161. 試食会を終えて
おやつの時間が終わって、夕方まで少し時間があります。
試食に供された小麦せんべいは、1枚も残らず平らげられた。
「これ、ぱりっとして割りやすいけど、ぱりっと割れやすい」
最後の1枚を手にした愛香が、そう言ってせんべいを2つに割る。
「輸送途中で割れると、店頭に並べるのは難しそう」
続く言葉で、由真もその意図がわかった。
この小麦せんべいを「スーパー」や「コンビニ」の店頭に置く商品として展開するには、その「割れやすさ」がネックになる。さすがに「割れた状態」で陳列されているものを買う人は少ないだろう。
「ほんとはね、バターも使ってクッキーにしたかったんだけど、バターって高くて品薄だったんだ」
明美が苦笑交じりで答える。「クッキー」から方針転換されたのが、この「せんべい」だったのだろう。
「バターは、チーズと違って、日持ちしないから……こっちだと、冷やして輸送されて来るみたいだけど、すぐダメになるから、このくらいで売ってるみたい」
恵は、「このくらい」といって長辺5センチほどの長方形を描く。
ホテルやレストランで1食用に用意されるバターのサイズだろう。
「そのサイズの売り物……それはつまり、バターはここでは贅沢品?」
「贅沢、というよりは、あまり需要がないですね。ミノーディアは、冬は寒いので、秋の終わりにバターを仕込んで脂分を確保しますけど、アスマだと、焼き物に脂分をのせるために時々使うくらいですね」
愛香の問いにユイナが答える。
「パンに塗ったりとかは、しないんですか?」
「こちらだと、焼きパンにするかパクマトにするかで、どちらも食材を直接包みますから、パンだけの状態で、バターを塗るという食べ方は、あまりしませんね。カンシアは、パンの状態で出しますけど、塗るのは、たいていジャムです」
――そもそも、そのような「スプレッド」を塗るという「贅沢品」を口にした記憶が、由真にはない。
「そうなると、バターで作る菓子類の製造は、酪農とセットで考えた方が良さそう」
愛香は「菓子類」の商品化をどうしても実現したいらしい。
「けど、牛乳は使わない、バターも使わない、アウナラとかも限られてる、ってなると、そもそも酪農ってどうなんだろうね」
由真はなんとなく問いかける。
そもそも需要がなければ、供給側も相応の程度にとどまるだろう。
「ユマさん、ファニア高原は、その酪農の拠点ですよ?」
ユイナが指摘してきた。
「え? そんなに大規模なんですか? 第二次ノーディア王朝になって、開発は進められた、って本には書いてありましたけど……」
「元々、北シナニアのコモディア高原とかだと規模が小さくて、トビリアからは遠すぎる、というのもあって、開発が進められたところですから」
――それは、書物だけでは得られない情報だった。
「それだと、ファニア高原も、早いうちに見に行った方がいいですかね?」
「そうですね。今は、アクティア湖も賑わってる時期ですし、休暇も兼ねて行ってみるのもいいでしょうね」
タツノ副知事にも似たようなことを言われたのを思い出す。
「まあ、まずはタツノ副知事と相談ですかね」
ファニア高原で酪農が盛んだとしても、恵に牧場経営をどの程度頼めるかもわからない。
強硬な「反対派」の存在も無視できない。
それ以前に、ファニア高原に行くための旅費の確保という問題もある。
愛香のコーシニア視察のときのようには行かないだろう。
試食を終えて、一同は解散となった。
明美と恵は調理室の後片付け、美亜は被服実習室に入り、瑞希は工作室で什器を修繕、香織と愛香は部屋に戻った。
晴美と衛と和葉は、訓練場に戻って夕方まで稽古を続けるらしく、ウィンタもそれに同行した。
そして由真は、再び図書室に入る。
「消防の関係は、こちらになります」
話題に上った「消防」についてビリア司書に尋ねると、書庫の入り口近くの一角を示された。
そこには、『消防の基本』『防火の心得』といった本が置かれている。
「その、『大洋神の手』のような場合に備えた、建物の基準などは、工業の、土木建築のところにあります。石炭とか、魔法油とかの関係は、鉱工業のところです」
つい先ほど話題になった「大震災」に関わるような資料のありかも教えてくれた。
「ありがとうございます……」
そう応えつつ、由真は消防関連の本2冊を続けてめくる。いずれも、内容は消防・防火のマニュアルといったところだった。
「ジーニア支部だと、消防の専門部隊は……」
「消防署に、詰めています。ですので、ここには来ません」
――冒険者ギルドの消防部隊の詰め所を、翻訳スキルは「消防署」という言葉で通した。
「なるほど……って、これは……」
書棚の隅の方に置かれていた『大陸暦119年度 消防の概況 アトリア冒険者ギルド消防本部』という題の本が目につく。
開いてみると、アトリアギルドにおける消防の体制と、火災などの災害の件数、重大な個別事件などが記されている。
「そちらは、年次報告書です。その、見る人は、あまりいませんけど……」
年次報告書――いわゆる「白書」だ。今の由真が何より求めていた情報は「見る人はあまりいない」という状況らしい。
「済みません、こちらも、写しをいただけますか?」
――1冊しかないこの本を「借りる」のは気が引けて、由真はそう頼む。
「わかりました。他のものは、よろしいですか?」
ビリア司書が問い返してきた。書棚を改めて見ると、他はマニュアル的なものばかりであり、後でも差し支えないと思われる。
「そうですね、他のものは、特に……」
そう答えつつ窓口に目を向けると、平積みされた本が目についた。
パンにバターを塗る文化は、この世界にはありません。
欧州では、南の方の貴族がバターを食するようになったのは、中世も終わりの頃だったそうです。