445. 旧サイティオ郡の治水に関する予習
この日の「御説明」の予定は終わりました。
ヴィルニオ副知事とカルミスト民政局長は、説明を終えて退室した。
クロド支部長とメリキナ女史も、いったん知事室を出て、隣接する秘書課に向かう。
程なく、2人とも知事室に戻ってきた。
「閣下、神祇官猊下から雷信が参りました」
そう言って、メリキナ女史は封筒の中の紙を差し出す。
初秋の月2日14:11受信
コーシア方伯ユマ閣下
お疲れ様です。
アトリア司教府に連絡したところ、明後日の視察先のベニリア魔法油トリミア製油所から安全祈祷の依頼があったと聞きました。
せっかくの機会なので、ハナイ管理官とオキタ技師に私も同行し、視察の際に祈祷を行おうと考えています。
製油所とゴムノ工場以外の訪問先にお二人が同行する必要がないのであれば、帰路お二人を知事公邸までお連れします。
大陸暦120年初秋の月2日
セレニア神祇官ユイナ
明後日は、製油所とゴムノ工場の視察は午前中で終わり、午後は市長からの説明の後、港と地下鉄の視察する予定だった。
生産者として同行する香織と沖田を、午後の予定にも付き合わせるのは、2人にとっては余計な気苦労をする上に時間の浪費にもなる。
先方が神殿に依頼している安全祈祷を行った上で、香織と沖田を知事公邸まで連れて行ってくれる。
ユイナのその厚意に甘えるのが、最適解と思われた。
「いかがなさいますか?」
「そうですね、お言葉に甘えますかね」
メリキナ女史に問われて、由真はそう答える。
「かしこまりました。北コーシニア支部に返答しておきます」
「それでは、神祇官猊下が来られる件は、フォルド副知事にもお伝えしておきます」
メリキナ女史の言葉に、クロド支部長もそう反応する。
高官との接触はクロド支部長、事務的な連絡はメリキナ女史という分担があるらしい。
「お願いします」
そう応えると、2人は再び秘書課に向かう。
その後ろ姿を見送り、由真は一息ついて席に着く――
「閣下、失礼いたします」
――そう言って、クロド支部長が戸口に姿を現した。
「フォルド副知事が、閣下にお話したい件がある、とのことです」
「そうしたら……」
「通信をお席につなぎ直しますので、そのままおかけになってお待ちください」
立ち上がりかけた由真に、クロド支部長はそう応える。
程なく、内線呼び出し音が鳴った。
「代わりました」
『お疲れ様でございます、閣下』
ヘッドホンからフォルド副知事の声が聞こえる。
『それで、明後日の御視察ですが、午前中神祇官猊下が同行されるとお聞きしたのですが、差し支えなければ、午後は私も同行させていただけませんでしょうか』
フォルド副知事はそう言葉を続ける。
「副知事が? あちらまで、ですか?」
『ヨトヴィラ市長とは、直接話す機会もなかなかございませんもので、実は、昨日お話をいただいた際には、せっかくなので呼び出せないかとも思った次第でして……
閣下お一人で身軽に出られる、という御趣旨であれば、私がついていくのもどうか、とも思ったのですが……』
これまで実務を取り仕切ってきたフォルド副知事としても、ヨトヴィラ市長と直接会って話したいということだろう。
「それは……先方が差し支えないなら、僕としても、初顔合わせの相手ですし、副知事がいていただけると、それは助かります」
由真はそう応える。実際、フォルド副知事に間に入ってもらえれば、気分的にもかなり楽になる。
『それでは、私も控えさせていただきます』
フォルド副知事のその言葉に、由真は「よろしくお願いします」と応えて通信を終えた。
見ると、クロド支部長とメリキナ女史が、机の傍らまで来ていた。
「明後日の、午後の市役所行きに、フォルド副知事が同行するそうです」
由真は、フォルド副知事から受けた話を2人に告げる。
「それでは、ヨトヴィラ市役所にはその旨お伝えしておきます」
「副知事の日程は、秘書課の方に調整をお願いします」
クロド支部長とメリキナ女史はそう応えた。
「この後は、特段予定は入っておりませんが、いかがなさいますか?」
クロド支部長が問いかけてきた。
「明日は、旧サイティオ郡の治水が午前中でしたよね」
昨日「まずもって」と言った「最重要課題」。明日はその説明が行われる。
「下調べをしたいんですけど、こことジーニア支部と、本はどっちが充実してるんでしょう」
「図書室に関しましては、ジーニア支部の方が圧倒的に多くあります。市庁は、関係資料は部署で保管しておりますし、ジーニア支部は、先代も、今のビリアさんも、非常に優秀な司書に来ていただいておりますので」
由真が問うと、クロド支部長はそう答える。
「それでは、支部長と一緒に、僕もジーニア支部に行きます」
「そうしましたら、ビリア司書に雷信しておきます。旧サイティオ郡の治水に関連する書物でよろしいでしょうか」
メリキナ女史がすかさず反応する。
確かに、ビリア司書に前もって一報しておけば、参考になりそうな本を効率よく見つけることができるだろう。
ビリア司書への雷信を秘書課に委ねて、由真はクロド支部長にメリキナ女史とともにジーニア支部に向かう。
今回は、一応公務ということで、市庁の小型バソに乗る。
ジーニア支部にたどり着き、図書室に入ると、ビリア司書が待っていた。
「お疲れ様です。あの、雷信をいただきましたけど……」
ビリア司書は、おずおずと言うと、4冊の本と厚紙で挟まれた綴りを1つ机に並べる。
「それで、あの、こちらは、毎年のものが、市庁にもあると思いますけど……」
そう言ってビリア司書が差し出した本には、『旧サイティオ郡3市河口堤防整備事業について 大陸暦111年度版』という題が記されていた。
旧サイティオ郡の沿岸に、南から順にテニディア市、ワラニア市、コムシア市と並ぶ3市。
その南北に、地系統魔法により堤防を構築して海岸までの土地利用を可能とする。
その事業の進捗に関する報告書だった。
この『111年度版』では、高さ5メートルの堤防が完成を見たとされている。
地図と照らし合わせると、ワラニア市の沿岸がアスマ軍の基地に当たっている。
「それと、こちらも、市庁にもあるはずですけど……」
ビリア司書が続けて差し出した本には、『サイティア川の治水及び利水の現状』という題が記されている。
こちらは、114年初夏の月に発刊されたもので、題名の通りの現状報告だった。
サイティア川はA級河川で、B級の支流に堰堤を整備して治山と治水を図り、本流には利水のための取水堰が多数設けられている。
コーシア川との合流部付近は、113年度にかけて堤防が強化されたという。
「それから、こちらは、治水というより、開発の関係で……」
次に差し出された本は、『クシピナ市の20年』という題だった。
南のコーシア川と北のサイティア川に挟まれて、その合流地点までを市域とするクシピナ市。
タミリナから延びる第2環状線が市域を南北に貫いている。
そのクシピナ市が117年に市制施行20年を迎えたのを機に、「市制施行以降のあゆみ」をまとめた本だった。
タツノ副知事が話した「地下30メートルの基礎」によって軟弱地盤の上に都市施設を整備した逸話などが記されている。
「このたぐいは、他にも、これなどが……」
4冊目の本は、『イルドナの昔と今』という題が付されている。
タミリア台地の北端に位置するイルドナという地区。
大陸暦90年代まではキャベツ畑の広がるのどかな村だったところに、大陸暦93年に、アトリア・メトロのイバリア線から枝分かれしてその村域を貫きクシピナに至るイルドナ線が開通した。
以後、住宅街として急速に都市化が進み、96年に村から直接市制施行、115年国勢調査では人口24万人にまで成長したという。
「それと、こちらは、旧サイティオ郡とは、直接は、関係していませんけど……」
そして、ビリア司書は厚紙で挟まれた綴りを差し出した。
表紙には、『新時代の治水に関する構想』とある。
本文は10ページほど。その内容は――
「S級河川に……堰堤?」
思わず声を上げてしまった。
ノーディア王国河川法では、S級河川に堰堤を建設することは禁止されている。
この禁制を廃止してS級河川にも堰堤を整備すれば、治水・利水に加えて下流の土地の有効利用を図ることができる。
この綴りには、そんなことが書かれている。
更に、堰堤を建設すべき具体的な場所として、ナミティア川に3カ所、コグニア川に1カ所例示し、そしてコーシア川についても、ユリヴィア回廊部とタミリ山地を例に挙げていた。
「こ……れは……」
少なくとも、コーシア川の2カ所は、大河川の流下能力が著しく低下する隘路であり、堰堤を建設できる場所ではない。
地質学がないこの世界では、そもそも地盤が大規模な構造物に耐えられる保証を得る手段すらない。
完成したものがいざ決壊してしまうと、コーシア県とアトリア市が激しい洪水に見舞われる。
そうなれば、数百万――いや、千万単位の人命が危険にさらされることになる。
「こんなものを、書いたのは……」
著者は「トリミオ・ヴァレディオ」とされている。その履歴は、本文中にはない。
「この、『トリミオ・ヴァレディオ』は、経済学関係の本を、何冊か出版しているんですけど、その、どうやら筆名らしく、何者なのかは、わかっていないそうです」
「経済学? 土木じゃなくて、ですか?」
「はい。あの、銀兌換制のことを書いた『新貨幣論』、鉄道事業のことを書いた『鉄道自由化論』、ダスティアの海運ギルドのことを書いた『海運自由化論』などの、著者なのですが……」
「一連の『自由化論』は、自由競争に委ねさえすれば万事最善の状態になる、という、純朴な論理を記しただけのものです」
ビリア司書の答えに、メリキナ女史が冷淡な言葉を口にする。
「あの、内容は、メリキナさんが、おっしゃったようなことで……」
そしてビリア司書も、メリキナ女史の見解を肯定した。
「それにしても、コーシア川に堰堤を作ろうなんて、これは、机上の空論にしてもひどすぎますね……」
由真は、そう言葉を漏らさずにいられない。
「タツノ長官も、まさにそのようにおっしゃったそうです。王国河川法を起草されたのも、タツノ長官ですから……」
クロド支部長が応える。
素人の由真でさえ思うようなことは、スペシャリストのタツノ副知事も当然思うはずだ。
まして、ここで取り上げられている「王国河川法」を立案した本人となればなおさらだろう。
「これは、市庁としては、どう考えているのでしょう」
由真はクロド支部長に問いかける。
「これそのものを実行に移す、という動きは、さすがにありません。コーシア県の同意も必要な話ですので」
そのコーシア県を預かっているのがタツノ副知事である以上、当然のことだった。
「ただ、市会の方は、これが出てから、開発事業に積極的な意見が出ております。こちらの『3市河口堤防整備事業』も、107年から111年までの4年間で、一気に完成に至りました」
堤防の整備にしては異様な速度だった。そこは、魔法の力によるものなのだろう。
「この、河口の堤防は、大地母神様にお伺いしたら、『慎重に進めるように』と、そういう、御神託があったそうです」
ビリア司書のその言葉で、この世界のもう一つの仕組み――「神格と直接対話ができる」ということを由真も思い出す。
大地母神の神託次第――となると、ユイナに負うことになる。
(ユイナさんを、政治に巻き込むのは……)
彼女には、あくまで神官の本務に専念してもらいたい。
政治的な事柄は、その前に自分が処理すべきだ。
「そこは、大地母神様を煩わせないように、万事慎重にやらないと、ということですよね」
内心の決意を込めて、由真はそう口にした。
この異世界は、魔法が使えて、神様から神託を仰ぐことができるため、体系的な地質学はありません。
そういう世界でも、治水と開発は進められてきました――というお話でした。