174. 神祇官猊下の祈祷
邪魔(?)が入ってしまいましたが、気を取り直して祈祷です。
人気のない森の中にたたずんでいた男女2人は、近づく人の声に気づいて立ち去った。
「今のうちに行っちゃいましょう」
「そうですね。次は野次馬が来そうですし」
今度は後ろから物見遊山の若者たちが来る。その前に用事を済ませた方がいい。
ユイナと由真は、すぐに歩き出す。
件の男女がいた切り株の傍らに小屋があり――
「これ……ひどいな……」
由真は、思わずそう漏らしてしまう。
その小屋は、扉を含む壁が破られていた。奥に据えられた女神像は、足下にこけが生え始めている。
「これ、先週はなんともなかったのに、なんでこんなことに……」
ガストロが漏らした声に、由真は振り向く。
「先週?」
「ああ、毎週第1日の朝に、ここも見に来てるんだ」
ユイナの問いにガストロが答える。
「となると……【術式解析】」
ユイナは、錫杖を女神像に向けてかざす。
「やっぱり、ここから複合型水系領域保護結界を展開してますね。それで、ここが壊されて、全体が弱まった、と」
――翻訳スキルを通して、なにやら複雑な言葉が聞こえてきた。
「複合型水系領域保護結界?」
「水系領域保護結界は、1本の川に集まる水流の領域をまとめて保護する結界です。本来は川下から展開するんですけど、それは展開も維持も相当の力が必要になるので、次善の策として、川上に複数の祠を建てて結界を張って、『ラ』を川下の1箇所に集める、という術式が使われます。
ここのこれは、祠はこの1箇所だけで、後は他に3箇所の石塔を祠の代わりにして、合計4箇所からの術を複合させる、というやり方です。この場合、展開するのは楽ですけど、その分、拠点になるこの祠は常に『ラ』を強めておかないといけないんです」
由真の問いに、ユイナはそんな解説を返す。
「きちんとやるなら、川下から保護結界を張るのが本筋ですけど、そうなると祠からきちんと建てるべきですし……とはいえ、この術式は、ここを放置している現状だと……」
ユイナは、眉根を寄せてそう言うと、大きく息をついた。
「とりあえず、今日のところは、このままここの補強だけしておきましょう。1ヶ月程度は、それで大丈夫です」
応急措置をする。現時点では、それが妥当だろう。
ユイナを先頭に。全員が壊れかけた建屋――祠に入る。
ユイナは、女神像の前にろうそくを2本立てて火をともし、小川から汲み取った水をその間に据える。
さらに、小箱から小麦の種とおぼしきものと砂を取り出して、女神像の足下に皿を置いて上に小さく盛り上げた。
その上で、脚のついた鐘と柄のついた鐘を左手に置き、深く一礼すると、右手で錫杖を構え、左手で脚のついた方の鐘を1回鳴らした。
「我、ユイナ・アギナ・フィン・セレニア、ここにてこれより祈祷の式を行う。前後左右、聖柱設定、結界展開、領域浄化」
その言葉とともに、周囲の「ラ」がにわかに力を増したのが、由真にもわかった。
「これなる祠に宿るもの、石塔とともに『ラ』を下し、これを集わせこの地にて川とほとりを衛る術、我らの前に形なせ」
今度は左手で絵の着いた鐘を振る。そこから、鈴の鳴る音が聞こえた。
「灯火と水土種を奉り天地の神に伏して祈らん。この術に我が『マ』を授け『ラ』を強めん」
そう唱えると、ユイナは鈴を鳴らした。
「この術に我が『マ』を授け『ラ』を強めん」
その文言をもう2回繰り返しつつ、そのたびに鈴を鳴らす。
「川のアヴァレよ、森のアヴァリよ、我が祈りを聞きたまえ」
川と森の精霊たちへの呼びかけ。その言葉とともに、ユイナは鐘を1度鳴らす。
「その住まう川と森とを衛る術に、その清き『ラ』を分かちたまえ」
そう唱えつつ、ユイナは鈴を振り続ける。
そして、鈴を前に置き、いったん深く礼をする。
「天と地と万のものの大いなる母なる我らが女神様、願わくは、我がこの願い聞こし召し、尊き功徳を天と地の万のものに齎して、衆生と我らを見守り給え」
その言葉を終えて、鐘を3回鳴らす。
その余韻の中で、ユイナは深々と頭を下げた。
「これで、1ヶ月は大丈夫です。その間で、きちんとした対策を考えましょう。領主様のご意見もお伺いして」
そう言って振り向いたユイナは、由真に微笑を向ける。
「領主様」――由真の意向に沿って、この地の結界を再構築するということだろう。
「……それは、神祇官猊下のご意見を尊重します」
由真は、ユイナにそう言葉を返した。
結界を補強する祈祷を終えて、後ろにいた衛、和葉、ウィンタが外に出る。
「あ、お参りですか?」
外から聞こえる男性の声。
「ここ、大丈夫なんですか? 壊れちゃってますけど……」
女性の声も聞こえる。先ほど近づいてきた男女の集団が、ここまでたどり着いたようだった。
「これは、壁が破れただけで、柱は無事なので、大丈夫です」
衛が律儀に答えた。
まだ屋内にいた由真は、周りを見回して、衛の言ったとおり柱は損傷していないことを確認する。
「えっと、あっちの宿のお客さんですか? この辺は危ないんで、あまり踏み込まないでくださいね」
「あ、はい。お参りしたら、すぐ戻りますんで」
ティファナの言葉に男性が応える。
そして、祈祷道具を片付けたユイナが、台車を押して建物から出る。
「あ、神官様? あれ? 服、赤いよ? もしかして、すごく偉い人?」
「赤いのって、確か、神祇官とかそういうのだろ?」
「普通の神祇官は緋色で、あのえんじ色は、カンシアの方にしかいない神祇理事……ってことは……」
そんな言葉が往復し、一瞬沈黙が走って――
「「「ユイナ様?!」」」
――「若い女性の神祇理事」が他にいるはずもなく、彼女が何者かはすぐにわかったらしい。
「なんか近づけないって思ったら……」
「あのユイナ様が、こんなとこで祈祷なんて……」
「ああ、お姿だけでもありがたい……」
彼らは、そう言ってユイナに向かって手を合わせている。
「あの……あまり長居はなさらないでくださいね」
ユイナは、そんな言葉を返しつつ、会釈して先に進む。
それを確認しつつ、最後に残っていた由真も建物から出た。
「びっくりした。本物のユイナ様を見るなんて、一生ものだよ」
「ほんとにな」
「ユイナ様をここまで連れてくるなんて、この人ら、ただの学生じゃないな。どこかの貴族……」
などと話す彼らは建物――祠に目線を戻して、由真と目が合ってしまう。
「……?」
彼らが一瞬固まっている間で、由真は指をスナップさせて「術」を発動した。
それから、軽く会釈して、ユイナの後ろに続いて歩いて行く。
「な、なあ、あれ、もしかして……」
「いや、それは、さすがに……」
「けど、ユイナ様が来てたんだから……」
「そうだよ。それに、ここの領主様でしょ?」
とっさに使った「術」――ユイナが以前使った「注意をそらす術」をまねたそれの効果は、長くはもたないだろう。
自らの名が口に出ては、いよいよ大騒ぎになってしまう。
由真は、他のメンバーを追い抜く勢いで、足早にその場を去った。
――祈祷の文言を組み立てるのは、ものすごく難しいです。
「黄昏よりも昏きもの」のような言語センスが欲しいところですね。
なお、日本でも「色つきの衣をつけたお坊さんは偉い」というのがある程度知られていますが、ここでもその程度には「色つき神官服を着た神官さんは偉い」ということが知れ渡っています。