192. コモディア神殿の祈り
街全体を守護するための祈祷もしていきます。
ユイナの祈祷を妨げようとした河竜と魔物は討伐し、その祈祷も無事に終わった。
帰路につこうとしたら、衛が落下したコンクリートを見つめていた。
「どうしたの衛くん? それ、気になる?」
由真が問いかけると、衛は一瞬首をかしげてから溜息をつく。
「いや、これ、打った直後にしては色が黒いと思ってな」
言われてみると、確かにその色は黒ずんでいる。
「支部長、現場検証をするなら、これは精査した方がいいと思います。おそらく、魔法か毒のたぐいで変質しています」
衛は、リソルト支部長に言う。相手は、緊張した面持ちで、わかりました、と答えた。
神殿に寄るためにバソに向かうと、現場の作業員の1人が近づいてきた。
「コモディア東工区第一出張所のヴァスコです。所長と技術主任を勤めてます」
相手はそう名乗った。
「ご祈祷ということなら、ご一緒させてください」
現場の責任者が祈祷に参加するというなら、断る道理もなかった。
「こっちだと、技術屋さんでも神頼みするんだね」
「それは、日本だってそうだ。どうこう言ったところで、たいがいの場合地鎮祭はする」
由真のつぶやきに、衛はそう応える。「技術屋は神頼みをしない」というのは偏見ということだろう。
ヴァスコ所長も乗せたバソは、往路と同じ道で市街地へと向かう。
「あの橋桁は、先週型枠ができあがって鉄筋も組んで、第5日に被凝固石材を打ち込んだばかりでして、あれが、あんな色になってるなんて、我々も全く想像してなかったんです」
神殿に向かう車中で、ヴァスコ所長は、衛にそんなことを言う。
(『被凝固石材』?)
妙な言葉が聞こえてきた。おそらくはコンクリートのことなのだろうが、翻訳スキルは複雑な言葉で通したらしい。
「橋脚の最上部も、あんな感じになってました。打ち直ししかないですが、削っても4メートルくらいなので、なんとかなります。橋桁も第1区画だけでしたから。これが、桁を渡した後だったら、もう目も当てられませんでしたよ」
確かに、完成した橋桁があの攻撃で破壊されては、再建の見通しも難しくなると思われる。
「橋脚が無事だったのは、何よりでした」
衛がそう応える。
「そちらは、私らもぬかりないようにやったつもりです。川縁の2つは底部加圧式箱枠埋込工法で40メートル下の岩盤に基礎を打ち込みました。橋脚の躯体は、地上部分は鉄筋強化を引締打設で補強してます。
支点間は70メートルになりますので、橋桁は箱桁で、事後締付の引締打設被凝固石材を区画順張り出しで組む予定です」
相手は――衛のことを「同業者」と思っているのか――専門用語で話す。
「張り出しということは、地上からの支保工は組まないんですね」
「はい。ベニリア川は、夏場でも流れが急ですし、冬は川面がひどく冷えますから、来年の雪解け前には上部を仕上げる予定です」
そのやりとりは、由真にも理解できた。
標高1000メートルを超えるこの場所を流れる川。その流水の中で真冬に作業をするなど、もはや拷問と言うべきだろう。
一行は、市街地に戻って神殿に入る。
そこは、ベルシア神殿の聖堂よりはさすがに小さいものの、相応の威容を保っていた。
堂内には、西洋の教会のような簡易な椅子が設けられている。
床は板張りで、日本の神社仏閣のように正座となると厳しい。
由真たち参列者は女神像に向かう席に、神官たちが内陣の左右にある席に着いたところで、神官長に案内されたユイナが前に進み、内陣に相対する席に座る。
「神前に、コモディア教区神官長、コルソ・ズムリオが謹んで申し上げます。これより、セレニア神祇官猊下をお招きして祈祷の式を執り行います」
ズムリオ神官長の言葉を受け、ユイナは、すっと優雅に立ち上がる。
「我、ユイナ・アギナ・フィン・セレニア、このコモディア神殿において、これより祈祷の式を行う。周囲八方、聖柱設定、結界展開、領域浄化」
昨日のアクティア湖、今日のベニリア河畔とは異なり、前後左右に加えて斜め方向にも「聖柱」が構築されて、場の「ラ」も一段と強められた。
「日頃よりこの地を衛り大いなる恵みを給う神々に、御教えのくだりを読みてその声と心をここに奉る」
そう唱えると、ユイナは鐘を2回つく。
「『大地母神聖典・人代編』より『神勅の段』、奉読」
神官長が宣言し、聖典の一節の朗読が始まった。
その聖典は――翻訳スキルを通じて――日本語の七五調で聞こえてくる。といっても、一度通読しただけの由真は、内容など当然覚えていなかった。
ただ、ユイナの声は、並み居る神官たちの中でもひときわ目立って聞こえた。
一切よどむところがなく、朗々と響く清らかな声が流れる。
しかも、その途中で、鐘をつき、鈴を鳴らし、錫杖を振り、供物を捧げるといった所作も優雅にこなす。
(ユイナさんって、やっぱり最強の神官だな)
そう思わずにはいられない。
日本では、僧侶が読経などをすると、その巧拙を話の種にする口さがない檀家もいる。
他ならぬ渡良瀬家がその部類で、「あの坊主はへたくそだ」などと――自分が読める訳でもない経典なのに――容赦のない陰口をたたいていた。
由真を容赦なく鍛えたあの「先輩」も、僧侶や神職の「力量」には厳しく、祈祷や法事が終わると、「あれは朗読の悪い見本だぞ」などと酷評を下していた。
しかし、ユイナのこの読経(に相当するこの世界の聖典朗読)は、渡良瀬家全員と「先輩」が「召喚」されたとしても、誰一人文句は言わないだろう。
やがて、神官長が鐘を1回ついて、それで「読経」は終わった。
「灯火と水土種に人々の預けし物をお供えし、『大地母神聖典・人代編』より『神勅の段』を読み奉る」
そう告げたのは、神官長だった。
「日頃よりこの地を衛り大いなる恵みを給う神々を仰ぎて伏して庶幾う、この街に害なさんとする『ダ』の者ら、その息吹とて届かせず、歩みを全て退かせ、この地に住まう人々の暮らしの障りなからしめ、小揺るぎもなき安らぎを今日よりのちも賜り給え」
ユイナの祈りの言葉は、やはりよどみなく通った。
「天と地と万のものの大いなる母なる我らが女神様、願わくは、我がこの願い聞こし召し、尊き功徳を天と地の万のものに齎して、衆生と我らを見守り給え」
その言葉を終え、鐘を3回鳴らしてから、ユイナは深々と頭を下げた。
(これは、普回向みたいなものか)
これまで2回と同じ文言と所作。その位置づけは、日本の仏教宗派で唱えられる「普回向」と同様のものだろう。
(女神様……どうか、見守ってください)
ユイナに従い頭を下げつつ、由真はそう祈った。
神殿で行う祈祷なので、これまでより若干形式が込み入っているという設定になります。
「普回向」というのは、『妙法蓮華経』「化城喩品」に出てくる「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」(願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを)という文言で、禅宗などでよく唱えられている汎用的なお祈りの言葉です。
ここのお祈りは、(形式がネットに詳しく紹介されている)禅宗のものを参考にしています。