156. 忘れてはならない「災厄」の記憶
前回の続き――「大洋神の手」とは何だったのか……
まず、「第4刻半」に地震が発生した。
軽く揺れ始めたと気づいた人々が周囲に注意を向けたところで、揺れは忽ちに激しさを増した。
浜にいながらも生存した者たちは、揺れは激しく立つこともできなくなったと証言している。
激しい揺れはしばらく続き、石壁が崩れ、長屋のたぐいは傾いて、港湾施設に至っては建屋が少なからず倒れた。
ただ、丘の上にあった中央神殿は、書棚がきしむほどに揺れて書籍が多少落下した程度だった。
それは、続く災厄の前兆に過ぎなかった。
東の海が大きく引き、そして浜に雪崩を打って押し寄せてきた。
人々が海水に呑まれて恐慌状態に陥ったところへ、海面が山のごとく盛り上がり、沖から浜へと怒濤が襲いかかった。
その怒濤は、人々も建物も、何もかもを呑み込み、さらには川を遡った末に、その先では小山すら超えた。
第一波の段階で丘の上に逃れることができた者たちは、以後の怒濤にも巻かれずに済んだ。
他方で、その丘の上の中央神殿は、壁と柱が徐々にきしみ、半刻ほどで建屋が半壊した。
時の都アトリア、北の港町サンドラ、マミリア、ハクティア、南の港町ハイフィア、さらには南部の中心都市シアギア。
南北に1500キロメートルを超える範囲で、このような災厄が同時に発生した。
当時、人口200万人だったアトリアで生存が確認できた者は、20万人にも達していなかったという。
アトリアの地域別の被災状況が記された綴りを見る。
それは、当時の街区ごとに被害状況の報告をまとめたものだった。
港湾施設は、最初の地震の段階ですでに倒壊し、最後は跡形も残らなかったとある。
海沿いにあった市街地の街区は、多くが「一部地震で倒壊、怒濤に呑まれ壊滅」とされていた。
丘の上は、怒濤の被害は回避し得たものの、半刻程度で大きな建屋に損傷が生じている。
南北の港町も、同様に街区は怒濤に呑まれ壊滅、港湾機能は崩壊した。
シアギアについては、灰燼に帰したという断片的証言はあるものの、アトリアのような悉皆調査の資料はない。
それでも、アトリアの悉皆調査が、発生した事象を物語っていた。
それは、「超巨大地震とそれが引き起こした大津波」だった。
沿岸地区の被害状況から「沖積平野の上は震度6程度」「港湾施設があった箇所は震度7」とわかる。
丘陵地の状況から見ると、「洪積台地の上は震度5」「ただし長周期地震動による被害あり」といったところだろう。
このような被害が、南北1500キロメートルに渡って同時に発生した。
地震の規模は、「超巨大」とされる「マグニチュード9」の水準だろう。
「混乱状態のまま、直後に反乱が発生した上に、反乱勢力、すなわちミグニア王朝は、関連資料の多くを廃棄したとみられています。この資料は、第一次ノーディア王朝がアトリアから逃れるに当たり、タクティド1世がオルヴィニアへに移すよう命ぜられたものです」
クロド支部長が言う。
「第二次ノーディア王朝の代となり、アルヴィノ7世は、大地母神様の神託を仰いだ上で、標高50メートルのアトリア台地に新市街地を建設するよう命ぜられました。
このジーニア区は、標高が70メートルあり、このときの大波が襲ってきても呑み込まれる心配はありません。そのため、当初からこの地が新都心として設計されています。
港湾については、海沿いに設けざるを得ず、旧市街のあったヨトヴィラに整備されています。ただ、この資料に基づき、標高30メートル以上の高台に避難できるよう、坂道を多く整備してあります」
――最も基本的な対策である「高台移転」。アトリアの再建に当たっては、それが十分考慮されていた。
「サンドラ、マミリア、ハクティアの3港湾都市は、旧トビリア辺境州にあり、220年以降も引き続きノーディア王国領でした。サンドラは、アスナ川河口の港湾を放棄して丘陵を背後に持つサルギアに外港を新設しています。マミリアの港湾機能はその時点では廃止し、ハクティアは、港湾をカムディア川河口からより上流に移した上で両岸の高台に避難できるよう道路を整備しています」
北部の被災地は、引き続き版図として残っていた。
それも、退位した前国王が自ら統治していた。
故に、その時点から「高台移転」が図られていた。
気になるのは、「大洋神の手」の起点――東側にある「震源地」だ。
「東の大洋の地図は、ありますか?」
「こちらになります」
ビリア司書は、背表紙に「海図集」と記された綴りを手渡してくれた。
トビリア辺境州の北東端は、鎌のように南に半島が伸びている。
その半島の先に、大小の島々が、北から南へ点々と続く。
そこには「リーフィエ列島」と記されていた。
それは、地震直後に噴火して、「夏のない年」をもたらした島々の名だった。
「この、リーフィエ列島というのは……」
「それは、その、『神々の島』と言われています。神祇官猊下なら、お詳しいと思いますけど、神々がおられるので、人は、近づかない、と、そう、言い伝えられています」
由真の問いに、ビリア司書はおずおずと答える。
「神々の……島……」
その海洋地図を見る限り、この「リーフィエ列島」は、トビリア沖からベニリア沖まで続き、ナミティア沖にも島が点在している。
そして、東の大洋は、10000キロメートルにも至るかに見える距離の果てに、おおざっぱな曲線で陸地が描かれている。
(これは、太平洋並の発散型境界がある巨大な海洋プレートか。リーフィエ列島は、この海洋プレートが、こっち側の大陸プレートに沈み込んでいる、プレート沈み込み帯の火山弧だな)
地球と同様のプレートテクトニクスがある。
そう考えると、この地形と、「219年の天変地異」を招いた「超巨大地震」の説明はつく。
(東の大洋の海洋プレート、『大洋神の手』って言うなら『ゼストプレート』ってことにするか。こっちの大陸プレートは、ひとまず『アスマプレート』ってことにして……『ゼストプレート』が『アスマプレート』に沈み込んでる途中でできたアスペリティが崩れて発生した、海溝型のプレート間逆断層地震だな。
沿岸の港が軒並み震度7とすると、単純な津波地震って訳じゃない。けど、津波の規模は、スロースリップによるものだろうから、高周波地震動とダイナミックオーバーシュートが同時に発生した……ってことか。
マグニチュード9クラスの地震があれば、火山弧の噴火は起きて当然だよな。そのせいで、少なくとも2年間は『夏のない年』になった、ってとこか)
ここに置かれていた資料――「一次史料」と言ってもよいそれのおかげで、そこまでの推測は可能になった。
「この資料は、極秘扱い、なのでしょうか?」
「はい」
由真の問いに答えたのは、クロド支部長だった。
「この『天変地異』を巡っては、ミグニア王朝による宣伝工作が盛んに行われました。『大洋神の手』という異名も、その工作によって広まったものです。
第二次ノーディア王朝に移行してからは、被災状況を説明し対策を図るよう取り組んではおりますが、それを『ノーディア王朝の宣伝工作』と誹謗する声も、ない訳ではありません。
この資料は、当時から残されてきた『生の資料』です。当時からそのまま、という意味で、正確さは保障されています。それ故に、宣伝工作云々に巻き込まれぬよう、存在も秘匿している、という次第です」
――未曾有の大震災を、政治に利用された。この世界にも、そんな歴史があった。
「なるほど……タクティド1世は、名君だったのですね」
由真は、そう口にせずにいられなかった。
ノーディア王国第8代国王タクティド1世。
東ではアスマ地方を失い、西でもダスティア王国の独立を許したため、ノーディア暦220年に退位した人物。
王国の歴史では「暗君」と扱われ、ことに「恥部」を嫌う支配階層からは存在すら無視されがちな君主。
しかし彼は、この災厄の「正確な記録」を本拠地に保存させ、維持できた領土においては「対策」も行わせた。
その措置があったからこそ、150年後にアスマを奪還したアルヴィノ7世は、アトリアの建設に当たって「震災対策」を取ることができた。
「はい。そう認める人は、多くありませんが……私も、そう思っております」
「その、私も、そう思います」
クロド支部長とビリア司書がそう応えてくれた。
「この資料は、これからも、きちんと保管して……そして、記憶を風化させずに、対策を続けないといけないですよね」
由真たちの世界――日本を襲ったあの震災と同じく。
決して忘れてはならない。
不断の備えを欠いてはならない。
悲惨な災厄を、繰り返さないために。
このお話の「世界」は、地質学的には地球と同じメカニズムを前提にしています。
そのため、初期に「世界地図」を提示した時点で、プレートテクトニクスについて大まかな設定をしていました。
「大洋」が成り立つような大規模な海洋プレートと、「大陸」が成り立つような大規模な大陸プレートが存在する、となると、両者の境界が問題になります。
ここで主人公が推測したような「沈み込み境界」の存在、そしてそれがもたらす必然としての「海溝型超巨大地震」。
それは織り込んでいました。
先々週は主人公の領地視察、先週は「カンシア勢」の話となり、今週は「地理設定を提示して…」と考えたのが、この前の日曜日でした。
そして書き貯めを開始したところ、閉架書庫に向かう話が「3月10日予約投稿」になりました。
その次を投稿するのは定例通りなら「2021年3月11日」。
あれから、ちょうど10年です。
「超巨大地震」の「裏設定」。
それをこのまま「裏設定」のままにして、そして作者の中でも風化させるか。
この日にあえて「この異世界の災厄の歴史」として提示するか。
迷った末に、あえてこの日に前回と今回のお話を予約投稿しました。
ここで描かれた「200年前の大震災」は、地震発生のメカニズムは東北地方太平洋沖地震のそれを参考とし、被害とその記録状況については「歴史地震」として宝永地震を参考としています。
(ただし、当時の君主を本文のように設定し、高台移転には配慮がなされたものとしています)
未曾有の災厄―東日本大震災から10年の日、犠牲となられた方々のご冥福を心よりお祈りします。