域に点在しております、テニディ丘陵、ワラニ丘陵、コムシ丘陵を橋梁で結び、鉄道のトビリア本線に道路のトビリア街道を整備いたしました。
これらの丘陵地帯には、現在、テニディア市、ワラニア市、コムシア市が置かれております」
ヴィルニオ副知事がそんな説明を始める。
「その後、アトリアの人口増に対応するため、大陸暦87年に整備計画が策定され、西部のクシピナ地区に公共施設と集合住宅を整備するとともに、アトリア・メトロのイルドナ線も93年に開通いたしました。
クシピナ地区は、第2環状線とイルドナ線の通る要衝となり、97年に4町が合併してクシピナ市が発足し、晩夏の月1日時点で人口約52万人となっております」
「そうすると、旧サイティオ郡で人口が集中しているのは、東部のテニディア、ワラニア、コムシアに、西部はクシピナ市ですか」
由真が問いかけると、3人がそれぞれに頷く。
「その4市の治水は、どのように取り組まれていたのですか?」
「先ほど副知事のお話に上りました、トビリア本線とトビリア街道の整備に当たりましては、今の3市の境に当たります、シドニア川、テニディア川、ニスフィア川、コムシア川に堤防を整備しております。
クシピナの開発も、シナニアに赴任されていたタツノ副長官の意見を取り入れ、南のコーシア川と北のサイティア川に堤防が建設されています」
今度はシヴィルノ基盤局長が答える。
シナニア辺境州に出ていたタツノ副知事の意見も聞きながら事業を進めていた。
先代アスマ大公――現国王は、それだけタツノ副知事を信頼していたのだろう。
「100年代に入ってから、更に開発を進めた、と聞きましたけど……」
「はい。沿岸南端でタミリア台地に隣接しておりますセルフィア村、それと沿岸北端でサイティ山地の麓に当たりますノスクリア村、この2カ所について、シドニア川とコムシア川の堤防を強化、延長して一部を干拓し、工業施設を整備いたしました。
その後、シンカニア・トビリア線をテニディア市まで延伸させることとなったのですが、3市は既に都市化が進展しておりましたので、テニディア川とニスフィア川の堤防につきましても、強化の上で東西両方向に延長いたしました。
同時並行で、上流となりますサイティア川につきましても、クシピナ付近の堤防を強化しております」
それが、昨日見た『旧サイティオ郡3市河口堤防整備事業について 大陸暦111年度版』と『サイティア川の治水及び利水の現状』に記された事業だろう。
「なるほど。そうすると、今後は、どうする予定なのでしょう」
何よりも重要なそのことを、由真は問いかける。
「今度は……クシピナより下流となります、旧サイティオ郡中央部の扱いが課題ですが……」
シヴィルノ基盤局長は、そこで言葉を止めて、そして副知事2人に目を向ける。
「実は、市会の一部には、このような構想がございます」
それまで無言だったフォルド副知事が、そう言って1枚の紙を差し出す。それは――
「『新治水構想の概要』?」
そんな表題の付されたその紙に記されていたのは、昨日見た『新時代の治水に関する構想』の要約だった。
その上で、コーシア川がタミリ山地を通過する部分に堰堤を整備して、旧サイティオ郡中央部の開発を進めるという「構想」も掲げられている。
あの「机上の空論以下」の内容を、知事室の説明の場に示した意図は――
「これは……何ですか?」
由真は、まずそう問いかける。
「旧サイティオ郡の湿地帯は、コーシア川の流水によるものです。そこで、地系統魔法によって、タミリ山地に堰堤を建設すれば、コーシア川の流量が減り、治水の問題も一気に解決する、という構想です」
フォルド副知事は、由真の目をまっすぐ見据えて言う。
「こんなことが、可能だと?」
「大地母神様への祈祷は、セレニア神祇官猊下にお願いできるでしょうし、地系統魔法なら、アムリト男爵コスモさんがおられます」
副知事は、ユイナに加えて、一連の武勲で男爵に叙されたコスモの名を挙げた。
「そして何より……閣下のお力なら、できないことなど、ないのではありませんか?」
由真から目をそらさずに、副知事はそんな言葉を向けてきた。
「僕には、こんなことはできません」
副知事の目線を正面から受け止めたまま、由真は、そう答える。
「そもそも、タミリ山地が浸食されたから、コーシア川はあの隘路を流れているのでしょう? そんなところに、魔法で何かをこしらえたところで、あの大河の流れが、止められる訳もないでしょう」
山地を貫く隘路を流れてくる大河。その流路が物語る形成の力学を、人が覆すことなどあり得ない。
「それに、僕がホノリアの将軍なら、コーシア川をあえてせき止めて、雪解け水であふれかえったところで魔法で決壊させて、世界最大都市のアトリアを大洪水で壊滅させる、と……むしろ、そう考えます」
古典的な水攻め。タミリ山地を刻むコーシア川とアトリア市の位置関係なら、それが簡単にできる。
「そんな策謀に加担することは……僕には、絶対にできません」
フォルド副知事の目を見据えて、由真はそう言い切った。
それを受けたフォルド副知事は、大きく息をつき、そして深々と頭を下げる。
「恐れ入りました。閣下を試すような言葉、申し訳次第もございません」
力強い声で、彼はそう口にした。
「先ほど、シヴィルノ基盤局長の話にも上りましたが、アトリア……いえ、アスマの治水は、長年にわたって、タツノ副長官の強い意志の下にありました。
先代としての陛下も、そして公爵殿下も、治水については副長官の判断を全面的に信頼されておられます」
土木工学の知識を持った召喚者が、長年にわたって治水に携わってきた以上、その知見を誰もが信頼するのは当然といえる。
「副長官は、117年に退任されていますが、今の州庁首脳は、副長官が人選しています。故に、その影響力……言い換えれば抑止力は、むしろ強く働いております。
ですが、副長官が完全に引退されると、やがて歯止めもきかなくなる恐れがございます。そして、そのときを待ち望んでいるかのように、この『新治水構想』を持ち出す向きが動いておる、という次第です。
先ほど、あのように申し上げましたが、実際に、魔法と祈祷に関しましては、条件はこの上なく整っている、と……そういう声も、なきにしもあらずです」
コスモの強力な地系統魔法、そしてユイナの最高度の祈祷能力。更には無系統魔法の使い手もいる。
確かに条件は整っている。
それでも、コーシア川に堰堤を作るという構想――いや、妄想は、実行に移してはならない。
「副知事は、本当は、どのようにお考えなのですか?」
改めて問いかけると、フォルド副知事は、ようやく頭を上げる。
「私自身は……そもそも、ナギナに生まれ育った身として、ベニリア川、コーシア川をせき止めるなど、無謀としか思っておりません。
治水も担う内務尚書の職をお預かりした12年間も、その職を退いてからの3年半も、その考えは、一度も変わっておりません」
フォルド副知事は、ナギナの出身だった。
そのナギナは、北シナニア県内ではベニリア川、コーシア県に入ってからはコーシア川とされる大河の川上に当たる。
この大河を直接せき止めるという考えは、出身者の感覚として危険に見えるということだろう。
「先ほど、あのような言葉を申し上げましたが、臣民院や市会の中で、あのような論理を口にして、タミリ山地堰堤建設を主張する声が、強まらないとも限りません。私はともかく、タツノ副長官が完全に引退されては、そのような声に、歯止めをかけることは……」
フォルド副知事は、そう言ってまなじりを険しくする。
その表情を見て、由真は初めて気づいた。
フォルド副知事が、普段「タツノさん」と呼んでいる人物を、「タツノ副長官」と呼んでいることに。
「少なくとも、僕は、この『構想』には、絶対に賛成できません」
まず、そのことを改めて断言する。
「それに、殿下は、タツノ副長官の補佐を受けてこられた方ですから、当然、その考えも、よく御理解いただけているものと思います。殿下も、この『構想』を御了承されることはない、と……僕は、そう思います」
そして、そう言葉を続ける。
エルヴィノ王子は、アスマで教育を受け、若くして名君の器を見せている。
その治世初期を尚書府副長官として支えたタツノ副知事の考えも、当然深く理解しているはずだ。
兄のアルヴィノ王子ならいざ知らず、エルヴィノ王子は、愚策を実行に移させることは絶対にない。
「確かに、閣下のおっしゃる通りですね。タツノさんの認めないような治水事業を、公爵殿下が、お認めになるはずはありませんね」
フォルド副知事は、そう言って表情を緩める。タツノ副知事のことを、普段通り「タツノさん」と呼んで。
「ええ、大丈夫です、間違いなく」
そんな相手に、由真もそう応えた。
水攻めしてくださいと言わんばかりの地理条件に、出所の定かではない無謀な計画。
フォルド副知事の不安感を、正面から受け止めました。