439. 初秋の月2日の朝
慌ただしい1日が終わり、翌日になります。
コーシア県庁と冒険者ギルドで必要な手続はタツノ副知事に委ねて、由真はメリキナ女史とともに午後6時半発の「白馬12号」に乗ってアトリアに戻った。
時刻は昨日乗った「ミノーディア11号」と全く同一ながら、昼行用のモディコ200系の二等車の旅は、夜行列車のそれとは全く赴きが異なった。
夕食は車内販売の肉入り焼きパンで済ませて、午後8時10分にアトリア西駅に到着する。
メリキナ女史は、知事公邸まで同行した。
翌朝、6時に起床して、身繕いを整えてから、庭先に出て太極拳と形意拳で軽く運動する。
朝食は、7時半に書斎に届けられた。
供されたのは、米飯に味噌汁、卵焼きにほうれん草のおひたしだった。
「コーシアの知事公邸と相談した際に、閣下は『ニホン』風のものを好まれる、とお聞きしまして、今日はこちらにいたしました。あちらと同様に、賄い料理と同じものですが……」
配膳の場に立ったネストロ用務主任が言う。
コーシア県の知事公邸で供されていた食事は、賄い料理と同じメニューだったらしい。
その食事は、「和食」――というより「日本の一般的な家庭料理」という趣のものが中心だった。
おそらくは、召喚者であるタツノ副知事の舌に合わせたものなのだろう。
「はい。ありがとうございます。皆さんの賄い料理と同じもので大丈夫ですし、『ニホン』風というのにもこだわりませんので」
由真はネストロ用務主任にそう応える。
その食事を終えて、食後の茶を飲んでいると、不意に扉がノックされた。「どうぞ」と応えると、姿を見せたのは愛香だった。
「愛香さん? こんな早くから、どうしたの?」
「今日の午後に出発して、北コーシニア支部に入るから、領主様に御挨拶まで、と思って」
由真の問いかけに、愛香はそんな答えを返す。
「って、北コーシニア支部に?」
「そう。コーシニアより北コーシニアの方が人口が多いから、店はそっちに多く開くつもり」
確かに、コーシニア市は人口50万人を割り込んだのに対して、北コーシニア市は240万人を超えている。
小売店開設の重点は、必然的に北コーシニア市に置かれることになるだろう。
「実は、C1班とC2班の14人が、一昨日から北コーシニア支部に入ってるんだ。早ければ今日にも技師に任官して、来週から研修に入るんだけどね」
そのことは、愛香には明示的に伝えていなかった。
「……技師?」
「昨日、ユイナさんがステータス再判定をしたら、全員、技術系のクラスが出てきて、それで、『技師』にクラスを変更したんだ」
更に問われて、由真はそのことも答える。
「つまり、由真ちゃん待望のエンジニア大量ゲット?」
「……まあ、そうなるね」
14人のうち希望者をアスマに亡命させるという考えを愛香たちに告げたとき、「工学系のエンジニアなら大勢ほしい」とは明言していた。
とはいえ、14人全員がアスマに移り、全員が「技監」と「技師」になる、という結果は全く想定していなかったが。
「研修、って、ベルシア神殿みたいな感じ?」
そう問いかける愛香の表情がかすかに曇る。ベルシア神殿の初期教育のことは、未だにトラウマなのだろう。
「いや、機械とか電気とか魔法装置とか、そういう分野別に分かれるみたい。それに、工場に直接実習に行く人も何人かいるから、結構ばらけると思う」
昨日決めたそのことを答える。
「開店準備の方は、どんな感じになりそう?」
今度は由真の方から問いかける。
「昨日も話したけど、お店の当てはついてて、修繕は始めてる。『駅前市』で使ったやつも使って陳列棚を据え付けて、物流の方も詰める」
愛香は、常の表情に戻ってそう答える。
「仕入れの方は、大丈夫?」
卸先がロンディア一強支配となっている状況では、毎日商品が確保できるかが最大の課題になる。
「ロンディアが、例のアレで総スカン状態だから、今は話が通ってる。それもあるから、今月中に開店まで持って行く」
ロンディアがレゴラ方伯の指示で行った「宣伝工作」は、愛香自身の手腕によって完全に逆効果になった。
コーシニアの一般消費者だけでなく、商品供給者たちも、ロンディアに反感を抱いているのなら。
その機運が冷めないうちに常設店舗の開設を急ぐべきだろう。
「それと、恵ちゃんと明美ちゃんは、明日、ファニア高原の牧場に入る」
愛香はそう言葉を続ける。
「明日?」
「ジーニア支部の図書館に頼んだ本が今日納品だから、それをもらって明日出るとか」
どうやら、恵と明美は、図書室で事前調査をして、「参考文献」も持って行くつもりらしい。
「愛香さんは、そういうのは……」
「コーシニアのことなら、あっちの支部の方がいろいろあると思う」
確かに、本のない牧場に行く2人とは違い、県都の支部に入って地元の店舗の準備にかかる愛香としては、必要な情報は現地で集める方が合理的だろう。
「昨日も話したけど、タツノ副知事とは、先月のうちから相談もしてあるから、あっちで話は進めておく」
「わかった。よろしく頼むね」
愛香が続けた言葉に、由真はそう応えた。
書斎を出て、渡り廊下を進み、知事室に入ったのは8時25分だった。
改めて見渡すと、机の上に、小さな箱状の筐体とマイクが載せられていて、ヘッドホンもかけられていた。
この部屋にも、専用の通信装置が用意されるらしい。
程なく扉がノックされて、フォルド副知事にクロド支部長、メリキナ女史が姿を現した。
「本日は、10時より、鉄道総監府と鉄道3社より鉄道関係の御説明で、市庁からもハフリオ交通局長が同席いたします。午後は13時半からヴィルニオ副知事とカルミスト民政局長がアトリア冒険者ギルドについて御説明となります。いずれも、私とメリキナさんも同席いたします」
クロド支部長が蕩々と言う。
「え? あの、クロド支部長も、同席されるんですか?」
由真は思わずそう問いかける。
「それは、秘書官ですので、一応」
特に表情も変えずにクロド支部長は頷く。
「あの、支部の方は……」
「午後の御説明が終わりましたら、私は支部に戻ります」
裏を返すと、それまでの時間はジーニア支部は支部長が不在になってしまう。
クロド支部長が秘書官を兼ねていると、この先もジーニア支部の業務に影響が及ぶことになる。
「それと、昨日御指示のありました関係ですが、旧サイティオ郡の治水につきましては、明日の午前にヴィルニオ副知事とシヴィルノ基盤局長より御説明いたします。こちらは、私も同席いたします」
今度はフォルド副知事が言う。
昨日の説明で、「まずもって」と言って最優先課題に挙げた件は、明日には早速説明が入ることになった。
「ヨトヴィラ市の方ですが、明後日の午前に工場2カ所御視察、午後1時半から市長以下による概要御説明、その後、ヨトヴィラ港とヨトヴィラ・メトロの御視察、という方向で日程が確保できますが、いかがでしょうか」
「え? そんなに早く、ですか?」
思わずそう問い返してしまう。
魔法油精製工場にゴムノ工場の視察、市長からの説明に港と地下鉄の視察。
それだけの予定が、2日後に組まれる。
「今少し、時間をおいた方がよろしかったでしょうか?」
フォルド副知事は、そんな言葉を返してきた。
「え、いえ、それは……先方の準備が整うということなら、その日程で、お願いします」
既にアポイントメントも取り付けてあるのだろう――と思うと、ここで断ることもできない。
「えっと、そうしたら……」
「ハナイ管理官には、知事公邸を通じてお知らせします。オキタ技師にも、北コーシニア支部に雷信いたします」
由真が目を向けると、メリキナ女史がすかさず応えた。
「生産者の方ですか」
フォルド副知事が言う。
「ええ。ハナイ管理官は、ジーニア支部で、衛生関係に取り組んでいます。オキタ技師は、一昨日こちらに来た、例の14人の1人です。魔法油とゴムノの関係を、一緒に見てもらおうと思ってます」
「それでは、明後日の御視察のうち、午前の2カ所は、ハナイ管理官とオキタ技師も同行する、ということで、調整いたします」
クロド支部長がそう応える。
ちょうどそこで、コーシア県庁と同じ内線呼び出しの音が鳴った。
メリキナ女史が机に手を伸ばし、箱形の装置のボタンを押して、ヘッドホンを装着しマイクに向かう。
「アトリア市知事室でございます。……はい。お待ちください」
そう言うと、メリキナ女史はヘッドホンを外す。
「閣下、ファスコ官房長からです」
そう言われて、由真はメリキナ女史からヘッドホンとマイクを受け取る。
「代わりました」
『閣下、お疲れ様でございます。元『勇者の団』の14人の任官の件ですが、先ほど殿下の御了解を賜りました』
昨日の夕方から手続を始めたその件は、早くもエルヴィノ王子の了解を得るに至った。
「それは……ありがとうございます」
『いえ。それで、その際に、殿下から仰せを賜ったのですが……』
そう言われて、由真の心身に緊張が走る。
『今回の件は、閣下が稟請されたものですので、閣下の御決裁は省略させていただくこととしまして、殿下もそれは御了承されております。
ただ、今後、閣下がアトリアにおられる際に、殿下への上申について閣下にどのように関わっていただくべきか、しかと決めておいた方がよい、と、殿下はそのように仰せでした』
それは、「尚書府副長官」としては、避けて通ることのできない話だった。
『殿下は、先だってのお話のときと同じく、『すべからく内覧を得べし』とはお考えではない御様子でした』
ファスコ官房長は、例の「8号詔書」の文言をひもといて言う。
『むしろ、私の代理として、州内各地に赴いて諸課題の解決に当たっていただくこと、また、以前もお話ししたとおり、私の代わりにセントラに入り、王国議会に出席していただくこと、そういったことに重きを置いていただきたい、と考えています』
北シナニア対魔大戦が終了した直後、ファスコ官房長、タツノ副知事にユイナも同席しての意見交換の際には、エルヴィノ王子は由真にそう語っていた。
その方針は、今も変わっていないということだろう。
『定型的な手続のたぐいはともかく、閣下に関わっていただくべき重要事項については、事前に閣下にも御相談する、ということかとは考えておりますが、閣下が落ち着かれましたら、改めて御相談させていただければ幸いです』
ファスコ官房長は、そう言葉を続ける。
「わかりました。その、必要なら、殿下にも御相談に伺います」
由真はそう応える。
ファスコ官房長は「よろしくお願いいたします」と言葉を返して、それで通信は終わった。
(尚書府副長官も、あるんだよな……)
尚書府副長官として、アトリア市知事として、それにコーシア県と北シナニア県の領主として。
やらなければならないことは多い。
(とにかく、頑張るしかないな)
由真は、そう自らに言い聞かせた。
兼任が多いと、課題も余計山積みになります。
一つ一つ片付けていくしかありません。