269. ナギナにて (2) 支部長とラルドの昼食
パワハラ上司から解放されて、お昼どきになります。
北シナニア県民政部長のエンドロ男爵バラストから呼び出されて、その「ご指示」を受けて、クシルノ支部長とラルドは北シナニア県庁を後にした。
5分ほど歩いた先、ナギナ南駅の目の前に、北シナニア冒険者ギルドのナギナ支部がある。
「もう昼ですね。ラルドさん、食事はどうします?」
南駅の前にさしかかったところで、クシルノ支部長が問いかけてきた。
「それは、食堂ででも……」
「ああ、そうですね。南駅は、もう食堂もやってないですしね」
ラルドの答えに、クシルノ支部長は苦笑を返す。
ナギナ南駅で営業していた食堂などの店舗は、3年前までにほとんどが閉業した。残っているのは、雑貨と焼きパンなどを扱っている売店1店のみだった。
2人は、支部の建物に戻り、食堂区画の中にある蕎麦とうどんを扱っている店に入った。
支部長とA級冒険者がそろって入店したため、店側は奥まった個室に2人を案内した。
「この季節は、やはりアスニア蕎麦に限りますね」
そう言いつつ、クシルノ支部長は品書きを開く。ラルドもやはり品書きを見て――
「……冷やし蕎麦1皿8デニ?」
思わず声を上げてしまった。
夏場の定番「冷やし蕎麦」――この地の特産品「アスニア蕎麦」を茹でた上で冷やして盛り付けて、その上に乾燥させた「ノリミの葉」を載せて、冷たいつゆに漬けて食べるシンプルなもの。先週までは1皿4デニだったものが、倍にまで値上がりしていた。
「支部長、ラルドさん、いらっしゃい」
そこへ声をかけてきたのは、この食堂の店長だった。
「ああ、今日もお疲れ様です。……ところで、この冷やし蕎麦は……」
「それですか? アスニア蕎麦が、ますます品薄になってましてね」
支部長に問われて、店長は苦笑とともに応える。
「河竜が追い詰められた、っていうんで、片付いたら相場が戻る、って踏んでたんですけどね。それが……例の『赤色虎型魔物』って、あれ……紅虎様の何かなんでしょう?」
不意に言われて、ラルドは思わずクシルノ支部長に目を向けてしまう。
「ギルドに、そんな噂が立ってるんですか」
支部長は、表情を変えずに問いかける。
「市場ですよ。ロンディアの兄ちゃんなんて、蕎麦をひどい勢いで買い占めてましたしね」
店長は、そう言って苦笑する。
「……ロンディアが?」
「ロンディアの兄ちゃんは、噂を聞いて慌てて、って感じでしたけどね」
今や最大手となった小売店が独自で情報を手に入れたという訳ではないらしい。
「それは、しかしなんでまた市場で……」
「そりゃ支部長、赤い虎で、ユマ様が倒すのにかなり本気出した、って言われたら、誰だって紅虎様がらみだって思いますよ」
昨日民政省が発表した速報は、本部が休日で稼働していなかったため、差し止めされずに各支部以下にまで流れて、そのまま公表されていた。
その「赤色虎型魔物襲撃」という情報は、少なくとも卸売市場の関係者からは「紅虎様がらみ」と受け止められて、それが翌日の蕎麦の相場に反映されたらしい。
「まあ、さすがにロンディアはやり過ぎ、ってことで、小麦の方は、市場長が融通を利かしてくれましてね、こっち、冷やしうどんはビールをつけて1皿4デニですよ」
店長は、品書きを指さして言う。
確かに、「冷やしうどん」――同じく特産品の「シナニアうどん」を冷やして盛り付けてつゆに漬けて食べるものは、1皿3デニでビールをつけても4デニとされている。
「そう言われると……午後も仕事がありますから、ビールは遠慮して、うどんだけもらえますかね」
支部長は、そう言ってラルドに目を向ける。
それで改めて品書きを見ると、冷やしうどんは普段なら1皿4デニに大盛りは追加2デニのところが、今日は1皿3デニに追加1デノで大盛りにできるとされている。
「それじゃ、冷やしうどん大盛りで」
「承りました。冷やしうどん、並1に大盛り1!」
店長は、高い声で厨房の方に言うと、そのまま退出した。
「すでに、影響は予想以上に深刻ですね」
2人きりになって、支部長はそう言って大麦茶を口に含む。
「『赤色虎型魔物』……それだけで、蕎麦とうどんの相場が動くとなると、このまま続けば、ナギナもいろいろ品薄になりますね」
それは、生産者の関係も担当する支部長としては当然の不安なのだろう――とラルドは思う。
「まして、紅虎様が直接攻めてきたら、軍が入って応戦したところで、何の役にも立たないでしょうから」
県庁ではおくびにも出さなかった毒を支部長は淡々と口にする。
「まあ、そちらに関しては、ラルドさんたちにお願いするしかありません。私は、支部長を仰せつかるために任命された、形だけの『冒険者』ですから」
支部長は、本部や県内の支部で勤めていた「事務員」上がりの書記官だった。
「自分は……来るものは、全力で防ぐ、としか……」
ラルドは、そう口にするのがやっとだった。
「まあ、百の巨人族、千の大鬼、万の小鬼……というものが、150万都市の目と鼻の先にいる、というだけでもぞっとするところに、紅虎様が、人に牙をむいてくる、となると……私などは、逃げ出せるものなら逃げ出したいところです」
そう言いつつも、支部長は淡々と大麦茶を口に含む。
ちょうどそこへ、「冷やしうどん」が届けられた。
2人は早速食べ始める。蕎麦とは異なるあっさりとした味わいが、今日は心地よく感じられる。
「支部長……あちらの言うような指示を、出すつもりですか」
ラルドは、そう問いかけてみる。
「まあ、通知は、今まで通り出します。冒険者の皆さんにも、締め付けはするところでしょうね」
うどんをすすりつつ、支部長はやはり淡々と答える。
「やはり、そうなりますか」
ラルドも、できるだけ淡々と言葉を返す。
県庁の冒険者部に長く勤めていたクシルノ支部長は、「本部」の指示を受けて冒険者たちを監督するのが主任務になる。
昨春退任したロキモルト民政部長の下では、よく連絡を保っていた。
現任の民政部長であるエンドロ男爵が着任してからは、その意向をそのまま「上意下達」する状態になっている。
それは、今後も――
「ただ、ほんの1週間で、状況はすっかり変わりましたから……もはや最低限の取り繕いもいらないでしょう。むしろ、これ以上ナギナ支部を不利にしないための身の振り方を……考えないといけないところだと、そう思っています」
思わぬ言葉だった。
ラルドは顔を上げて支部長を見つめてしまう。
「今回の騒動……こちらは、ろくな上申もせずに『非常事態宣言』、そこからアスマ軍の戒厳令騒ぎに乗ってばかり。いわば、公爵殿下に反旗を翻したも同然です。
それでいて、コモディアの襲撃を追い払ったのも、ガルディアで紅虎様の神使と河竜を討伐したのも、ユマ様とユイナ様、それにアイザワ子爵がたです。アスマ軍は、しきりに軍用列車を出して、ユマ様の足を引っ張っているだけで、戦果は一切上げていません。
そもそも、陛下のあの勅語が、エストロ知事を一切無視してユマ様に宛てられていて、ユマ様はここまでそのご期待に応えている……すでに、エストロ知事は全く立場がなくなっています」
支部長は、この一週間の動向を冷静に観察していた。それは、ラルドにもよくわかる。
「エストロ知事、ストロコ副知事兼内政部長、エンドロ民政部長……彼らの『失脚』は、ほぼ確定でしょう。そうなると、勅語を受けた『抜本対策』に協力しなかった『共犯』の範囲がどこまでになるか、それが問題です」
「私は、支部長という立場ですし、エンドロ男爵の手下ですから、道連れは不可避でしょう。なんとか、累がそれ以外には及ばないようにする。あとはそれだけです」
そう言うと、支部長は淡々とうどんをすすり、そしてラルドに目を向ける。
「ラルドさんは、どうするおつもりですか?」
「それは……」
正面から問われたラルドは、一瞬言葉を失ってしまう。
先週、前冒険者局長官のタツノ副知事から通信があったときは、「コモディアの河竜は任せる。イドニの砦の攻略には協力できない」と回答した。
それは、北シナニアギルドに残ったA級冒険者5人の戦力では、ナギナを死守するのが精一杯で、他所への対応やイドニの砦への反転攻勢などはできない、という状況判断からのものだった。
しかし今、河竜はすでに討伐されている。他方で、イドニの砦には、「荒ぶ時」に入った西方守護神・紅虎がいて、ナギナをまさに虎視眈々と狙っている。
さらに言えば、河竜を撃退したのはアイザワ子爵、そして紅虎の神使を討伐したのはユマ本人。彼女たちは、それだけの「戦力」だった。
「それは……自分だけでは、なんとも……他の4人の考えは、本人たちに聞かなければわかりませんので」
先週タツノ副知事に返したのと同じ言葉を使ってしまった。
「そうですね。ただ、早めに考えは固めた方がよいでしょう。ユマ様は、ことのほか動きが速いですから」
それは確かだった。
コモディアの現場が襲撃されたその日のうちに現地で河竜を追い払い、先週のうちに河竜を追い詰め、さらにはガルディア堰堤にも自ら足を運んで、エンカウントした紅虎の神使を返り討ちにした。
ユマたちのパーティーは、準備が整ったらすぐにでもナギナに乗り込んでくるだろう。
「私は、部長の指示をそのまま伝える通知を出します。ラルドさんは、他の皆さんと早めに相談してください」
支部長のその言葉に、ラルドは、はい、とだけ答えた。
県庁首脳陣に追随するとどうなるか。
支部長は、状況を冷静に観察して、そして面従腹背に舵を切ろうとしています。
なお、「アスニア蕎麦」と「シナニアうどん」の相場の傾向は、前のお話でも触れたとおりです。




